9.おれのための物語
次の日からはじまったシレーの授業は、思っていたのと別の意味で違っていた。
「…………」
それはたぶん、期待はずれ、と言うのが近い。
机の上に載せられた見覚えのある本と筆記用具たちに、ついぎゅうっと眉が寄った。
「……教本じゃないか」
「そりゃあ勉強時間ですからね」
おれが文句を言うのがわかっていたかのように、机の向かいに立ったシレーはさらりと言って、自分が持っている方のページをめくる。
「読みたくない」
「何故です?」
「おもしろくない」
そう言えば、昨日と同じような話ができるのではないかと期待したが、シレーは「それはそうですよ」とあっさり流した。
「目的が違いますからね。おもしろくなくても、読まなくてはいけないものもございます。勉強ですから」
なんだ、結局こいつも同じか。
がっかりした気持ちになりながら、それでも一応はページを開いたが、難しい文字や言葉だらけなのは相変わらずだ。
前より少しは知っている単語も増えたけれど、つらつらと文字が並べられ、ぎゅうとひしめきあうそれは、見ているだけで足元がそわそわしてきてしまう。
「本日は歴史の授業ということで、まずは近代史から参りましょうか」
「……」
「そもそも近代というのはどの時代のことかと言いますと、現在の新暦の元年より以降のことを指すのが一般的でございますね。旧暦の終わり、中世から近世までが新暦で区切られる理由についてはご存知ですかな?」
「……わからない」
すらすらすらと紙の上にペンを走らせるかのように話すシレーの言葉は、他の教育係とそれと同じようにどこまでか話の続きなのかがわからない。
質問された、というのはわかるが、何を聞かれたのかがわからないから、答えようがない。
きっとまた、いつものように「どこがわからないのか」「何がわからないのか」そして「どうしてわからないのか」と聞かれるに違いない。そう思うと、砂のようなざりざりとしたものが腹のあたりを撫でていき、椅子がガタガタと音を立てた。
そんな中、シレーは「ふむ」と少し考えるような顔をした。
「……そもそも近代史というのはどの時代のことかと言いますと、現在の新暦の元年より以降のことを指すのが一般的でございますね」
さっきも聞いたような話を繰り返したシレーに、首をかしげる。すると、シレーは「それでは」と続けた。
「今、殿下の聞かれた中で気になる言葉はございましたら、声に出してください。いかがです?」
「近代史」
おれの返事は決まっている。ほんとうに一番はじめのところからわからないのだと、今度こそあきれたかと思ったが、シレーはただ「なるほど、なるほど」と繰り返してあっさり手にしている教本を閉じて目を細めた。
「近代史、というのは歴史の中でもほんの少し昔から最近まで頃にあった出来事たちのことを言います。どのくらい昔かと言うと、殿下のお父上であらせられる国王陛下の、その前の前の前の国王陛下がご戴冠された頃ですな」
教本に書いていないことを急に話し始めたので、おれはどこを見たらいいのかわからなくなったが、シレーの話は止まらない。
「ちなみに、新暦のはじまりは先々々代の国王陛下であらせれたトリアレスター陛下の戴冠の儀でございますから、言い換えれば、トリアレスター陛下のご即位からトルパリア陛下の時代までが近代ということでございます」
「待て、ちょっと待て」
そのままずっと話続けようとするので、おれは思わず止めた。
「そんなふうに一気に言われたって、覚えられないぞ」
説明そのものは、教本を読むよりもずっとわかりやすかったけれど、聞き取るのがやっとすぎてところどころはもう思い出せない。
そう言うと、シレーは「誰だってすぐには覚えられません」と笑った。
「だから勉強というものをするのですよ。何度も聞いて、何度も読んで、思い出しながら書く。それを反復……繰り返すことで、覚えていくのです」
シレーはゆっくり近付いてくると、机の上に広げられたまっさらな紙の上を指で撫でていった。
「一度聞いただけで全てを覚えていられるなら、教本なんていらないんです。人は忘れる。ですから、文字にして、記録にして、本になるわけですな」
それは、以前メイラの言っていたこととどこか似ていて、そうなのか、と素直に思えた。
ただ、それを口にするのはなんだか妙に悔しかったので、おれは開かれたままの教本を見下ろす。
「だが……教本は、わからないことだらけだから、おれには読めないぞ」
「なるほど」
それが口癖かのようにまた言って頷いたシレーは「それはそうですよね」とひとり何かに納得したように呟いた。
それから、シレーは確認作業のように、あれはわかるか、これはどう思うと聞いてきた。休憩時間のお茶にまで同席してきて、その間もずっとしゃべって、よく疲れないな、と思う。
メイラも、彼が帰ってからふと「喋らないと死ぬ呪いでもかかっていらっしゃるのかと思いました」なんて呟いたぐらいだ。
けれどその日、おれははじめて一度も怒鳴ったり物を投げたりしないまま、授業の時間を過ごしたのだった。
***
結局あれから、シレーは教本を使った授業をすることはほとんどなかった。
一応最初は開くし、話しはするけれど、おれがわからなくなった途端に「それでは」と話が脱線するのだ。
同じページを読んでいたはずなのに、話す内容も毎回違う。近代史だけで言うと、先々々代皇帝のトリアレスター陛下の戴冠式で宣言された新暦の発令のこと。その前の年に起きたアーバレー川の大氾濫。国策としての治水工事で起こった不正のひどさ。当時流行っていた歌と、人気だった歌姫の名前など、様々だ。
本も何も持たずにそれだけをすらすらと話せるのだから、人は忘れる、というのはシレーには当てはまらないんじゃないかと疑ってしまう。
その間、おれが大人しくできていたかというと、実はそうでもない。シレーの話は面白い時もあれば、ひどく面倒くさい時もあって、バンッと思わず机を叩いたり、怒鳴ってしてしまうことは何度もあった。
が、シレーはなんと言うか掴みどころがない、というやつで、驚きはするけど怯えたりするようなこともなく、しれっと違う話に切り替えてしまう。
本当に人間か、と疑って「服を脱いでみろ」と言ってみたことがあるが「いやん、えっち」とよくわからないことを変な声で言われ、妙にムカついたので服の下が人間なのかはまだ確かめられてはいない。
そうやって何日か過ぎていったある日、シレーが一冊の本を持ってきた。
授業の終わりに渡されたそれは、これまでの教本とはなんだか表紙の手触りが違っていて、少し変わった匂いがしている。
題名はついていなくて、厚みもあまりない。変わった本だなと思って開いてみて、驚いた。
開いたぜんぶに絵が描いてあって、小さな点と文字が散らばっている。
「これは、地図か」
さらに次のページには、登場人物、という銘で何人かの男女が描かれていて、その名前と肩書きが並んでいた。
「……教本じゃない」
びっくりしていると、シレーはにっこりと笑った。
「ぜひお持ち帰りいただいて、読んでみてください」
言われて持ち帰ったその夜。寝室でそれを開き、おれはお茶を飲むのも忘れて次々とページをめくった。
それは、精霊の国からやってきたひとりの冒険家が、人間の国を探検していく物語になっていた。
ある日、精霊の国と我が国の間で門が開いてしまい、その冒険家はそこから転がり出てしまう。
小さな村にたどり着いた冒険家は、そこに住む人たちに色々なことをたずねて回る。すると、あまりに何も知らないことや身なりが良かったせいで貴族と勘違いされて、領主のもとへ連れて行かれてしまうのだ。
そこでは更に年寄りの領主が、その冒険家を自分の孫だと思い込んでしまったので、彼は仕方なく貴族の真似事をすることになる、そんな話だ。
「…………」
礼儀作法がわからず、領主に孫じゃないとばれないように執事に特訓してもらう冒険家。買い物にでかけて、金貨と銀貨の違いもわからなくて失敗し、親切な人にお釣りを取り替えしてもらっていた。
そうして出かけた先では、領地にある大きな川がかつて氾濫を起こしたことや、どう対策してきたのかを村の人に語ってもらいながら、土地の歴史を知っていく。
これは、寓話だ。
おれに向けられた、例え話。
けれどそれは、かつて教育係たちが与えてきた、悪意と嘲笑の込められた「お前はこんなにも足りない」とつきつけるようなそれではなくて、ただおれに「こう言うことがあるんだよ」と「こうすることもできるんだよ」と伝えるために、書かれているのだ。
「……ぅう、……」
目のあたりがじん、とかゆくなって、こすると手が濡れていた。頬のあたりまでくすぐったいのが広がっていって、あごまで伝った雫に、涙だとわかった。
「う……ぅえ……ひっく」
なんでこんなに涙が出てくるのかわからない。胸がぎゅうっとしているけど悔しいのでもなくて、喉がつまっているのに苦しいのでもない。
とても大きな怪我をしていて、それがとても痛かったことを今思い出したかのような、そんな感覚が、いつの間にか眠りに落ちてしまうまでずっとおれの中でドクドクと息をしていた。




