2.俺が"おれ"だった頃のはなし
大陸の中央に座し、五つの国と隣り合いながら均衡を保ち続ける交易の中心地、"中央の大船"と称されるマンナーカノ王国。
大国にも賢王と名を知られるトルパリア国王とその妃、麗しのシェリアーナの、ただひとりの王子。
それがこのおれ、トリアンリート・マンナーカノだった。
とうさまからは金色の髪と鮮やかなみどりの目、かあさまからは目や口、鼻のかたちの美しさをもらって生まれたことで、おれはずいぶん将来を期待されていたらしい。
けれど、そっくりだったのは色と容姿くらいで、それ以外のところはさっぱり似ていないということが、歳があがっていくたびにはっきりしていった。
もちろんそれは、悪いほうの意味でだ。
***
「——それ以降、オートナリ帝国とウェーニアル王国は三十年に渡る通商条約を……殿下? そのページではございませんよ」
「……っ、うるさい!」
壁に掛けられた額縁を前にたんたんと話していた教育係がふりかえって眉を寄せたのに、おれはバンッと机を叩いた。
思いのほか大きな音がして、部屋のはしにいた使用人がびくりとなったのが見える。
べつに、聞いていなかったわけではなくて、どこを読んでいるのかがわからなかったのだが、教育係の年寄りは少し引きつった顔をして「殿下」とゆっくり言った。
「今は歴史のお時間です。余所見をなさらず、ご辛抱なされませ」
「うるさい! ちゃんと聞いている!」
なんとなくガマンしろと言っているのがわかって文句を言ったが、教育係は面倒くさそうに首をふった。
「殿下……」
「おまえの話しかたが悪いのだ。もっと、わかるように話せ」
「殿下、またそのような」
わがままを言うな、とその目が言っているのに、気付けばおれの手は書物を机の上から払っていた。
ぶ厚い表紙が床をドンっと鳴らしたあとで、バサッと紙が広がる音がする。慌てたように侍女がそれを拾いあげるのを横目に見ながら、おれは教育係をにらんだ。
「わからないと言っているのがわからないのかっ!」
声をあげながら「わからない」以外の言葉が出てこないことに、おれはぎゅうっと手のひらを握りしめた。
おれにとって、わからない、ということの中身を口にするのはひどく難しいことだった。
とうさまよりも年上な教育係たちはみんな、知らない言葉ばっかり使い、グラスに注がれる水が立てる音のようにしゃべるので、どこが区切り目なのかさえ、おれにはよくわからない。
「どこがわからないとおっしゃるので?」
わからない。
壁に掛けられた文書の文字だって、ほとんどがむずかしくて読めないのに。
「お答えられないのですか?」
だって、最初っから話してることがわからないのだから、答えようがい。
「では、何がわからないのですか」
わからないしか言えずにだんだんと黙りこむしかなくなると、教師たちはみんな、面倒だという言葉を飲み込ん目で笑ってこう言うのだ。
「きちんと聞いていればそのうちわかりますよ」
「勉強をおろそかになさると、立派な王にはなれませんぞ」
そうすると、喉のあたりがぎゅうっとしぼられたようになって、ぱちぱちと目の前で赤いひかりが弾け、ぎゃあぎゃあと言葉にできない音を叫んで暴れるしか、頭や胸のあたりでぐちゃぐちゃになったものを吐き出すやり方がわからなかった。
自分でもそんなことをしたってどうにもならないとわかっているのに、手元にあったものを手当たり次第に投げ、叩き、蹴りつける。
あつい湯につかった時のように真っ赤に染まった頭の中が熱を失ってしまうまで、体が勝手に暴れまわるのを止められなかった。
いくらかして気付いた時には、床にちぎれたクッションからこぼれた羽が散らばり、カーペットはグラスやカップの破片や、お茶でぐっしょり濡れて台無しになっていて、おれの暴れかたのひどさが目に見える形で広がっていた。
けれどそれらもすぐに取り替えられて無かったことになって、なぜだかそれがひどく、胸をかりかりひっかいた。
そんなことのくり返しで、ひとり、またひとりと教育係や身の回りを世話する人間が変わっていった。
最初は驚いていた彼らも、しばらくするとおれのしでかしたことに嫌そうな顔をする。あるいは、怖がったり、あきれたような顔をして離れていった。
じゃあ物を壊さないように出ていこうとして、いちばん近くにあった窓から飛び出そうとすれば、たくさんの叫び声があがって大騒ぎになった。どうしろって言うんだ。
「窓から落ちたら、怪我をなさってしまいます」
侍女たちの中でいちばん若く、真っ先におれの服を掴んだメイラという名の女性が、青くなった顔で言った。
すると、後ろからきた年かさの侍女が、顔に汗をかきながら「二度となさらないでください」と固い声で言う。
「たいせつな御身を損ねるようなことがあってはなりません。殿下はこの国ただひとりの王子であらせられるのですから」
その言葉は、なんだか喉のあたりをざらざらとさせたけれど、おれにはやっぱりその感覚をどう言えばいいのかわからないのだった。
***
そんなことがあったせいだろう。
翌日、教育係といっしょに騎士たちがやって来た。
「陛下より、事態の折りは御身に触れる許可を頂いておりますので、ご承知おきくださいますよう」
要するに、おれが暴れたら取り押さえていい、と、とうさまから許可をもらっている、ということらしい。
そうは言われても、おれだって別に暴れたくてそうしているわけじゃない。ばちばちと頭のなかが弾けて、手足が勝手に動いてしまうのは、おれのせいじゃない。
溶けかけたチョコレートのようにどろっとしたものが体のなかを回っていくような気持ちは、余計にイライラを増させた。
だからだろうか、いつものように教育係がいやな笑いかたをしたことで、おれの手はバチンっとバネの弾けたように気付けば机をひっくり返そうとしたので、騎士がおれの体に飛び付いてきた。
「大人しくなさいませ!」
大きな手がおれを掴み、体ごと持ち上げて捕まえる。
急に足が床から離されたことに驚いたし、ぎゅうとおれの体をしめつける力があんまり強くて、頭のなかがびりびりと震えた。
怖い。いやだ。苦しい。怖い。
訳のわからないもを遠ざけようとして、おれの手足は必死に暴れてまわる。そうすると騎士の腕の力も余計に強くなって、もみくちゃになっている内に、突然頬の辺りがちりちりと熱くなった。
騎士の胸についていた飾りが頬を擦ってケガをしたのだ、と気付いたのは、それが痛みに変わってからだった。
「……っ」
「殿下!」
その時は、窓から飛び出そうとした時よりも大騒ぎになった。
***
「へいかにおか、おかれましては、ごきげん、う、うるわしく……」
「形式の挨拶は良い。座りなさい」
数日して、とうさまがおれの住んでる建物——王子宮にやって来た。
久しぶりにお会いするとうさまは、うまく挨拶の言葉が出てこないおれに静かに言って向かいのソファに座ると、騎士たちを部屋の隅にやってから「怪我は」と聞いてきた。
「ええと、もう、治りました」
「ならばよい」
頷いて、とうさまはあの大騒ぎになった「事件」について、どうなったかを教えてくれた。
おれの頬にできた傷なんて痛くもなんともなかったのに、おれに怪我をさせたやつは、そのせいでお城を出ていかなきゃいけなくなったのだそうだ。
「どうして……なのですか」
「王族というものはそういうものだ」
とうさまは変わらない低い声で言った。
「我々王族は、貴族たちの上に立つ存在だ。国民を守る義務を果たすためには、我々自身もまた、守られなければならない」
「……おれが怪我したのは、おれのせいなのに?」
おれだって、じぶんが悪かったことぐらいは分かっていた。けれど、ごめんと謝ることも、王族には許されないのだととうさまは言う。
「我々は、誰も傷付けてはならぬ尊い身であると示さなければならないのだ。人は、権威のない者の言葉に従いはしないものだから」
「……そんなの」
口を開いたけれど、何を言ったらいいのかわからなかった。おれは、おれがそんなふうに大事にしなきゃいけないような奴だなんて、なんだか納得できない。
つぶやくこともできなかった言葉は誰にもひろってもらえるわけもなくて、おれのまわりからは、ますますみんなが遠ざかるようになっていった。
おれだって、いやがる奴がそばにいない方がいいし、ほんとうは怪我なんてさせたいわけじゃないから、最初から追い払ったほうがいい。
ヴェリアルデとはじめて顔をあわせたのは、そんなふうに思っていた頃のことだった。
トリアンリートの過去編は、ヴェリアルデ編までとは違って、しばらく少し重たい話が続きます。
短編版とは違い、彼の今後はヴェリアルデやドミトリウスの未来にも繋がっていきますので、お付き合いいただけますと幸いです。




