9.流石にそれはちょっと、はしたないのではなくて?
「ヴェリアルデ様ひどいですぅ……」
学院の授業を終え、馬車の用意を待つためにテラス席に腰掛けていた時のことだ。
ソファの背後から、瓶からこぼれた蜂蜜のような声が聞こえてきた。
振り返らずともシェリリエ嬢のものだとわかって、わたくしはとりあえずティーカップを持ち上げて口を湿らせた。
今日の紅茶は花の香りを楽しむタイプのものなので、ゆっくり長く蒸らしてあるぶん温度は低めだ。
「ヴェリアルデ様?」
その代わりにカッブが暖められているので、温いということもない丁度良い温度で、喉から鼻腔までを華やかな香りが心地よく通っていく。
「ヴェリアルデ様? ヴェリアルデ様ぁ??」
香り用の花が混ざったぶんだけ、お茶の味としては少し弱いけれど、馬車を待つ間のお茶請けもないタイミングであるなら、このくらいあっさりしている方が良い。さすがわたくしの侍女、よくわかっておりますわ。
「ヴェリアルデ様ぁ? 無視されるんですかぁ?」
そうして一杯を嗜む間に、侍女のうちのひとりがすすっと後ろへ下がると「ちょっと、何するんですが!?」「離しなさいよ!」という、ちょっとピリ辛な高い囀りが遠ざかっていく。
「……なんだったんですかね、アレ」
「さあ……」
残った侍女が微妙な目をするのに、わたくしは首をかしげて見せた。いえまあ、あれが誰かだったかはわかっておりますけれども、わたくしにどんな反応を期待していたのかは、皆目見当がつかない。
わたくし、彼女に名前を呼ぶことを許した覚えがありませんし、酷いと言われましても、そもそも挨拶も交わしたこともない相手。貴族としてはまだ「知らない人」ということになりますのに、彼女はご存知なかったのかしら?
「まだ男爵家に入ったばかりだということですし、礼儀作法もまだこれからなのでしょう」
「それ以前の問題では?」
わたくしの侍女は直球だ。
苦笑して、馬車の準備が整ったとの報せに席を立った。
察するに、何がしかわたくしへの言い掛かりを付けようとしたのだろうとは思うけれども、あれではそもそも相手にして差し上げられない。
「まあ、今後に期待というところですわね」
と、その時はゆるく流したのだけれども、シェリリエ嬢は思いの外諦めが悪いと言うのか、しぶといというのか、その後も何かとわたくしの近くへ現れるようになった。
「ヴェリアルデ様ぁ、無視なさるんですか??」
「わたしが庶民出だから、挨拶もしたくないってことなんですかぁ?」
「ヴェリアルデ様ひどいですぅ……わたし、仲良くなりたいだけなのにぃ……」
教室の近く、廊下の途中、またもテラスの傍らなど、場所も時間も選ばないのはむしろあっぱれと言うべきか。
ぱっちりした目をうるうると湿らせ、可愛らしい顔を悲しげにしながら俯くと儚げな少女のように見える。
ご自身の武器を良くわかっていらっしゃる、と内心で感心していたが、まあだから何、と言いますか。
「ごきげんよう、ヒーデル侯爵令嬢。次の授業の件で、少しよろしくて?」
「ヒーデル侯爵令嬢、先日の夜会では兄がお世話に」
この学園に通うのは、爵位こそ違えど皆貴族なのだ。
名前を呼ばれたわたくしが、彼女に向けて一言も声を発さないという態度ひとつで事情を察し、場を辞するための助け船を出してくれる。
「あのぉ、わたしが話してるんですけどぉ……」
わたくしが一向に反応ひとつ寄越さないことに、とうとうしびれを切らしたのか。
ある日の廊下でシェリリエ嬢がか細くも恨めしそうな声で訴えたが、周囲の反応は冷ややかだ。彼女の態度では、わたくしたちは「話し掛けられた」と認識することはない。
それが理解できないのか、シェリリエ嬢は近くにいた男子生徒にちらりと視線を向け、潤んだ目を上目遣いにしながらしなっと体を弱々しげにして見せた。
すばらしい視線誘導だったが、彼も見ているようで見ていない、という絶妙な視線で無表情を決め込んでいる。
「……ひどい……」
どうするのかしら、と見ているとシェリリエ嬢は眉をぐっと下げてふるふると小動物のように震えはじめると、わっと顔を覆って声をあげた。
「ひどいです、ヴェリアルデ様……わたしを無視するようにみなさんに命令するなんて!」
はい?
あまりにトンチンカンな言葉が聞こえたので思わず反応しそうになったのをぐっと堪えていると、その場の空気がすんっと下がった。
一斉にその視線がシェリリエ嬢へ注がれたが、みなさんの目は据わっている。
当然ですわね。
しつこいようですけれど、この学院に通うのは皆貴族なのだ。子供ではあれど、ひとりひとりが家の名前を背負っている。
そして学院へ通う学生の半数は、高位貴族としての矜持も高くていらっしゃる方々だ。
そんな彼らに「わたくしの命令に従っている」なんて言おうものなら!
「……ここが学院の中であることが残念ですわ」
わたくしのすぐ近くにいた令嬢がポツリと呟き、自身の左手をさする。あれは決闘のために投げつける手袋がないのが残念だという意味ですわね。
シェリリエ嬢は、自身が投げつけた言葉がまさかわたくし以外の学生たちへの侮辱になっているとは思いもよらないのだろう。
「……う、うう……」
突然悪くなった空気に戸惑ったようだったが、すぐに切り替え、嗚咽を堪えるような風を装いながら「ひどい、ヴェリアルデ様ひどい」としつこく口にしながらそそくさと去って行ったのだった。
***
そんなことが何回も続くと、さすがにこの方法では意味がないと察したらしい。
シェリリエ嬢は作戦を変えたようで、わたくしの周りで謎の言い掛かりを付けてくることはなくなった、のだけれど。
「……さすがに目に余りますわね」
わたくしはぐりぐりとコメカミを押さえた。
これまでも何かと殿下のそばにくっついて回っていたシェリリエ嬢だったのだが、ここ最近の彼女は学院のあらゆる場所でトリアンリート殿下との睦まじさをアピールするようになったのだ。
具体的には、トリアンリート殿下の腕をとってぎゅっと胸元に抱き締めたりとか、ベンチに並んでその膝の上に手を置いて身を乗り出したりとか――いやこれ、睦まじいとかではなくてよ。はしたないと言うのですわ。
その内足とか絡めたりするのではなくて? 学院は酒場ではなくてよ! 破廉恥ですわ!
と、まあ、そのようなこと、人の目の無いところならご自由にどうぞと言うところだけれど、廊下で、食堂で、中庭で、と、やたら目立つところでやからすのだ。
その頻度と場所の選び方から考えるに、わたくしに喧嘩を売っているつもりっぽいのですけれど、どちらかと言うと喧嘩を売られたのは学院の風紀を管理する職員たちである。
彼らは何度も「公共の礼儀を弁えるように」とシェリリエ嬢に注意したが「殿下が拒まれていない」という理由で全く聞き入れようとしないらしい。
殿下においては、そもそも話も聞いてくれない有り様だと言う。さもありなん。
教職員たちの、婚約者だろ何とかしてくれよという熱い視線がしょっちゅうわたくしに飛んでくるのだけれど、正直どうでも良かった。
シェリリエ嬢にとっては、トリアンリート殿下の婚約者という存在は寵愛を奪い合う相手なのでしょうけれど、わたくしにとって殿下の恋人というのは、業務部門の違う同僚くらいの存在だ。
わたくしの役目はあくまで公務のサポート役で、愛だのなんだのを交わす担当ではないのだから、わたくしのことなど気にせず青春を謳歌なさればよろしいと思う。
とは言え、このまま放置するのはさすがに学院の風紀的によろしくはないし、正直、シェリリエ嬢では、側妃にするにも妾にするにもあまりに色々なものが足りなさすぎる。
殿下の評判、ひいては王家の評価にも関わることなので、領地にいる両親に相談の手紙を送ったのだが、返ってきたのは意外にも「配慮は不要」との言葉だった。
「……このまま、放置して良いということですの? あのお嬢さんを?」
どちらかと言うと、母などは「ここまであからさまに喧嘩を売られたからにはお応えさしあげないと」とか言い出しそうなものだが。
父からの手紙曰く、現状については王室も把握していることであり、諸般の事情があるため申し訳ないが殿下の周辺については静観して欲しい、とのことである。
詳しくは書かれていなかったが、恐らく陛下と父の間で何かしらの約束が交わされているのだろう。
そういうことならば、多少モヤモヤとはするものの、わたくしが関与すべきことではない。
だから、彼らが些か目に余るような振る舞いをしていても放置してきたのだが――思わぬところで問題が発生した。
***
「それは……確かですの……?」
「間違いない情報ですわ」
学期末の挨拶を終えたばかりの放課後の教室にて。
わたくしの友人であり将来の王妃付き女官候補であるミリシア・バリツエー伯爵令嬢が、真剣な顔で頷いた。
この学年に、今年から隣国オートナリ帝国皇弟、ドミトリウス・ジル・オートナリ殿下が留学生として編入なさると言うのだ。




