記憶の甘味
騎兵隊の訓練は、ほぼ毎日、勤めのない者が隊を越えて集まってくる。
騎兵としての修練は、どの隊であろうと変わらないし、基本的に黒騎士は、所属の隊が違ったとしても連携の訓練などもあるため、部隊同士の関係は良好なのだ。
今日も、グレイとロックが見守る中、騎兵隊の者達が、めいめいの武器を手に、それぞれ手合わせや見習い達の訓練などに精を出していた。
だが、今日は、いつになく人数が多い。それを、グレイとロックは感じていた。
もちろん、その理由もわかっている。それは、訓練場の隅にいる、師弟である。
「マーヤ、あと一歩踏み込んで」
「はい!」
「左が空いた。もっと脇を締める。軸もずれた」
「はい!」
左で練習用の細剣を、右で指揮棒をふるい、マーヤの剣を受けながらその隙を教えるように指揮棒で軽く叩いて指摘する。
普通に、しかも利き手ではない左で剣を振るいながら、指揮棒の方は力を入れずに加減しているのである。
どうやらサーレスは、知らぬ間に夫の剣技も学んでいたらしい。
大変器用な使い方をしているが、おそらくこれは、クラウスにもできない技だろう。
片手には力を入れ、相手の全力の剣を受け、さらに受け流し、それでいて、もう片方の手は相手の体に負担にならない程度の力に加減して体に打ち込んでいるのだ。
それを見ていた隊長二人は、思わず漏れる感嘆の声を抑えられなかった。
マーヤと同じ見習い達は、暇があればその技を見ており、マーヤの訓練がひと息ついた時に、サーレスに師事を仰ぐべく、その機会を窺っている。
マーヤの技は、結婚式のための儀礼剣技から、すでに見習いの域を出る勢いで成長している。
他の見習い達は、今までずっと最下位にいたマーヤが、一足飛びで正騎士に近づいているのを見て、気が急いているのだろう。
サーレスは、基本的にマーヤにしか技を教えない。
しかし、様子を見て、指摘はしてくれる。それがあるので、訓練の監督である隊長達にとってもサーレスが訓練に参加するのは大変ありがたいことなのだ。
ゆえに、見習い達がサーレスの元に集まるのは、隊長達も黙認していた。
しかし、いつになく熱のこもった訓練場は、今日に限っては正騎士たちにも影響を及ぼしていた。
この訓練場は、すぐ近くに調理場がある。
いつも、訓練で空腹になった騎士たちが、これはなんの拷問だと嘆く理由になっているのだが、今日はそこから、バターの焦げる、素晴らしく良い匂いが漂っていたのである。
訓練ですでに昼の食事を消化したらしい騎士たちにしてみたら、これ以上強力な攻撃もないだろう。
しかも、これを作っている相手もわかっているとなれば、腹も視線も調理場に集中するのも致し方ない。
この時間、ユリアが城の調理場で、カセルアの料理を料理長達に実演講習しているのは、すでに城のほぼ全員に知れ渡っている事実である。そして、バターと小麦の甘い香りとなれば、菓子を作っているに違いない。
さらにさらに。
今日、彼女の主人であるサーレスは、ここにいる。
つまり、サーレスの元にユリアが菓子を持ってくるのはほぼ確実なのだ。
今か今かと、正騎士まで気も漫ろのこの状況に、ロックもグレイも、ため息を吐いた。
「今日は訓練どころじゃないな」
「全員が全員、甘党ってわけでもないんだがなあ。まあしょうがない。そのかわり、休憩のあとは、うかつに俺の前で気を抜いた事を後悔させてやる」
ニヤリとロックが笑むと、グレイも肩をすくめ、笑みを見せた。
ユリアが姿を見せたのは、それからすぐの事だった。
なぜか響めきをもって迎えられたユリアは、首を傾げながらもサーレスとマーヤのためにその場でお茶の支度を整える。
ふわりと揺れるお仕着せの裾捌きの優雅な様に、訓練中の騎士たちの集中は完全に途切れた。
ユリアの周囲で、そわそわと様子を窺い、まったく訓練に意識が向かなくなった騎士たちを見て、隊長二人は頭を抱えることになった。
ユリアはそれを歯牙にかけることなくお茶の用意を済ませると、サーレスとマーヤに声をかけた。
二人が休憩をはじめたのを確認して、共に持ってきていた大きなバスケットを手に取り、隊長二人に歩み寄ると、軽いお辞儀のあと、にっこり微笑み、バスケットを差し出した。
「皆さん休憩の時にでも、どうぞ召し上がってください」
そのとたん、わっと騎士たちは盛り上がり、皆が一斉に武器を降ろした。どうやら、隊長達の号令も待たずに休憩が決定したらしい。
差し出されたロックがそのバスケットを受け取ると、ずしりと重い。ユリアが軽々と持っていたように見えたのに、驚くほどに重かったそのバスケットの中には、ありとあらゆる焼き菓子が入っているように見えた。
「料理長や執事さんの試作品も入っています。試作ではありますけれど、お味は保証しますわ」
ユリアの手作りではなかったためか、若干名あきらかに落胆した者もいたが、ロックが順番に菓子を配ると、それぞれが休憩で散っていった。
「……グレイさん」
「なにか?」
その場に残ったまま、ロックの様子を見ていたユリアが、突然振り返るとグレイの腕を取り、その場を離れるように腕を引く。
女性の力で多少引かれた程度で動くような体ではないが、その時グレイは抵抗することなく、そのユリアの手を受け入れていた。
広場から、十分離れた場所で、ユリアは腰につけてあったポーチから、保存瓶を取り出した。
ジャムなどを入れるような陶器の瓶を、グレイに差し出す。
「グレイさんには、こちらです」
にこっと微笑み、保存瓶の蓋を開けたユリアは、それをグレイに差し出した。
その差し出された瓶の中に入っているものを見て、グレイは息を飲んだ。
それは、エクルという名の、故郷の菓子だった。
グレイが十になる前に離れる事になった、故郷でしか見た事のない菓子だった。
「酒場の女将さんにレシピを教えていただいたんです。お口に合うかどうかはわからないんですが」
たっぷりの黄金色の液体に浸された一口大の菓子が、保存瓶の中に詰められていた。
外から見る限り、その中には、丸い菓子と共に、なにやら木の枝のような物や小さな木の実らしき物が漬けられているように見える。
小さなピックでひとつ刺したものを、ユリアに差し出され、グレイは恐る恐る手に取った。
口に含み、そして、驚きに固まる。
「……うちの味だ。なぜ……。リウも、この味付けは知らないはずだ」
「女将さんにお尋ねした時、これはそれぞれの家庭で味が違うものだとお聞きしたんです。グレイさんの家のレシピはわからないとのことでしたけど、食べたことはあるとお聞きして、詳しく味の特徴を教えていただいたんです。あとは、私の推測で、中に入れる物を工夫しました」
遙か昔、グレイがまだ故郷にいた頃に食べていた揚げ菓子の蜂蜜漬けだった。
ヤギのバターとチーズをふんだんに使い、蜂蜜とスパイスを混ぜ合わせたシロップに漬け込む、極甘の菓子だ。
小麦や蜂蜜は高価なので、季節毎、手に入った時に作って、祭事や宴会の席だけで出されていた。
子供の頃に故郷から離れたグレイはそれほど数を食べたわけではなかったが、それでも、その味は確かに舌に刻み込まれている。
このあたりでは、なかなか材料が手に入らない。別の物をかわりに使って作ると、納得する味がでないと、いつもリウはさんざん愚痴ていた。
だが、そのリウの作る味も、グレイの知る味ではない。
しかし、差し出されたこれを口にして、グレイが感じたのは、間違いなく故郷の、母の、そして姉の存在だった。
「……女将さんが、グレイさんは絶対に自分の作る里の味は口にしないと仰ったんです」
まるで、心を見抜いたように、ユリアは告げた。
「グレイさんには、グレイさんの家の味があるから、自分の物を口にして、それを無くすのを恐れている。そう仰ってました」
呆然としたグレイに、ユリアは微笑みながら、保存瓶に蓋をして差し出した。
「グレイさんのご実家で作られた物とは、味を似せただけの別物でしょうが……。よろしければ、お持ちください」
差し出された瓶を見て、グレイは一瞬、躊躇いを見せた。
「本当は、グレイさんにちゃんとお聞きして作りたかったのですけど、それだときっと、グレイさんはこれを受け入れてくださらないと思ったので、できるだけ似せてからと思って、がんばってみました」
差し出された瓶を、両手で、まるで繊細な細工物を扱うように、そっと受け取る。
「……どうして……これを」
「……以前、カセルアにいた時に、無理を言ったお詫びです。どうせなら、グレイさんが一番驚く物をと思ったんです。それで、女将さんに相談したら、これはどうかと。自分が作った物は食べないけれど、私が作った物は食べるかもしれないからと仰って。でも、グレイさんが大切にしている味なら、それを壊すような真似はしたくありませんでしたから、どうせなら、グレイさんの覚えてらっしゃるはずのお味を再現できないかと思って……。完成するまでに、ひと冬かかりましたけど、いかがでしょうか?」
ユリアは、なんでもない事のように微笑んで言うが、それが並大抵の事ではないのは、料理など門外漢のグレイでもわかる。
同じ大陸にある国同士でも、さらに隣同士にある国でもその味覚に変化がある。現にブレストアとカセルアでは、素材も違えばその素材の保存方法も、調味料も調理法も変化する。調理の方法が変わるなら、器具ですら変化する。
ましてや、今までまったく未知だった国の料理を、ほんの数回食べたくらいで再現できるはずもない。
さらには、話に聞いただけの味を再現するなど、無理にもほどがある。
しかしそれを、なんでもないように再現した有能すぎる女性は、ただ目の前でにっこり微笑み、そんな苦労を一瞬も感じさせなかった。
「……覚えている限りは、違いがわからない」
「そうですか」
ほっとしたように微笑んだユリアの前で、まるで見えない何かに祈るように、グレイはその小さな陶器の入れ物を捧げ持った。
「……また、会えるとは思わなかった。里から出た時、俺には、この体と、体が覚えている限りの事しか、里に繋がる物はなかった。……覚えているはずの味も、何もかもが遠い記憶でしかない。もう、消えたのだと、思っていた。だが……ちゃんと、覚えているんだな」
ほんの僅かな細い糸。その繋がりを、このたったひと瓶、一欠片の菓子が、繋げてくれた。
「……他のお料理も、習いました」
ユリアの言葉に、グレイはゆるゆると視線を向ける。
ユリアは、いつものように微笑んでいた。
「次に何かを作る時は、お味、教えてくださいますか。また、作ってみますから。グレイさんのお里では、文字は無かったから、味を書き記す事は考えてもいなかったのだと女将さんは仰ってましたけど、私は文字が使えます。同じ味は、何度でも再現しますし、他の方に伝える事もできます。……私がここから居なくなっても、女将さんにそれを見せれば、グレイさんのお味のお料理もできるようになりますよ」
それだけ言うと、ユリアは優雅にお辞儀して、くるりと身を翻すと、そのまま再び広場に向かう。
彼女の仕事は、主人であるサーレスの傍にいる事。そしてその主人のために動く事。
けれど、今、ユリアがこの場にいたのは、間違いなく彼女の意思だった。
鮮やかにその場を去ったユリアの姿が見えなくなってから、グレイは再び、一欠片を口に含む。
その味は、思い出の物よりも、そしてつい先程口にした時よりも、幾分甘く感じる物だった。