5
窓から差しこむ光が、静の横顔を、やわらかく縁取っていた。
姫華は、膝の上で手をそろえたまま、気づけば静を見つめていた。
茶色い髪が、肩の上でさらりと揺れている。伏せた目には、長いまつげが影を落としていた。白いシャツの襟もとから、細い首筋がのぞく。遠くの空をながめる横顔は、どこか儚げで、触れたら消えてしまいそうなほどだった。
まるで、一枚の絵のようだった。
(なんて、お綺麗なのかしら)
姫華は、ほうっと小さく息をついた。頬が、じんわり熱くなる。見つめすぎだと分かっているのに、視線をそらせなかった。
静が、ふとこちらを向いた。
目が合う。
姫華は、あわてて視線を落とし、テーブルの花に目をやった。心臓が、ことこと速く鳴っている。
「……あの、静様」
「はい」
「いま、お仕事は、警察官をされているというのは、本当ですか?」
静は少しだけ目を丸くして、それから、やわらかく笑った。
「はい。兄から、聞いたんですか?」
姫華は、こくりとうなずいた。
「警察官の前は、煌びやかなお店で働かれていたと、うかがいましたわ」
静の笑顔が、一瞬だけ、止まった。
それから、苦笑いに変わる。眉を少し下げて、困ったように首を傾けた。
「……相変わらず兄は、口が軽いですね」
「まあ」
姫華は、口もとに手を当てて、くすくすと笑った。静のほんの少し崩れた表情が、なんだかうれしかった。いつもの完璧な笑顔より、ずっと近くに感じられた。
「警察官のお仕事は、大変ではありませんの?」
「そうですね。大変なこともありますが、やりがいはあります」
静は、さらりと答えた。それから、話題を変えるように、穏やかに聞き返した。
「姫華さんは、いまはなにをされているんですか?」
「わたくしは…」
姫華は、少し背筋を伸ばした。
「大学に通いながら、父の会社で、経営のお手伝いをしていますわ」
「そうなんですね」
静は、感心したように目を細めた。
「若いのに、ご立派ですね」
「そ、そんな。まだまだ、半人前ですわ」
姫華は、あわてて両手を振った。耳の先まで赤くなっている。褒められ慣れているはずなのに、静に言われると、なぜか、胸がくすぐったい。
「毎日、失敗ばかりで。父にも、叱られてばかりですのよ」
「それでも、続けているのは、すごいことだと思います」
静が、やさしい声で言った。
姫華は一瞬言葉をなくして、ぽかんと静を見つめた。それから、うれしそうに、はにかんで笑った。
「……褒めていただき、ありがとうございます、静様」
ちょうどそのとき、給仕が、銀のワゴンを押して近づいてきた。
「お待たせいたしました」
白い皿が、ふたりの前に、静かに置かれる。
最初の一皿は、オマール海老のスープだった。深い橙色のスープが、白い皿の中で、つやつやと光っている。表面には、薄く泡がのっていて、ちぎったハーブが、ひと葉だけ浮かんでいた。
「オマール海老のビスクでございます。殻から、じっくりと出汁をとり、生クリームと合わせております。どうぞ、温かいうちにお召し上がりください」
給仕は、丁寧に説明して、一礼して下がった。
「いただきます」
静は、スプーンを手にとった。ひとくち、口に運ぶ。
濃厚な海老の香りが、ふわっと口の中に広がった。まろやかで、やさしい甘みがある。あとから、ほんのりと、ブランデーの香りが鼻をぬけた。
「……おいしい」
静は素直に言った。
「でしょう?」
姫華が、ぱっと顔をほころばせた。
「わたくしも、このスープがいちばん好きなのですわ」
ふたりは窓の外の景色を見ながら、ゆっくりスープを飲んだ。銀のスプーンが皿に触れる、かすかな音。遠くで流れる、ピアノの調べ。
次に運ばれてきたのは、白身魚のポワレだった。
「鯛のポワレでございます。皮を香ばしく焼き上げ、バターソースを添えております」
きつね色に焼けた皮は、ぱりっとしていて、身はふっくらしている。静は、ナイフを入れた。皮が、さくりと音を立てる。
口に入れると、バターの香りと、魚のうまみが、じゅわっと広がった。
「これも、おいしいです」
「よかったですわ」
姫華はうれしそうに、自分の皿にも手をつけた。ときどき、静の食べる姿を、ちらりと盗み見る。ナイフとフォークを動かす指の、細くて長いこと。口に運ぶ仕草の、静かで上品なこと。姫華は、そのたびに、胸がきゅっとした。
静は、にこやかに、会話を続けていた。
学校のこと、好きな食べ物のこと、最近見た映画のこと。姫華が話すたびに、うなずいて、ときどき笑って、短い感想を返す。話しやすい聞き手を、静は完璧に演じていた。
けれど、そのあいだ、静の心は、不思議なほど凪いでいた。
料理はおいしい。景色もきれいだ。目の前の女性は、かわいらしくて、素直で、両親に愛されて育った人なのだろう。それはわかる。
(……タバコが、吸いたい)
ふいに、そう思った。
ここが禁煙なのは、見渡さなくても分かる。上品な香りの漂う、白いクロスのテーブル。タバコの煙など、似合うはずがない。
それでも、窓の外の遠い空を見ていると、あの苦い煙の匂いが、なぜか恋しくなった。
静はスプーンを置いて、水を一口飲んだ。冷たい水が、のどを通っていく。
「静様?」
姫華が、首をかしげた。
「どうかなさいました?」
「いえ。なんでもありません、お気になさらず」
静は、にこりと笑ってみせた。
姫華は安心したように、ほほえんだ。
窓の外の空は、ゆっくり、午後の色に変わっていく。
♢
食事も終わりに近づいたころ、給仕が、ふたたび銀のワゴンを押してやってきた。
「デザートでございます」
白い皿が、ふたりの前に置かれる。
姫華の前には、苺のムースが。淡いピンク色のムースの上に、つやつやの苺がひとつのり、白い生クリームが、ふんわりと絞ってある。皿のふちには、赤いソースで、小さな花の模様が描かれていた。
静の前にも、同じものが置かれた。
「苺とヨーグルトのムースでございます。どうぞ、ごゆっくり」
給仕は、一礼して下がっていった。
「まあ、かわいらしいですわ」
姫華は目を輝かせて、小さなスプーンを手にとった。ムースを、そっとすくう。ひとくち食べると、頬に手を当てて、うっとりと目を閉じた。
「とっても、おいしいですわ」
静もスプーンを口に運んだ。
甘酸っぱい苺の香りが、ふわりと広がる。ムースは、口の中でやわらかくとけた。
「本当ですね。おいしいです」
静の言葉に姫華は頷き、うれしそうに笑った。
そのとき、静はあることに気づいた。
姫華の頬の、口のすぐ横。白い生クリームが、ちょこんとついている。
本人は、まったく気づいていない。幸せそうに、ムースをほおばっている。
静は、少しだけ迷った。それから、ナプキンを手にとって、静かに席を立った。
「姫華さん」
「はい?」
姫華が顔を上げたときには、静は、もうすぐそばまで来ていた。
椅子の横に立って、少しだけ身をかがめる。茶色い髪が、はらりと肩から落ちる。ふわりと、清潔な石けんの匂いがした。
「ここにクリームが…」
静はナプキンの角を、そっと姫華の頬に当てた。
やわらかい布が、頬の肌に触れる。静の指先が、ほんのわずか、頬をかすめた。
ほんの、一、二秒のことだった。
「はい、とれました」
静は、やさしく笑った。
姫華は固まっていた。
目を大きく見開いたまま、動けない。顔が、みるみる赤くなっていく。耳も、首も、ドレスの襟もとまで、真っ赤になった。
(い、いま……静様の指が……)
頭の中が、真っ白になった。心臓が、どくどくと音を立てる。
そして、その真っ白な頭の中に、ふと、あらぬ想像が浮かんだ。
(もし、静がナプキンではなく、唇で、クリームをとってくれたら。
整った顔が、ゆっくり近づいてくる。長いまつげが、すぐそばで伏せられる。やわらかな唇が、頬に触れて、そっと――。だ、だめですわ!!わたくし、なんてことを!!)
姫華は、ぶんぶんと首を振った。顔から、湯気が出そうだった。
「姫華さん?どうしました?」
静が首をかしげて、心配そうにのぞきこむ。
「なっ、なんでもありませんわ~!」
声が裏返った。
姫華は、あわてて水のグラスを取って、ごくごくと飲んだ。
静は不思議そうな顔をしながらも、にこやかに席に戻った。
それからの数分間、姫華は、ムースの味をまったく覚えていなかった。
デザートを食べ終えて、紅茶が運ばれてきた。
ふたりは、しばらく、静かに紅茶を飲んでいた。窓の外は、午後の光で、金色にかすんでいる。
姫華がようやく落ち着きを取り戻して、口を開こうとした時、
静がふっと、手もとのスマートフォンに目を落とした。画面を確かめるような、短い仕草だった。そして、申し訳なさそうに、顔を上げた。
「姫華さん、すみません」
「はい」
「急用ができてしまって。失礼しなければなりません」
姫華の顔から、すっと笑顔が消えた。
「まあ……そうですの」
さびしさが、声にこぼれた。もっと一緒にいたかった。もっと、話したいことがあった。けれど、わがままを言って、静を困らせたくなかった。
「今日は誘ってくださって、ありがとうございました。とても楽しかったです」
静はにっこり笑って、頭を下げた。
「そ、そんな……」
姫華はうつむいて、膝の上でスカートをぎゅっとにぎった。
静は立ち上がって、給仕に目で合図をした。給仕が静かにやってくる。静は小声で何かを告げて、会計をすませた。姫華はあわてて「わたくしが」と言いかけたが、静は、にこりと首を振った。
「今日は、僕に払わせてください」
姫華は、何も言えなくなった。
静は軽く会釈をして、出口に向かって歩き出した。白いシャツの背中が、広い店内を、静かに遠ざかっていく。
姫華はその背中が見えなくなるまで、ずっと目で追っていた。
♢
静が乗ったエレベーターが、一階に着いた。
ロビーを抜けて、ビルの出口にたどり着くと、そこに、黒いスーツの男が立っていた。
セバスチャンだった。
背筋を伸ばして、両手を前に組んでいる。静の姿を見ると、ほんの少しだけ、眉を動かした。
「静様。お嬢様はどちらに?」
「まだ、上にいらっしゃいます。ゆっくり紅茶を飲んでいますよ」
静はいつもの穏やかな笑顔で答えた。
「僕は急用ができたので、お先に失礼します。姫華さんには、お伝えしてありますので」
「さようでございますか」
セバスチャンは、静をじっと見た。
ミラー越しではない、真正面からの視線だった。鋭くて、深い目だった。静の笑顔の奥まで、見透かそうとしているかのようだった。
静はその視線を、にこやかに受け止めた。
「今日はありがとうございました。姫華さんにも、よろしくお伝えください」
「かしこまりました。お気をつけて、お帰りくださいませ」
セバスチャンは深く頭を下げた。
静は軽く会釈を返して、歩き出した。
自動ドアが開くと、昼下がりの風が、頬に触れた。街のざわめきが、一気に耳に流れこんでくる。
数歩あるいたところで、静は足を止めた。
笑顔がすっと消える。
肩の力が抜けて、眠たげな目がいつもの遠い目に戻った。
(……タバコ)
また、そう思った。
静はポケットに手を入れて、空っぽのポケットの中を、指先で探った。そこには、何も入っていない。
小さく息を吐いて、静は人混みの中へ、ゆっくり歩いていった。
背中に、セバスチャンの視線を感じた気がした。けれど、振り返らなかった。




