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 窓から差しこむ光が、静の横顔を、やわらかく縁取っていた。

 姫華は、膝の上で手をそろえたまま、気づけば静を見つめていた。


 茶色い髪が、肩の上でさらりと揺れている。伏せた目には、長いまつげが影を落としていた。白いシャツの襟もとから、細い首筋がのぞく。遠くの空をながめる横顔は、どこか儚げで、触れたら消えてしまいそうなほどだった。

 まるで、一枚の絵のようだった。


(なんて、お綺麗なのかしら)


 姫華は、ほうっと小さく息をついた。頬が、じんわり熱くなる。見つめすぎだと分かっているのに、視線をそらせなかった。

 静が、ふとこちらを向いた。

 目が合う。

 姫華は、あわてて視線を落とし、テーブルの花に目をやった。心臓が、ことこと速く鳴っている。


「……あの、静様」


「はい」


「いま、お仕事は、警察官をされているというのは、本当ですか?」


 静は少しだけ目を丸くして、それから、やわらかく笑った。


「はい。兄から、聞いたんですか?」


 姫華は、こくりとうなずいた。


「警察官の前は、煌(きら)びやかなお店で働かれていたと、うかがいましたわ」


 静の笑顔が、一瞬だけ、止まった。

 それから、苦笑いに変わる。眉を少し下げて、困ったように首を傾けた。


「……相変わらず兄は、口が軽いですね」


「まあ」


 姫華は、口もとに手を当てて、くすくすと笑った。静のほんの少し崩れた表情が、なんだかうれしかった。いつもの完璧な笑顔より、ずっと近くに感じられた。


「警察官のお仕事は、大変ではありませんの?」


「そうですね。大変なこともありますが、やりがいはあります」


 静は、さらりと答えた。それから、話題を変えるように、穏やかに聞き返した。


「姫華さんは、いまはなにをされているんですか?」


「わたくしは…」


 姫華は、少し背筋を伸ばした。


「大学に通いながら、父の会社で、経営のお手伝いをしていますわ」


「そうなんですね」


 静は、感心したように目を細めた。


「若いのに、ご立派ですね」


「そ、そんな。まだまだ、半人前ですわ」


 姫華は、あわてて両手を振った。耳の先まで赤くなっている。褒められ慣れているはずなのに、静に言われると、なぜか、胸がくすぐったい。


「毎日、失敗ばかりで。父にも、叱られてばかりですのよ」


「それでも、続けているのは、すごいことだと思います」


 静が、やさしい声で言った。

 姫華は一瞬言葉をなくして、ぽかんと静を見つめた。それから、うれしそうに、はにかんで笑った。


「……褒めていただき、ありがとうございます、静様」


 ちょうどそのとき、給仕が、銀のワゴンを押して近づいてきた。


「お待たせいたしました」


 白い皿が、ふたりの前に、静かに置かれる。


 最初の一皿は、オマール海老のスープだった。深い橙色のスープが、白い皿の中で、つやつやと光っている。表面には、薄く泡がのっていて、ちぎったハーブが、ひと葉だけ浮かんでいた。


「オマール海老のビスクでございます。殻から、じっくりと出汁をとり、生クリームと合わせております。どうぞ、温かいうちにお召し上がりください」


 給仕は、丁寧に説明して、一礼して下がった。


「いただきます」


 静は、スプーンを手にとった。ひとくち、口に運ぶ。

 濃厚な海老の香りが、ふわっと口の中に広がった。まろやかで、やさしい甘みがある。あとから、ほんのりと、ブランデーの香りが鼻をぬけた。


「……おいしい」


 静は素直に言った。


「でしょう?」


 姫華が、ぱっと顔をほころばせた。


「わたくしも、このスープがいちばん好きなのですわ」


 ふたりは窓の外の景色を見ながら、ゆっくりスープを飲んだ。銀のスプーンが皿に触れる、かすかな音。遠くで流れる、ピアノの調べ。

 次に運ばれてきたのは、白身魚のポワレだった。


「鯛のポワレでございます。皮を香ばしく焼き上げ、バターソースを添えております」


 きつね色に焼けた皮は、ぱりっとしていて、身はふっくらしている。静は、ナイフを入れた。皮が、さくりと音を立てる。

 口に入れると、バターの香りと、魚のうまみが、じゅわっと広がった。


「これも、おいしいです」


「よかったですわ」


 姫華はうれしそうに、自分の皿にも手をつけた。ときどき、静の食べる姿を、ちらりと盗み見る。ナイフとフォークを動かす指の、細くて長いこと。口に運ぶ仕草の、静かで上品なこと。姫華は、そのたびに、胸がきゅっとした。


 静は、にこやかに、会話を続けていた。

 学校のこと、好きな食べ物のこと、最近見た映画のこと。姫華が話すたびに、うなずいて、ときどき笑って、短い感想を返す。話しやすい聞き手を、静は完璧に演じていた。


 けれど、そのあいだ、静の心は、不思議なほど凪いでいた。

 料理はおいしい。景色もきれいだ。目の前の女性は、かわいらしくて、素直で、両親に愛されて育った人なのだろう。それはわかる。


(……タバコが、吸いたい)


 ふいに、そう思った。

 ここが禁煙なのは、見渡さなくても分かる。上品な香りの漂う、白いクロスのテーブル。タバコの煙など、似合うはずがない。


 それでも、窓の外の遠い空を見ていると、あの苦い煙の匂いが、なぜか恋しくなった。

 静はスプーンを置いて、水を一口飲んだ。冷たい水が、のどを通っていく。


「静様?」


 姫華が、首をかしげた。


「どうかなさいました?」


「いえ。なんでもありません、お気になさらず」


 静は、にこりと笑ってみせた。

 姫華は安心したように、ほほえんだ。

 窓の外の空は、ゆっくり、午後の色に変わっていく。


 ♢


 食事も終わりに近づいたころ、給仕が、ふたたび銀のワゴンを押してやってきた。


「デザートでございます」


 白い皿が、ふたりの前に置かれる。


 姫華の前には、苺のムースが。淡いピンク色のムースの上に、つやつやの苺がひとつのり、白い生クリームが、ふんわりと絞ってある。皿のふちには、赤いソースで、小さな花の模様が描かれていた。

 静の前にも、同じものが置かれた。


「苺とヨーグルトのムースでございます。どうぞ、ごゆっくり」


 給仕は、一礼して下がっていった。


「まあ、かわいらしいですわ」


 姫華は目を輝かせて、小さなスプーンを手にとった。ムースを、そっとすくう。ひとくち食べると、頬に手を当てて、うっとりと目を閉じた。


「とっても、おいしいですわ」


 静もスプーンを口に運んだ。

 甘酸っぱい苺の香りが、ふわりと広がる。ムースは、口の中でやわらかくとけた。


「本当ですね。おいしいです」


 静の言葉に姫華は頷き、うれしそうに笑った。

 そのとき、静はあることに気づいた。


 姫華の頬の、口のすぐ横。白い生クリームが、ちょこんとついている。

 本人は、まったく気づいていない。幸せそうに、ムースをほおばっている。

 静は、少しだけ迷った。それから、ナプキンを手にとって、静かに席を立った。


「姫華さん」


「はい?」


 姫華が顔を上げたときには、静は、もうすぐそばまで来ていた。

 椅子の横に立って、少しだけ身をかがめる。茶色い髪が、はらりと肩から落ちる。ふわりと、清潔な石けんの匂いがした。


「ここにクリームが…」


 静はナプキンの角を、そっと姫華の頬に当てた。

 やわらかい布が、頬の肌に触れる。静の指先が、ほんのわずか、頬をかすめた。

 ほんの、一、二秒のことだった。


「はい、とれました」


 静は、やさしく笑った。

 姫華は固まっていた。

 目を大きく見開いたまま、動けない。顔が、みるみる赤くなっていく。耳も、首も、ドレスの襟もとまで、真っ赤になった。


(い、いま……静様の指が……)


 頭の中が、真っ白になった。心臓が、どくどくと音を立てる。

 そして、その真っ白な頭の中に、ふと、あらぬ想像が浮かんだ。


(もし、静がナプキンではなく、唇で、クリームをとってくれたら。

 整った顔が、ゆっくり近づいてくる。長いまつげが、すぐそばで伏せられる。やわらかな唇が、頬に触れて、そっと――。だ、だめですわ!!わたくし、なんてことを!!)


 姫華は、ぶんぶんと首を振った。顔から、湯気が出そうだった。


「姫華さん?どうしました?」

 静が首をかしげて、心配そうにのぞきこむ。


「なっ、なんでもありませんわ~!」


 声が裏返った。

 姫華は、あわてて水のグラスを取って、ごくごくと飲んだ。

 静は不思議そうな顔をしながらも、にこやかに席に戻った。

 それからの数分間、姫華は、ムースの味をまったく覚えていなかった。


 デザートを食べ終えて、紅茶が運ばれてきた。

 ふたりは、しばらく、静かに紅茶を飲んでいた。窓の外は、午後の光で、金色にかすんでいる。

 姫華がようやく落ち着きを取り戻して、口を開こうとした時、

 静がふっと、手もとのスマートフォンに目を落とした。画面を確かめるような、短い仕草だった。そして、申し訳なさそうに、顔を上げた。


「姫華さん、すみません」


「はい」


「急用ができてしまって。失礼しなければなりません」


 姫華の顔から、すっと笑顔が消えた。


「まあ……そうですの」


 さびしさが、声にこぼれた。もっと一緒にいたかった。もっと、話したいことがあった。けれど、わがままを言って、静を困らせたくなかった。


「今日は誘ってくださって、ありがとうございました。とても楽しかったです」


 静はにっこり笑って、頭を下げた。


「そ、そんな……」

 姫華はうつむいて、膝の上でスカートをぎゅっとにぎった。


 静は立ち上がって、給仕に目で合図をした。給仕が静かにやってくる。静は小声で何かを告げて、会計をすませた。姫華はあわてて「わたくしが」と言いかけたが、静は、にこりと首を振った。


「今日は、僕に払わせてください」


 姫華は、何も言えなくなった。


 静は軽く会釈をして、出口に向かって歩き出した。白いシャツの背中が、広い店内を、静かに遠ざかっていく。

 姫華はその背中が見えなくなるまで、ずっと目で追っていた。


 ♢


 静が乗ったエレベーターが、一階に着いた。

 ロビーを抜けて、ビルの出口にたどり着くと、そこに、黒いスーツの男が立っていた。

 セバスチャンだった。

 背筋を伸ばして、両手を前に組んでいる。静の姿を見ると、ほんの少しだけ、眉を動かした。


「静様。お嬢様はどちらに?」


「まだ、上にいらっしゃいます。ゆっくり紅茶を飲んでいますよ」


 静はいつもの穏やかな笑顔で答えた。


「僕は急用ができたので、お先に失礼します。姫華さんには、お伝えしてありますので」


「さようでございますか」


 セバスチャンは、静をじっと見た。


 ミラー越しではない、真正面からの視線だった。鋭くて、深い目だった。静の笑顔の奥まで、見透かそうとしているかのようだった。

 静はその視線を、にこやかに受け止めた。


「今日はありがとうございました。姫華さんにも、よろしくお伝えください」


「かしこまりました。お気をつけて、お帰りくださいませ」

 セバスチャンは深く頭を下げた。


 静は軽く会釈を返して、歩き出した。

 自動ドアが開くと、昼下がりの風が、頬に触れた。街のざわめきが、一気に耳に流れこんでくる。

 数歩あるいたところで、静は足を止めた。

 笑顔がすっと消える。

 肩の力が抜けて、眠たげな目がいつもの遠い目に戻った。


(……タバコ)


 また、そう思った。

 静はポケットに手を入れて、空っぽのポケットの中を、指先で探った。そこには、何も入っていない。

 小さく息を吐いて、静は人混みの中へ、ゆっくり歩いていった。

 背中に、セバスチャンの視線を感じた気がした。けれど、振り返らなかった。



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