6
昼下がりの街は、人であふれていた。
静は駅前のコンビニで、タバコをひと箱買った。銘柄は、迷わなかった。店を出て、レジ袋も受け取らず、箱をそのままポケットに入れる。ビルのあいだの細い路地に、ぽつんと灰皿が置かれた喫煙所があった。
誰もいない。
静は灰皿のそばに立って、箱の包みをはがした。銀紙をやぶると、乾いた葉の匂いが、ふわりと鼻に届く。一本くちにくわえて、ライターを近づけた。かちっ、と小さな音がして、先が赤く灯る。
ゆっくり吸いこんで、吐き出す。
白い煙が、ビルのすきまの空へ、細くのぼっていった。
(……やっと)
肩の力が、すっと抜けた。さっきまでのレストランの空気が、少しずつ体から抜けていく。笑顔を作りつづけていた頬も、ようやくゆるんだ。
そのとき、路地の入口のほうから、ぽふ、ぽふ、と変な足音が聞こえてきた。
静は、何気なく顔を向けた。
そして、一瞬、動きを止めた。
白いくまが、歩いてくる。
ふわふわの白い毛。丸い耳。まん丸の黒い目と、ちょこんとした鼻。短い手足で、ぽてぽてと歩いてくる。どう見ても、イベントなどで見かける、くまのきぐるみだった。
くまは、静の隣まで来ると、ぴたりと止まった。
そして、きぐるみの手で、器用にタバコの箱を取り出した。口の部分のすきまに、一本くわえる。ライターで火をつけて、ふう、と煙を吐いた。
くまの口から、白い煙が、もくもくと出ていく。
静は、黙ってそれを見ていた。
昼の街の音が、遠くでかすかに聞こえた。
静は、しばらく考えてから、手を伸ばした。そして、くまの頭を両手でつかんで、すぽっと持ち上げた。
中から、男の顔が出てきた。
赤い髪を短く刈りこんだ、日に焼けた男だった。汗で額がしっとり濡れている。くわえたタバコが、口の端で、ぷらぷら揺れた。男は、ぱちぱちと瞬きをして、それから、にやりと笑った。
「よう。久しぶりだな、静」
かつて静と同じ警察署で働いていた、森田圭吾だった。
静は、タバコを指にはさんだまま、小さく息を吐いた。
「……こんなところで、なにをしているんです?」
森田は、くまの頭をかかえて、ふうと一息ついた。
「イベント会社で働いてるんだよ。今日は客の呼び込み。いまは昼休憩だ」
「……そうですか」
静は森田の姿を、あらためて見た。白いくまの胴体に、赤い髪の人間の頭。なんとも間の抜けた姿だった。けれど、森田本人は気にしていないようだった。
静は思い出していた。
森田が警察官をやめたときのことを__。
署の女性たちが、みんな静のほうばかり見ていることに、森田は気づいたのだ。それで、すっかりやる気をなくして、「警察官なんてやってられるか」と言った。そして、「美人で、ミステリアスな女性を求めて、旅に出る」と宣言して、本当に辞めてしまった。
あのときの森田の顔を、静はいまでも覚えている。冗談のようで、半分は本気の顔だった。
「お前、タバコなんか吸うようになったのか」
森田が、静の指先のタバコに目を向けた。
「はい」
静は、短く答えた。
「そっか。まぁ、あれだよな、警察官はストレスたまるもんな」
森田は、うんうんとうなずいた。勝手に納得しているようだった。静は否定も肯定もせず、タバコを灰皿に押しつけて、火を消した。
「では…」
そう言って静は、軽く会釈をして、背を向ける。
森田との会話は、あまり続けたくなかった。理由は、自分でも分かっている。
その背中に森田の声が飛んできた。
「明音とは、いまどんな感じだ?」
静の足が、止まった。
路地の風が、茶色い髪をふわりと揺らした。
明音は森田の妹であり、静と同じ警察署に勤める、女性警察官だった。性格は明るく、アイドルのような可愛らしい外見の女性だった。
彼女に静は一度、告白されていた。
警察署の裏手、明音は、まっすぐ静の目を見て言った『好きです。私と、お付き合いしてください』
と__。
当時、静は、断った。
『私は、あなたに対して恋愛感情はありません』
そう言って自分の気持ちを、はっきり伝えた。
その日以来、森田明音とは、あまり話していない。
明音の兄である森田が、今の自分に対してどう思っているのか、静には分からなかった。分からないまま、ずっと、避けてきた。
「普通です」
静は、森田に背を向けたまま、答えた。
「普通って?」
「彼女は、ただの同僚です」
感情のない声だった。いつも通りの、眠たげな声。静は、そのまま歩き出そうとした。
「…明音はな」
森田が、ぽつりと言った。
さっきまでの、おどけた調子はなかった。低い、静かな声だった。
「いまでも、お前のことが好きだって、そう言ってたぞ」
静は足を止めたまま、動かなかった。
路地のどこかで、空調の室外機が、低くうなっている。灰皿の中の吸い殻から、細い煙が最後の一筋、ゆらりと立ちのぼって消えた。
静は、ゆっくり振り返った。
眠たげな目のまま、森田を見る。表情は変わらない。けれど、胸の奥に、冷たいものがじわりと広がっていた。
(妹が好きだから、自分も彼女を好きになれと?)
そう思った瞬間、うっすらとした苛立ちが、のどもとまでせり上がってきた。恋愛感情は、頼まれて持てるものではない。持てないから、苦しんでいるのだ。それを、いちばん分かっているのは、静自身だった。
「……それは」
静が口を開きかけたとき、森田が、ぽふぽふと足音を立てて近づいてきた。くまの手が、静の肩にのる。ふわふわの毛の感触が、シャツ越しに伝わってきた。
「なあ、静…」
森田の声は、真剣だった。くまの胴体を着たままなのに、おどけた雰囲気はなかった。
「もし、少しでも気があるなら、妹と付き合ってやってほしい。あいつは、本気なんだ」
静は肩にのった手を見て、それから、森田の顔を見た。
「彼女に対して、恋愛感情はありません」
はっきりと、そう言った。冷たい声ではなかったが、迷いもなかった。
「恋愛感情なんて、あとから芽生えるもんだろ」
森田が言った。
「ただの友人から恋人になることだってある。そういうもんだ」
静は、黙った。
森田は妹のために、必死なのだ。
その必死さは、静には、よく分からないものだった。けれど、分からないからこそ、どうしても気になった。
「……教えてくれませんか」
静は、ぽつりと言った。
「ん?なにを?」
「恋愛感情が、どういうものなのか…」
森田の目が、ぱちくりと開いた。
「……は?」
「どういう気持ちのことを、恋愛感情と呼ぶのか、僕には、分からないんです。
心拍数が早くなったり、顔が赤くなったり、身体的な変化があるのはわかるんですけど…心の動きが、よく分からなくて…」
静の声は、いつもと同じだった。眠たげで、淡々としていた。けれど、その目の奥には、ふざけた様子はまったくなかった。
森田は、しばらく口をぽかんと開けていた。
「それ…マジで、言ってるのか?」
静はこくりとうなずいた。
森田は、くまの手で、自分の顔をごしごしこすった。それから「はあ」と大きなため息をついた。
「……お前は変わった奴だって、ずっと思ってたけど、ここまでとはな」
そう言うと、森田は足もとに置いていたくまの頭を、両手で持ち上げた。そして、すぽっと頭にかぶった。
白いくまが、静をじっと見つめている。
一秒、二秒。
それから、森田は、くまの頭を勢いよく両手でつかんで、ぐいっと引き抜いた。赤い髪が、ばさっと乱れて、汗にぬれた顔がぱっと現れる。
そして、まっすぐ静の目をのぞきこんだ。
「どうだ?」
静は、首をかしげた。
「……なにがですか」
「いま、ドキッとしたか?」
「いえ、全く…」
静は、即答した。
森田が苦笑いして、頭をかく。
「それはな、相手が俺だからだ」
「……?」
静は、もう一度、首をかしげた。
「恋愛感情がある相手だとな、違うんだよ」
森田は、くまの頭を小脇にかかえて、ゆっくり話しはじめた。
「相手と目が合っただけで、心臓が速くなる、顔が熱くなる、それだけじゃない。何を話していても、その人のことばかり考えちまう。そういうもんなんだ」
静は、黙って聞いていた。
「理屈じゃないんだよ。気づいたら、そうなってる。止めようと思っても、止められない」
森田の声は、いつの間にか静かになっていた。目が、少し遠くを見ている。誰かを思い出しているような顔だった。
「……そういうもの、ですか」
「ああ。そういうもんだ」
『__理屈じゃないんだよ__』
森田のその言葉が、静の頭の中で、ゆっくり反響した。
静は、無意識のうちに、自分の胸に手を当てていた。
シャツの下で、心臓はゆっくり、静かに打っている。いつもと変わらない、一定の速さで。
「やべ、もうこんな時間か」
森田が、はっとして腕時計を見た。くまの頭を小脇にかかえなおして、あわてて足踏みをする。
「そろそろ戻らないと。じゃあな、静」
「はい」
森田は、くまの頭をすぽっとかぶると、ぽふぽふと走っていった。短い手足を振って、路地の角を曲がり、見えなくなる。
静は、その背中を見送った。
路地には、ふたたび静けさが戻ってくる。灰皿の吸い殻から、最後の煙が消えた。静は、タバコの箱をポケットにしまって、歩き出した。
空がいつの間にか、曇りはじめていた。
さっきまで淡い水色だった空に、灰色の雲が、ゆっくり広がっている。ビルのガラスが鈍く光り、風が少し湿っぽくなった。行き交う人たちが、空を見上げて、足を速める。
(……雨が降りそうだ…)
静はそう思いながらも、歩く速さを変えなかった。




