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 昼下がりの街は、人であふれていた。


 静は駅前のコンビニで、タバコをひと箱買った。銘柄は、迷わなかった。店を出て、レジ袋も受け取らず、箱をそのままポケットに入れる。ビルのあいだの細い路地に、ぽつんと灰皿が置かれた喫煙所があった。

 誰もいない。

 静は灰皿のそばに立って、箱の包みをはがした。銀紙をやぶると、乾いた葉の匂いが、ふわりと鼻に届く。一本くちにくわえて、ライターを近づけた。かちっ、と小さな音がして、先が赤く灯る。


 ゆっくり吸いこんで、吐き出す。

 白い煙が、ビルのすきまの空へ、細くのぼっていった。


(……やっと)


 肩の力が、すっと抜けた。さっきまでのレストランの空気が、少しずつ体から抜けていく。笑顔を作りつづけていた頬も、ようやくゆるんだ。

 そのとき、路地の入口のほうから、ぽふ、ぽふ、と変な足音が聞こえてきた。

 静は、何気なく顔を向けた。

 そして、一瞬、動きを止めた。

 白いくまが、歩いてくる。

 ふわふわの白い毛。丸い耳。まん丸の黒い目と、ちょこんとした鼻。短い手足で、ぽてぽてと歩いてくる。どう見ても、イベントなどで見かける、くまのきぐるみだった。


 くまは、静の隣まで来ると、ぴたりと止まった。

 そして、きぐるみの手で、器用にタバコの箱を取り出した。口の部分のすきまに、一本くわえる。ライターで火をつけて、ふう、と煙を吐いた。

 くまの口から、白い煙が、もくもくと出ていく。

 静は、黙ってそれを見ていた。


 昼の街の音が、遠くでかすかに聞こえた。

 静は、しばらく考えてから、手を伸ばした。そして、くまの頭を両手でつかんで、すぽっと持ち上げた。

 中から、男の顔が出てきた。

 赤い髪を短く刈りこんだ、日に焼けた男だった。汗で額がしっとり濡れている。くわえたタバコが、口の端で、ぷらぷら揺れた。男は、ぱちぱちと瞬きをして、それから、にやりと笑った。


「よう。久しぶりだな、静」


 かつて静と同じ警察署で働いていた、森田圭吾(もりたけいご)だった。

 静は、タバコを指にはさんだまま、小さく息を吐いた。


「……こんなところで、なにをしているんです?」


 森田は、くまの頭をかかえて、ふうと一息ついた。


「イベント会社で働いてるんだよ。今日は客の呼び込み。いまは昼休憩だ」


「……そうですか」


 静は森田の姿を、あらためて見た。白いくまの胴体に、赤い髪の人間の頭。なんとも間の抜けた姿だった。けれど、森田本人は気にしていないようだった。

 静は思い出していた。

 森田が警察官をやめたときのことを__。


 署の女性たちが、みんな静のほうばかり見ていることに、森田は気づいたのだ。それで、すっかりやる気をなくして、「警察官なんてやってられるか」と言った。そして、「美人で、ミステリアスな女性を求めて、旅に出る」と宣言して、本当に辞めてしまった。


 あのときの森田の顔を、静はいまでも覚えている。冗談のようで、半分は本気の顔だった。


「お前、タバコなんか吸うようになったのか」


 森田が、静の指先のタバコに目を向けた。


「はい」


 静は、短く答えた。


「そっか。まぁ、あれだよな、警察官はストレスたまるもんな」


 森田は、うんうんとうなずいた。勝手に納得しているようだった。静は否定も肯定もせず、タバコを灰皿に押しつけて、火を消した。


「では…」


 そう言って静は、軽く会釈をして、背を向ける。

 森田との会話は、あまり続けたくなかった。理由は、自分でも分かっている。

 その背中に森田の声が飛んできた。


「明音(あかね)とは、いまどんな感じだ?」


 静の足が、止まった。

 路地の風が、茶色い髪をふわりと揺らした。

 明音は森田の妹であり、静と同じ警察署に勤める、女性警察官だった。性格は明るく、アイドルのような可愛らしい外見の女性だった。


 彼女に静は一度、告白されていた。

 警察署の裏手、明音は、まっすぐ静の目を見て言った『好きです。私と、お付き合いしてください』

 と__。

 当時、静は、断った。

『私は、あなたに対して恋愛感情はありません』

 そう言って自分の気持ちを、はっきり伝えた。

 その日以来、森田明音とは、あまり話していない。


 明音の兄である森田が、今の自分に対してどう思っているのか、静には分からなかった。分からないまま、ずっと、避けてきた。


「普通です」

 静は、森田に背を向けたまま、答えた。


「普通って?」


「彼女は、ただの同僚です」


 感情のない声だった。いつも通りの、眠たげな声。静は、そのまま歩き出そうとした。


「…明音はな」


 森田が、ぽつりと言った。

 さっきまでの、おどけた調子はなかった。低い、静かな声だった。


「いまでも、お前のことが好きだって、そう言ってたぞ」


 静は足を止めたまま、動かなかった。


 路地のどこかで、空調の室外機が、低くうなっている。灰皿の中の吸い殻から、細い煙が最後の一筋、ゆらりと立ちのぼって消えた。


 静は、ゆっくり振り返った。

 眠たげな目のまま、森田を見る。表情は変わらない。けれど、胸の奥に、冷たいものがじわりと広がっていた。


(妹が好きだから、自分も彼女を好きになれと?)


 そう思った瞬間、うっすらとした苛立ちが、のどもとまでせり上がってきた。恋愛感情は、頼まれて持てるものではない。持てないから、苦しんでいるのだ。それを、いちばん分かっているのは、静自身だった。


「……それは」


 静が口を開きかけたとき、森田が、ぽふぽふと足音を立てて近づいてきた。くまの手が、静の肩にのる。ふわふわの毛の感触が、シャツ越しに伝わってきた。


「なあ、静…」


 森田の声は、真剣だった。くまの胴体を着たままなのに、おどけた雰囲気はなかった。


「もし、少しでも気があるなら、妹と付き合ってやってほしい。あいつは、本気なんだ」


 静は肩にのった手を見て、それから、森田の顔を見た。


「彼女に対して、恋愛感情はありません」


 はっきりと、そう言った。冷たい声ではなかったが、迷いもなかった。


「恋愛感情なんて、あとから芽生えるもんだろ」


 森田が言った。


「ただの友人から恋人になることだってある。そういうもんだ」


 静は、黙った。

 森田は妹のために、必死なのだ。

 その必死さは、静には、よく分からないものだった。けれど、分からないからこそ、どうしても気になった。


「……教えてくれませんか」


 静は、ぽつりと言った。


「ん?なにを?」


「恋愛感情が、どういうものなのか…」


 森田の目が、ぱちくりと開いた。


「……は?」


「どういう気持ちのことを、恋愛感情と呼ぶのか、僕には、分からないんです。

 心拍数が早くなったり、顔が赤くなったり、身体的な変化があるのはわかるんですけど…心の動きが、よく分からなくて…」


 静の声は、いつもと同じだった。眠たげで、淡々としていた。けれど、その目の奥には、ふざけた様子はまったくなかった。

 森田は、しばらく口をぽかんと開けていた。


「それ…マジで、言ってるのか?」


 静はこくりとうなずいた。

 森田は、くまの手で、自分の顔をごしごしこすった。それから「はあ」と大きなため息をついた。


「……お前は変わった奴だって、ずっと思ってたけど、ここまでとはな」


 そう言うと、森田は足もとに置いていたくまの頭を、両手で持ち上げた。そして、すぽっと頭にかぶった。

 白いくまが、静をじっと見つめている。


 一秒、二秒。


 それから、森田は、くまの頭を勢いよく両手でつかんで、ぐいっと引き抜いた。赤い髪が、ばさっと乱れて、汗にぬれた顔がぱっと現れる。

 そして、まっすぐ静の目をのぞきこんだ。


「どうだ?」


 静は、首をかしげた。


「……なにがですか」


「いま、ドキッとしたか?」


「いえ、全く…」


 静は、即答した。

 森田が苦笑いして、頭をかく。


「それはな、相手が俺だからだ」


「……?」


 静は、もう一度、首をかしげた。


「恋愛感情がある相手だとな、違うんだよ」


 森田は、くまの頭を小脇にかかえて、ゆっくり話しはじめた。


「相手と目が合っただけで、心臓が速くなる、顔が熱くなる、それだけじゃない。何を話していても、その人のことばかり考えちまう。そういうもんなんだ」


 静は、黙って聞いていた。


「理屈じゃないんだよ。気づいたら、そうなってる。止めようと思っても、止められない」


 森田の声は、いつの間にか静かになっていた。目が、少し遠くを見ている。誰かを思い出しているような顔だった。


「……そういうもの、ですか」


「ああ。そういうもんだ」


『__理屈じゃないんだよ__』

 森田のその言葉が、静の頭の中で、ゆっくり反響した。


 静は、無意識のうちに、自分の胸に手を当てていた。

 シャツの下で、心臓はゆっくり、静かに打っている。いつもと変わらない、一定の速さで。


「やべ、もうこんな時間か」


 森田が、はっとして腕時計を見た。くまの頭を小脇にかかえなおして、あわてて足踏みをする。


「そろそろ戻らないと。じゃあな、静」


「はい」


 森田は、くまの頭をすぽっとかぶると、ぽふぽふと走っていった。短い手足を振って、路地の角を曲がり、見えなくなる。

 静は、その背中を見送った。

 路地には、ふたたび静けさが戻ってくる。灰皿の吸い殻から、最後の煙が消えた。静は、タバコの箱をポケットにしまって、歩き出した。


 空がいつの間にか、曇りはじめていた。

 さっきまで淡い水色だった空に、灰色の雲が、ゆっくり広がっている。ビルのガラスが鈍く光り、風が少し湿っぽくなった。行き交う人たちが、空を見上げて、足を速める。


(……雨が降りそうだ…)


 静はそう思いながらも、歩く速さを変えなかった。



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