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翌日の昼過ぎ、街は、うすい雲のむこうから差す白い光に包まれていた。
静はひとりで大通りを歩いていた。白いシャツに、黒いズボン。休みの日らしく、足取りはいつも以上にゆっくりだ。ポケットに手を入れて、眠そうな目で、ショーウィンドウに映る空をながめている。
昨日の零との電話のことが、頭のすみに残っていた。胸の奥の「名前のない小さなもの」は、まだそこにある。それが何なのか、静にはまだ分からない。
そのとき、後ろから、低いエンジン音が近づいてきた。
静かで、なめらかな音だった。静が何気なく振り向くと、真っ白な高級車が、道の端にすうっと停まるところだった。ぴかぴかの車体が、昼の光を受けて、まぶしく光っている。
後部座席のドアが開いた。
最初に見えたのは、白いヒールの先だった。それから、ふわりとふくらんだ、白いドレスの裾。
車から降りてきたのは、可愛らしい女性だった。年は二十歳くらい。茶色い髪は、ゆるく巻かれて、腰のあたりまで長く流れている。ふっくらした頬に、大きな瞳。その左目の下には、小さな泣きぼくろがあった。白いドレスは、レースがたっぷり使われていて、まるでお姫様のようだった。
彼女は、静の顔を見ると、ぱっと表情を輝かせた。
「静様!」
通りの人たちが、思わず振り返るほど、よく通る明るい声だった。
「こんなところでお会いできるなんて、光栄ですわ!」
小走りで駆け寄ってくる。ドレスの裾が、風にふわふわ揺れた。
その瞬間、静の中で、何かがかちりと切り替わった。
眠たげだった目に、やわらかい光が宿る。口もとが、ゆるやかに弧をえがく。肩の力がすっと抜けて、立ち姿まで、どこか優雅になった。
まるでスイッチを入れたように、静は人当たりのいい青年になった。
「お久しぶりです、姫華さん」
静は穏やかにほほえんだ。声も、さっきよりずっと柔らかくて、あたたかい。
姫華は、胸の前で両手を合わせて、うれしそうに笑った。
「ええ、本当にお久しぶりですわ。お元気でしたの?」
「はい、おかげさまで。姫華さんも、お変わりなく」
「まあ、お上手ですこと」
頬をほんのり赤くして、姫華は、少し恥ずかしそうに視線をそらした。それから、期待をこめて、静を見上げる。
「あの、静様。今日はご予定はおありですの?」
「いえ、特にありません」
「まあ!」
姫華の瞳が、ぱあっと輝いた。
「でしたら、ご一緒にお食事でも、いかがですか? わたくし、ちょうどお昼を食べに行くところでしたの」
静は少しだけ間を置いた。それは、迷ったのではなく、迷ったふりをしただけだった。そういう自分を、静は冷静に見ていた。
「はい。喜んで」
ほほえんで答えると、姫華は花が咲くように笑った。
「うれしい! さあ、どうぞ乗ってくださいな」
静は姫華に導かれて、車に近づいた。ドアが開かれ、静は先に姫華を乗せてから、自分もその隣に滑りこんだ。
車内は、ひんやりと涼しかった。黒い革のシートはやわらかく、ほのかに、花のような香りがただよっている。窓には、うすいカーテンがかかっていて、外の音が遠くなった。
運転席には、ひとりの男が座っていた。
黒い髪を短く刈り込んだ、体格のいい男だ。黒いスーツの肩は、布がはちきれそうなほど広い。ハンドルを握る手は大きくて、指の関節が太い。ミラー越しに見える目は、鋭いのに、どこか穏やかだった。
姫華の執事、セバスチャンだった。
静は、礼儀正しく、軽く頭を下げた。
「お久しぶりです、セバスチャンさん」
セバスチャンは、ミラー越しに静を見て、小さくうなずいた。
「お久しぶりです、静様。お元気そうで、なによりでございます」
低くて落ち着いた声だった。丁寧な言葉づかいなのに、その視線は、静を一瞬だけ、じっと観察するようだった。
静は気づかないふりをして、やわらかく笑った。
「セバスチャンさんも、お変わりないようで」
「恐れ入ります」
そのやりとりを、姫華はうれしそうに見ていた。それから、運転席に向かって、少し背筋を伸ばして言った。
「セバスチャン。車を出してちょうだい」
「かしこまりました、お嬢様」
セバスチャンが、静かにうなずく。
エンジンが低く唸った。車体が、ほとんど揺れもなく動き出す。
窓の外の景色が、ゆっくりと流れはじめた。並木、ビル、行き交う人々。昼の街が、カーテンのすきまを、すべるように通り過ぎていく。
隣の姫華は、膝の上で手を重ねて、ちらちらと静の横顔を見ていた。目が合うと、すぐに頬を赤らめて、視線をそらす。そんな仕草が、いかにも育ちのいいお嬢様らしかった。
静は、窓の外を見ながら、やさしい笑みを浮かべていた。
けれど、その笑顔の奥は、静かだった。
(……いつも通りだ)
何も感じない。うれしさも、居心地の悪さも。ただ、場面に合わせて、表情と声を選んでいるだけだった。
車は、昼下がりの街を、しなやかに走り続けた。
♢
車は街の中心にある、いちばん高いビルの前で停まった。
ガラス張りの外壁が、昼の空を映して、青く光っている。見上げると、屋上は雲にかかりそうなほど遠かった。入口には、制服を着たドアマンがふたり立っていて、車が止まると、深く頭を下げた。
セバスチャンが運転席を降り、後部座席のドアを開ける。
「お嬢様、静様。どうぞ」
姫華は白いドレスの裾を手でおさえながら、ゆっくり車を降りた。静もそのあとに続く。
エントランスを抜けると、広いロビーに出た。床は、鏡のように磨かれた大理石。天井からは、大きなシャンデリアが下がっている。静かで、ひんやりしていて、人の声はほとんど聞こえない。
専用のエレベーターに乗り込むと、姫華が、操作盤に小さなカードをかざした。ぴ、と軽い音がして、いちばん上の階のボタンが光る。
扉が閉まり、体がふわりと持ち上がる。階数を示す数字が、ひとつ、またひとつ、どんどん大きくなっていく。
静は、ふと気づいた。
エレベーターに乗っているのは、自分と姫華のふたりだけだ。
「セバスチャンさんは?」
静は、やわらかい声で聞いた。
「一緒に来られないんですか」
「ええ」
姫華は少しだけ視線をそらして、さらりと答えた。
「セバスチャンは今ダイエット中で、昼食はバナナだけと決めておりますの。しばらく車の中で待つよう言ってあるので、心配いりませんわ」
「そうですか」
静は、それ以上は聞かなかった。
けれど、姫華の指先が、ドレスの裾を、きゅっとつまんでいるのを、見逃さなかった。耳の先も、うっすら赤い。
(ダイエット中というのは、嘘だな)
静はすぐに気づいた。二人きりになりたくて、わざと待たせたのだろう。それに気づいても、静は何も言わず、穏やかな笑みを保っていた。
姫華は、そんな静の横顔を、ちらりと盗み見て、また頬を染めた。
エレベーターが、静かに止まった。
扉が開くと、そこは別世界だった。
最上階。天井まで届く大きな窓が、ぐるりと壁を囲んでいる。窓の外には、街全体が、ミニチュアのように広がっていた。ビルの群れ、細い川、緑の公園。遠くには、うすく霞んだ山の稜線まで見える。
店内には、白いクロスをかけた丸いテーブルが、ゆったりした間隔でいくつか並んでいた。けれど、客はひとりもいない。ピアノの静かな音楽だけが、広い空間に、やわらかく流れている。
「貸し切りですのよ」
姫華が、うれしそうに言った。
「今日は、わたくしと静様だけですわ」
「……すごいですね」
静は窓の外を見つめて、素直に感心したように言った。それも、場面に合わせた反応だった。
黒いベストを着た給仕が、静かに近づいてきて、深くお辞儀をした。
「西園寺様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
案内されたのは、窓にいちばん近い席だった。静は姫華のために椅子を引いた。
「ありがとうございます」
姫華は少し驚いたように静を見て、それから、うれしそうに腰を下ろした。静も向かい側の席につく。
テーブルの上には、白い花が、小さな花瓶にいけてあった。銀のナイフとフォークが、きれいに並んでいる。グラスには、光がきらきらと反射していた。
給仕が、革のカバーがついたメニュー表を、ふたりに手渡した。
静はそれを開いた。細かい文字で、料理の名前がずらりと並んでいる。
「姫華さん」
静は顔を上げて、姫華にたずねた。
「おすすめは、ありますか」
姫華は、ぱっと顔を明るくした。頼られたのが、うれしかったようだ。
「でしたら、フランス料理のコースがおすすめですわ。ここのシェフは、パリで修業された方ですの。特に、オマール海老のスープは、絶品ですのよ」
「そうなんですね」
静は、にこりと笑った。
「では、僕はそれにします」
「まあ!!」
姫華は、うれしそうに手を合わせた。それから、少し照れたように、給仕のほうを向いた。
「わたくしも、同じものをお願いしますわ」
「かしこまりました」
給仕は丁寧に頭を下げて、メニュー表を受け取り、静かに去っていった。
ふたりきりになった。
窓の外には、昼の街が広がっている。雲の影が、地上をゆっくり横切っていく。ピアノの音が、控えめに響いている。
姫華は、膝の上で手をそろえたまま、ちらちらと静のほうを見ていた。何か話したいのに、うまく言葉が見つからないらしい。泣きぼくろのある目が、そわそわと動いていた。
静は、その視線に気づいていた。
気づいたうえで、窓の外をながめて、穏やかに口を開いた。
「いい眺めですね」
「え、ええ。そうでしょう?」
姫華は、ほっとしたように笑った。
静も微笑みを返した。




