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ホテルの一室は、静かだった。
零はこの部屋で暮らしている。壁際に大きなスーツケースがひとつ。クローゼットには、数着の服。小さなテーブルの上には、読みかけの本と、フロントでもらった客室カードが置いてある。毎朝きれいに整えられるベッドも、窓からの景色も、すっかり見慣れてしまった。それでも、「帰ってきた」という気持ちになったことは、一度もなかった。
窓の外には、夜の街の灯りが広がっている。零はベッドの端に座って、カーテンの隙間から、ぼんやりそれを見ていた。部屋の明かりはつけていない。サイドテーブルの小さなランプだけが、白いシーツの上に、うすい光の輪をつくっている。
ひとりで静かな部屋にいると、さっきの電話の声が、耳の奥でくり返された。
『自分が誰かに恋愛感情を持てるのか。それを、試しているだけなんです』
零は膝をかかえて、顔をうずめた。目の奥が熱い。何度も泣いたはずなのに、まだ涙が出てくる。
そのとき、枕元のスマートフォンが、ぶるりと震えた。
零は顔を上げた。
画面には、清水月の元マネージャーの西田(斎藤響)の電話番号が表示されている。少しためらってから、指でスライドして、耳に当てた。
「……もしもし」
自分でも、ひどい声だと思った。鼻がつまって、語尾がふるえている。
電話の向こうは、少し静かだった。それから、男の人の低い声が、ぶっきらぼうに響いた。
「朝日零か?」
「……はい。そうですが」
響は少し間を置いた。零の鼻をすする音や、ふるえた息が、受話口を通して伝わったのだろう。
「……泣いているのか?」
零は何も答えられなかった。
「静に、ふられたのか?可哀想に…」
その一言で、零の胸が、きゅっと縮んだ。涙が、またひとつ、頬をすべり落ちる。
「……それを、言うために、電話してきたんですか」
声が思ったより尖って出た。零はすぐに後悔した。けれど、取り消せなかった。
「いや」
響はすぐに答えた。
「うちの弟が、君を傷つけてしまい、すまない…。それが言いたかったんだ」
その声は、短くて、飾り気がなかった。けれど、だからこそ、本気で謝っているのが伝わってきた。電話の向こうで、頭を下げている姿が、目に浮かぶようだった。
零はシーツをぎゅっとつかんだ。
「静は昔からああなんだ」
響はゆっくりと話しはじめた。
「女性と親しくなっては、突き放す。そういう遊びを、繰り返してる…、馬鹿な弟だ…」
「遊びじゃありません」
零は反射的に言い返していた。
「静さんは自分に恋愛感情があるのか、確かめたかったんだって、そう言ってました」
電話の向こうが、静かになった。
そのあと、深いため息が、聞こえた。
「……そうか。静がそう言ったのか」
響の声は、さっきよりも、ずっと重かった。
零は窓の外に目を向けた。ビルの屋上で、赤い航空障害灯が、ゆっくり点滅している。
「…全ては私に好意を持たせるため、私に見せてきた姿は、全部、嘘だったって…、静さんはそう言ってました」
言葉にすると、また胸が痛んだ。けれど、零は続けた。
「優しかったのも、笑ってくれたのも、全部…。……でも、私は、そうは思えないんです」
零は、ぎゅっと目を閉じた。
「私はもっと、静さんのことが、知りたい…」
しばらく、沈黙が続いた。
電話の向こうで、椅子のきしむ音がした。響がゆっくり座り直したのだろう。
「……君は、俺と静の母親が亡くなっていることは、知っているか?」
「はい」
零は小さくうなずいた。
「小学生のときに、病気で亡くなったと。バーで、静さんが、話してくれました。……その話は、本当だったんですね」
「ああ、本当だ」
響の声が、少し低くなった。
「少し、昔の話をする。聞いてくれるか」
「……お願いします」
零はベッドの上で姿勢を正した。ランプの光が、白いシーツに落ちている。
響はゆっくり語りはじめた。
「母さんが亡くなる前の静は、明るくて無邪気な子供だった。よく笑って、よくしゃべって。母さんのあとを、いつもついて回ってた。……いまの静からは、想像もつかないだろ」
「……はい。想像できません」
零は正直に言った。
眠たげな目と、つかみどころのない声。あの静に、無邪気に笑う子供時代があったなんて、すぐには信じられなかった。
「母さんが亡くなって、静は変わった…。無口で部屋にこもりがちな子供になっていったんだ…」
響の声には、感情をおさえているような響きがあった。
「それで、中学に入るころから、素行が悪くなっていった。学校をさぼって、夜遅くまで帰ってこない…、帰ってきたかと思えば、酒とたばこの匂いがする。高校でも、それは変わらなかった」
零は黙って聞いていた。
母親を失った小さな男の子が、どんなふうに壊れていったのか。それは、零の想像を、はるかに超えていた。胸の奥が、ずきりと痛む。
静は、さびしかったのだ。きっと、誰にも言えないくらい、さびしかったのだ。
「……それで」
零はゆっくり口を開いた。声が、少しふるえていた。
「それで、静さんに、あんなことをしたんですか」
響が息をとめたのが分かった。
「静さんから、聞きました。鞭でたたいたり。洗面台に、顔を沈めたり。嫌いな食べ物だけを、ずっと食べさせたり」
零は一語一語、確かめるように言った。
「……そういうことを、していたんですか」
電話の向こうは、とても静かだった。
響の呼吸の音だけが、かすかに聞こえる。重くて、ゆっくりで、何かをこらえているような音だった。
やがて、響が口を開いた。
「……鞭といっても、よく舞台で使われる小道具だ。普通の鞭で弟を叩くわけないだろ…まったく…」
「それでも、静さんを叩いてたんですよね…」
「ああ、それは本当の話だ。静を矯正するためだって言われてな。父親の指示だった。
…当時の俺は、それに従うしかなかったんだ…」
声が、わずかにかすれた。
「……」
零は何も言えなかった。
ランプの光が、シーツの上で、ちらりと揺れた。
窓の外では、夜の街の灯りが、変わらずまたたいている。遠くで、電車が走る音がした。
零はスマートフォンを握る手に、力を入れた。
零はゆっくり息をはいた。
言葉は出てこなかった。
電話の向こうの響も、もう何も言わなかった。
ふたりの間に、重い沈黙だけが、静かに落ちていた。
響がふっと息をついた。
「静が変わったのは、母親が亡くなったから。それは間違いない。でも俺は、もうひとつ理由があると思ってる」
「もうひとつ、ですか?」
零はスマートフォンを持ち直した。
「ああ」
「…なんですか?」
「静は、俺の母親と血がつながってない」
「え?」
零の声が、小さくこぼれた。
「静は、父が浮気してできた子なんだ。…相手は、財閥家の令嬢だった…」
「そんな……」
「そのことを、世間に隠したかった父は、赤ん坊だった静を家に連れてきた。それで、俺の母さんが、自分の子として育てることになったんだ」
響の声は、淡々としていた。けれど、その底には、長いあいだ押し込めてきたものがにじんでいた。
零は静の顔を思い浮かべた。眠たげな目。つかみどころのない笑い方。あの静に、そんな生まれがあったなんて。
「静がまだ小さいころ、静の実母が、うちに来たことがあってな…」
響は続けた。
「静は自分の子供だから返すよう言いに来た。理由は、跡継ぎが必要なのに、婚約者との間に子供ができないからだと言っていた」
「そんなの、勝手すぎます」
「ああ、勝手な話だ。母さんは、もちろん断った。血のつながりはなくても、静を自分の子だと思って育てていたからな」
そこで、響は少し言葉を切った。電話の向こうで、短く息を吸う音がした。
「でも、父が母に言ったんだ…『静を手放せ』って…」
零は息をのんだ。
「それから、父と母の仲が悪くなった。
父親に浮気されても、冷たくあしらわれても全く動じなかった母が、
だんだん笑わなくなって、ある日、病気で倒れた。そして、そのまま亡くなったってわけだ…」
零は言葉が出なかった。喉の奥が詰まって、声にならない。目の前の暗がりが、涙でにじんで見えた。
「それだけじゃない」
響の声が、少し低くなった。
「母さんが亡くなって一年経った頃、静の実母に、男の子が生まれた。それから静の実母は家に来てこう言ったんだ。『静はもういらない』って…。まだ子供だった静がいる前で、そう言ったんだ…」
「……っ」
零は、思わず口もとを押さえた。
『もういらない』
小さな子供に向けるには、あまりにひどい言葉だった。
「だから静は『自分のせいで、母さんが死んだ』って…、そう思ってるんじゃないかって、俺は考えてる…」
響の声が、ふるえていた。
「自分が引き取られそうになったから。自分がいたから。だから母さんは苦しんで、病気になって、死んでしまったんだ、って…、あいつならそう思いかねない」
「そんな……」
零の目から、涙があふれた。
「静さんは、何も悪くないのに」
「そうだ。俺もそう思う」
響はすぐに答えた。
「静は、何ひとつ悪くない。悪いのは自分勝手な父親と静の実母だ…」
沈黙が落ちた。
ホテルの空調の低い音だけが、かすかに聞こえる。窓の外では、赤い航空障害灯が、ゆっくり点滅を続けていた。
やがて、響がぽつりと言った。
「静は、母さんが亡くなったあと、毎晩、寝ながら泣いてた」
零は顔を上げた。
「毎晩?」
「ああ。しばらく、同じ部屋で寝ていた時期があってな。夜中になると、小さい声が聞こえるんだ。『お母さん、ごめんなさい、ごめんなさい』って。亡くなった母さんに謝ってた…」
「……」
「眠ってるのに、涙だけがぼろぼろ出てた。朝になると、何も覚えてない顔で、何も話そうとしない」
響の声は、そこでとぎれた。
零は何も言えなかった。
暗い部屋の布団の中で、顔を濡らしながら、亡くなった母親に謝りつづける小さな男の子。その姿が、はっきりと目に浮かんだ。
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
自分は静の何を見ていたのだろう、と零は思った。あの眠たげな目の奥に、そんな夜が何年も積み重なっていたなんて、少しも気づけなかった。
『自分が、誰かに恋愛感情を持てるのか。それを、試しているだけなんです』
あの言葉の意味が、さっきとは違う重さで、胸に落ちてくる。
自分は誰かを愛せる人間なのか…、父親や実母のように冷たい人間なのではないか__。
静はそんな悩みを抱えて生きていたのかもしれない、と零は思う。
零は手の甲で涙をぬぐった。
ぬぐっても、またひとつ、頬をこぼれ落ちていく。
それは、静にふられた時のような悲しみの涙ではなかった。もっと深いところから、静かにわいてくる涙だった。
電話の向こうで、響は何も言わなかった。
ふたりは、離れた場所で、同じ沈黙の中にいた。




