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この小説は『猫系男子と名探偵 』の続編です。

未読の方は、まずそちらを読んでいただくよう宜しくお願いします。

 9月の夕方。街は、夕日でオレンジ色に染まっていた。


 斎藤静は駅の近くの並木道を歩いていた。急いではいない。足音はほとんどしない。猫みたいに静かな歩き方だった。

 白いシャツの袖をひじまでまくっている。黒いズボンをはいていて、脚がとても長く見えた。シャツは夕日を浴びて、うっすらオレンジ色に光っている。

 髪は茶色で、肩につくくらいの長さだ。風でほおにかかっても、直さない。

眠そうな目でぼんやり前を見ている。


 年は二十代の半ば。背が高くて、スタイルがいい。顔もとてもきれいだった。

 しかし、すれ違う女の人が振り返っても、静は気にしない。どこか気だるくて、つかみどころのない雰囲気があった。


 道には銀杏の葉が落ちている。バスが通り、高校生たちが笑いながら走っていく。まわりはいつもの夕方なのに、静だけが少し離れたところにいるように見えた。

 静はポケットからスマートフォンを出した。画面には、ずっと開いたままの名前がある。


『朝日零』


 指が通話ボタンの前で止まる。信号が青になっても、静は動かなかった。しばらくして、小さく息をはき、ボタンを押した。

 プルル、プルル、プルル。

 静は道ばたの石のベンチに腰を下ろした。


「もしもし」


 静の声は低くて、少しかすれていた。

 返事はない。でも、電話は切れていない。向こうで零が息をひそめているのが分かった。


「……」


「さっき、言い忘れてました」


 風が吹いて、木の葉がざわざわ鳴った。薄いシャツが背中にはりつく。


「……なんですか?」


 やっと零の声がした。声がわずかに震えている。


「僕を好きになっていただき、ありがとうございました」


 言ってから、静は少し気づいた。まちがってはいない。でも、いま一番言ってはいけない言い方だったかもしれない。それでも、ほかの言葉は思いつかなかった。

 零がふるえる息をはいた。


「……その一言で、終わらせるんですね」


「なにがです?」


 静は本当に分からなかった。

 零が短く笑った。楽しくて笑ったのではない。苦しくて、息がもれたような笑いだった。


「いままでのことです」


 零の声が、だんだん熱くなる。


「雨の日に出会ったことも。水族館で一緒に見て回ったことも。バーで一緒に楽しく会話をしたことも。あなたの何気ない一言で、わたしがどれだけ一日を左右されたか。それを全部、『ありがとうございました』で終わらせちゃうんですね」


 静は黙って聞いていた。背中にベンチの冷たさが伝わってくる。足もとで、銀杏の葉が風にひっくり返った。


「……わたしがいま、どれだけ傷ついてるか、わかってます?」


 最後は、ささやくような声だった。怒っているように聞こえるけれど、本当は、泣きそうな声だった。

 静は答えられなかった。

 長い、長い沈黙が続いた。


 零は待っている。じっと、たえている。電話を切れば楽なのに、切らない。その不器用さが、静の胸を、ちくりと刺した。

 道の向こうでは、花屋が鉢植えを店に入れていた。オレンジ色のマリーゴールドが、夕日にあたって、ほんのり光っている。


 静は数時間前のことを思い出していた。

 零が泊まっているホテルの一室で、彼女が自分の目をまっすぐ見て言った言葉__。


「私は斎藤さんが好きです。ドキドキしてくれなくても構いません。

 今すぐ答えを出してほしいとも思っていません。ただ……私の気持ちは、ちゃんと知っておいてほしいんです」


 あのとき、静の心の中はからっぽだった。

 何も泳いでいない水槽をのぞいたみたいに、ただ静かだった。それが、静にはいちばん不思議だった。

 人を好きになると、心はどう動くんだろう。


 零みたいに、声がふるえるんだろうか。眠れない夜があるんだろうか。誰かが笑うだけで、一日が明るくなるんだろうか。そういう気持ちが、自分の中にもあるのか。それとも、最初からないのか。

 それを静はずっと、確かめたかった。


「……零さん」


 思ったより、小さな声が出た。


「僕は……」


 西の空が、ピンクから濃い青に変わっていく。街灯がひとつ、またひとつ、ともった。並木の下に、白い光の丸ができる。


 静は小さく息をはいて言った。


「自分が、誰かに恋愛感情を持てるのか。それを、試しているだけなんです」


 言ったあとで、静は気づいた。ひどいことを言ってしまった、と。

 でも、取り消さなかった。

 これが、いまの静にいえる、たったひとつの本当のことだったから。


 電話の向こうで、零は何も言わなかった。

 通話はまだ切れていない。

 夜がゆっくり街におりてくる。静はスマートフォンを耳にあてたまま、片手をズボンのポケットに入れた。


「……静さんは、本当に、誰かに恋したことないんですね」


 零の声は、さっきよりも静かだった。責める声ではなかった。ひとりごとのような、あきらめたような声だった。

 静は何も言えなかった。


「恋をすると、どれだけ嬉しくて、悲しくて、苦しいか。……私には、わかります」


 その言葉は、電話の向こうから、そっと静の耳に落ちてきた。

 静はベンチから立ち上がった。目の前の街灯の光の下で、銀杏の葉が一枚、くるくる回りながら落ちていく。

 その葉を目で追いながら、静は思った。


 自分は恋愛感情による、うれしさも、悲しさも、苦しさも、知らない。零が知っていることを、自分は何ひとつ知らない。それが、なぜかひどく申し訳なかった。同情ではない。ただ、同じ場所に立てないことが、静かに胸にこたえた。


「……零さん」


「……はい」


 返事はとても小さかった。

 静はゆっくり言葉を選んだ。


「人として、僕はあなたを尊敬しています」


 零が息をのんだのが分かった。


「これは、嘘じゃありません。本心です」


 零に対して恋愛感情はなくても、彼女の純粋なところや誠実さに惹かれていたのは本当だった。静は、それを伝えたかった。


「……その言葉、余計につらくなります」


「え?」


 静は思わず聞き返した。

 零は少し笑ったようだった。さっきの苦しい笑いとは違う。泣き笑いに近い、やわらかい声だった。


「いっそのこと、嫌いだって言ってくれたら、あきらめられるのに…」


 静は口を開いて、閉じた。

 何か言おうとしたけれど、言葉が出てこない。人の心がこんなふうに複雑に動くことを、静は、いままで知らなかった。

 すぐに答えられない静に、零が言った。


「……では、友人として、これからも宜しくお願いします」


 無理に明るくした声だった。ふるえているのを、必死に隠している。それでも、零は言った。静が選べなかった道を、彼女のほうから、そっと作ってくれたのだ。

 静はその声の強さに、胸の奥が小さく熱くなるのを感じた。


「次に会う時…、気まずいですね」


 ぽろっと、本音がこぼれた。


「それは、こっちのセリフです」


 すぐに零が言い返した。

 その声には、ほんの少しだけ、いつもの零らしさが戻っていた。

 遠くで電車が通る音がした。花屋のシャッターが、がらがらと降りる。


「……では、また」


 静が言った。


「はい」


 零が答えた。

 それ以上、どちらも何も言わなかった。

 数秒おいて、ぷつり、と電話が切れた。


 静はスマートフォンを耳から離して、画面を見つめた。「通話終了」の文字が消えて、朝日零の名前だけが残っている。

 薄暗くなった並木道を、風が吹き抜けた。薄いシャツがふくらんで、静の体のまわりで、ふわりと揺れる。

 静はスマートフォンをズボンのポケットにしまい、ゆっくり歩き出した。




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