第5話 休日にまで敗北する男
【前回までのあらすじ】
部下の成長を喜ぶべき営業リーダー、佐伯遼。
ところが部下が優秀になるほど、
自分の存在意義がわからなくなってきた。
会社からは仕事の追加を打診され、
給料については特に言及されていない。
とりあえず評価基準の確認を申し入れた。
39歳。ようやく労働条件を気にし始めた。
土曜日の朝。
目が覚めると、午前九時を過ぎていた。
珍しくよく眠れた。
平日は目覚まし時計が鳴る前に目が覚めることが多い。仕事のことを考えているからだろう。
休日になると、途端に眠れる。
どうやら俺の睡眠障害は、会社が原因らしい。
労災認定されないだろうか。
リビングに降りると、美咲がコーヒーを飲んでいた。
「おはよう」
「おはよう。よく寝てたね」
「久しぶりにな」
「今日、何か予定ある?」
「特にないけど」
「じゃあ、買い物付き合って」
休日の予定が決まった。
俺の意思決定が介在する余地は、今回もなかった。
「何買うの?」
「日用品とか、食料品とか。あと陽菜のテニスシューズ」
「また?」
「サイズが合わなくなったんだって」
「この前買わなかった?」
「半年前ね」
半年。
俺の革靴は五年履いている。
高校生の足の成長速度と、三十九歳の給料の成長速度には、ずいぶんな差があるらしい。
ちなみに後者は、ほぼ停止している。
朝食を食べながらスマートフォンを開く。
地元の高校時代の友人たちのグループチャットに、新しいメッセージが届いていた。
『来月、久しぶりに集まらない?』
送ってきたのは、藤井だった。
高校時代からの友人で、現在は大手メーカーの管理職。
以前会ったときは、海外出張の話をしていた。
もう一人の友人、村上は外資系企業に勤めている。
年収は知らない。
聞いたら傷つきそうなので、聞かないことにしている。
ちなみに高校時代、藤井より俺のほうが数学の成績はよかった。
村上なんて、試験前になると毎回俺のノートを借りに来ていた。
それが今では、一人は大手メーカーの管理職、もう一人は外資系企業の社員である。
俺は中堅文房具メーカーの営業リーダー。
人生という試験には、どうやら高校の成績が反映されないらしい。
事前に教えておいてほしかった。
もっとも、大学受験の段階で一度教えられていた気もする。
あのときは勉強しなかった俺が悪い。
そこは認めよう。
ただ、三十九歳になっても追試が続いているとは思わなかった。
『いいね! 久しぶり!』
『予定合わせよう』
次々と返信が届く。
俺は画面を眺めた。
懐かしい。
会いたい気持ちはある。
ただ、少しだけ気が重い。
友人たちが嫌いなわけではない。
むしろ、いいやつらだ。
だからこそ困る。
悪いやつなら、心の中で見下して自尊心を保てるのだが、彼らは普通にいいやつで、普通に成功している。
こちらに勝ち目がない。
「何見てるの?」
美咲が聞いた。
「高校の同級生から飲み会の誘い」
「行けば?」
「まあ、そうなんだけど」
「何かあるの?」
「いや……みんな出世してるからさ」
美咲はコーヒーカップを置いた。
「それ、飲み会と関係ある?」
「あるだろ。久しぶりに会ったら、仕事の話とかするじゃん」
「するだろうね」
「向こうは管理職とか外資系とかで、俺はまだリーダーだし」
「ふーん」
興味がなさそうだった。
「何?」
「いや、友達に会うんでしょ?」
「そうだけど」
「役職の発表会じゃないんだから」
それはそうだ。
ただ、役職の発表会ではないからこそ、厄介なのだ。
誰も競争していないのに、俺だけ勝手に順位をつけている。
しかも毎回、自分を最下位に置いている。
我ながら、効率の悪い競技である。
「お父さん、今日何時に出る?」
陽菜がリビングに入ってきた。
部屋着のまま、髪を適当にまとめている。
「十時くらいじゃないか?」
「じゃあ、あと三十分寝ようかな」
「さっき起きたばっかりだろ」
「休日だから」
実に明快な理由だった。
「そういえば、テニスどうなんだ?」
「何が?」
「試合とか」
「来週練習試合あるよ」
「出るの?」
「たぶん。補欠だけど」
「レギュラー目指さないのか?」
陽菜は不思議そうな顔をした。
「目指してるよ」
「そうなの?」
「うん。でも、今は先輩のほうが上手いし」
「悔しくない?」
「悔しいよ」
「じゃあ、もっと練習しないと」
「してるって」
陽菜は冷蔵庫から牛乳を取り出した。
「でもさ、補欠でもテニス楽しいんだよね」
「……そうか」
「友達もいるし。試合出られたらもっと楽しいと思うけど」
そう言って、牛乳を飲み始めた。
俺は少し考えた。
補欠でも楽しい。
そんな考え方があるのか。
俺なら、どうだろう。
仕事で成果を出しているのに、役職が上がらない。
それが悔しくて仕方がない。
陽菜は試合に出られなくても、テニスそのものを楽しんでいる。
もちろん、部活動と仕事は違う。
生活がかかっているかどうかも違う。
ただ、娘のほうが少し大人に見えた。
認めたくはないが。
「お父さん」
「何?」
「牛乳なくなった」
「そうか」
「買い物リストに入れといて」
俺はスマートフォンのメモを開いた。
娘からの業務指示を受け付ける。
家庭内でも、俺は現場担当らしい。
午前十時半。
家族四人でショッピングモールに到着した。
悠真は最初、留守番すると言っていた。
だが、美咲が「お昼は外で食べるよ」と告げると、あっさり同行を決めた。
息子の意思決定基準は明確だ。
食事が伴うかどうか。
将来、営業職に就いたら強いかもしれない。
接待で簡単に買収される危険性もあるが。
スポーツ用品店に入ると、陽菜はテニスシューズを選び始めた。
「これかわいい!」
手に取ったのは、白を基調にしたシューズだった。
値札を見る。
一万二千円。
かわいい。
値段はかわいくない。
「もうちょっと安いのないの?」
俺が聞くと、陽菜は顔をしかめた。
「お父さん、これ足に合うんだって」
「まだ履いてないだろ」
「今から履くの!」
正論だった。
試着した陽菜は、店内を少し歩いた。
「うん、いい感じ!」
「そうか」
「これにする!」
美咲がうなずいた。
「じゃあ、それにしよう」
決まった。
俺の価格交渉は、開始前に終了した。
仕事では得意な分野なのだが、家庭内では実績が乏しい。
会計を済ませたあと、悠真が言った。
「俺もバッシュ見ていい?」
「買わないぞ」
「見るだけ」
そう言って、バスケットボールシューズの売り場へ向かう。
悠真は中学のバスケ部でキャプテンをしている。
勉強もできる。
運動もそこそこできる。
俺の息子にしては、出来すぎている。
遺伝という制度には、時々説明のつかないことがある。
「父さん、これどう思う?」
悠真が黒いバッシュを指さした。
「かっこいいんじゃない?」
「だよな」
「いくら?」
「二万」
「見るだけにしろ」
「わかってるって」
悠真は笑った。
「俺、次の大会で優勝したら買ってもらおうかな」
「誰に?」
「母さん」
「俺じゃないの?」
「父さん、さっきから高いって言ってるじゃん」
なるほど。
交渉相手の選定もできるらしい。
営業の才能がある。
俺の立場はない。
昼食はフードコートになった。
俺はラーメン。
美咲はパスタ。
陽菜はオムライス。
悠真は大盛りのカツ丼。
家族全員、食べたいものが違う。
フードコートという仕組みは、実に合理的だ。
誰かが我慢する必要がない。
会社の会議も、これくらい自由にしてほしい。
「父さん、仕事どうなった?」
悠真がカツ丼を食べながら聞いた。
「何が?」
「この前のレベル上げの話」
「ああ、まだ決めてない」
「ふーん」
「何だよ」
「いや、父さんってさ、何でそんなに出世したいの?」
俺は箸を止めた。
「そりゃ、給料も上がるし、仕事の幅も広がるし」
「でも、給料上がらないんでしょ? 今回」
「今回の話はな」
「じゃあ、何でやるの?」
まただ。
最近、家族全員から同じ質問をされている気がする。
何のために働くのか。
何のために出世したいのか。
俺は就職面接でも受けているのだろうか。
しかも面接官は中学二年生だ。
「まあ、将来のためだよ」
「将来って、いつ?」
悠真は首をかしげた。
サクライと同じことを聞いてきた。
俺の周囲では、将来という言葉への監査が始まっているらしい。
「まだわからないけど」
「ふーん」
悠真はカツ丼を口に運んだ。
「俺、将来バスケのプロになりたいんだよね」
「知ってる」
「でも、無理だったら普通に働く」
「普通にって何だよ」
「知らん。でも、バスケは続けたい」
「そうか」
「うん。好きだから」
それだけ言うと、またカツ丼を食べ始めた。
俺はラーメンのスープを飲んだ。
好きだから続けたい。
それは、ずいぶんシンプルな理由だった。
俺は仕事が嫌いではない。
むしろ、好きなほうだと思う。
営業も、部下を育てることも、数字を分析することも。
ただ、いつの間にか、仕事を楽しむことより、仕事で認められることのほうが大事になっていた気がする。
「ねえ、お父さん」
今度は陽菜だった。
「何?」
「さっきから難しい顔してるけど、ラーメンまずいの?」
「いや、うまいよ」
「じゃあ、よかった」
それだけだった。
娘はオムライスに戻った。
俺は少し笑った。
そうだな。
ラーメンはうまい。
休日で、家族と買い物に来ている。
それで十分じゃないか。
……いや、十分なのか?
出世だってしたい。
もっと稼ぎたい。
昔の友人たちにも負けたくない。
それを全部捨てて、今の生活に満足するのが正解なのだろうか。
よくわからない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
ラーメンが伸びる。
俺は考えるのをやめて、残りの麺をすすった。
帰宅したのは午後三時過ぎだった。
陽菜は新しいシューズを部屋に持っていき、悠真は友達と遊びに出かけた。
美咲は洗濯物を取り込み始めた。
俺はソファに座った。
猫がいた。
いつもの場所で寝ている。
「お前はいいな」
猫は反応しない。
「毎日休みで」
やはり反応しない。
俺はスマートフォンを開いた。
高校時代のグループチャットに、またメッセージが届いていた。
『佐伯も来られる?』
藤井からだった。
俺はしばらく画面を見つめた。
行けば、また自分と友人たちを比べるかもしれない。
向こうの役職や年収が気になるかもしれない。
惨めな気分になるかもしれない。
でも、久しぶりに会いたい気持ちもある。
昔は、くだらない話ばかりしていた。
誰が一番早く結婚するか。
誰が一番金持ちになるか。
誰が一番先にハゲるか。
最後の勝負だけは、まだ決着がついていない。
俺は返信を打った。
『行けるよ。久しぶりに飲もう!』
送信すると、すぐに返事が来た。
『おお! 楽しみにしてる!』
『佐伯、久しぶり!』
俺は少し嬉しくなった。
何だ。
普通に会いたかったんじゃないか。
「何ニヤニヤしてるの?」
洗濯物を抱えた美咲が聞いた。
「来月、地元の友達と飲むことにした」
「よかったじゃん」
「うん」
「じゃあ、その日は夕飯いらないね」
「たぶんな」
「了解」
美咲はスマートフォンを取り出した。
家族の予定表に何か入力している。
「何してるの?」
「夕飯の人数減らした」
「早いな」
「予定は早めに決めたほうが楽だから」
なるほど。
俺が長年悩んでいた友人との再会は、妻の中では夕飯の人数変更として処理されたらしい。
まあ、間違ってはいない。
夕方。
ソファでうとうとしていると、猫が腹の上に乗ってきた。
重い。
だが、どかすほどではない。
俺は天井を見上げた。
今日は何も成し遂げていない。
売上も上げていない。
部下も育てていない。
昇格に近づいたわけでもない。
一万二千円のテニスシューズを買い、ラーメンを食べ、友人との飲み会の予定を決めただけだ。
会社の評価シートに書ける成果は、ひとつもない。
それなのに、悪くない一日だった。
むしろ、かなりよかった。
猫が喉を鳴らした。
俺はそっと背中を撫でた。
「なあ、お前」
猫は目を閉じたままだった。
「今日の俺、何点くらいだと思う?」
返事はない。
まあ、そうだろう。
猫に人事評価を求めるほうが間違っている。
俺は目を閉じた。
休日くらい、誰かに評価されなくてもいいか。
そう思ったところで、キッチンから美咲の声がした。
「遼ー! 洗濯物たたむの手伝ってー!」
「はーい!」
俺は猫をそっと降ろして立ち上がった。
どうやら家庭内の業務評価は、まだ終わっていないらしい。




