上司って必要?
【前回までのあらすじ】
上司から来期の重要な役割を打診された佐伯遼、39歳。
仕事は増える。
責任も増える。
役職と給料は据え置き。
会社はこれを「成長の機会」と呼ぶらしい。
妻に相談したところ、
「それ、何が変わるの?」と聞かれた。
俺も知りたい。
翌朝、出勤すると、クロカワがコーヒーを飲んでいた。
「おはようございます」
「おはよう。早いな」
「今日は早く帰りたいので」
時計を見ると、午前八時四十分。
始業まで二十分ある。
クロカワはいつも定時に帰る。
それなのに、今日は早く帰りたいらしい。
「何か予定あるの?」
「新しいゲームが届くんです」
「ゲーム?」
「はい。昨日発売されたやつです」
「そんなに楽しみなのか」
「もちろんです。そのために働いてるので」
言い切った。
迷いがない。
俺は仕事を通じて自己実現を目指している。
クロカワは仕事を通じてゲームソフトの購入資金を調達している。
どちらが健全なのか、最近わからなくなってきた。
「佐伯さんは、何のために働いてるんですか?」
突然、聞き返された。
「え?」
「いや、昨日の話聞いて思ったんですけど。佐伯さんって、仕事好きですよね」
「まあ、嫌いではないな」
「じゃあ、いいんじゃないですか。仕事増やしても」
「給料変わらないんだぞ」
「でも、やりたいんですよね?」
俺は返事に詰まった。
この男は、時々恐ろしく単純なことを言う。
しかも、単純すぎて反論が難しい。
「……まだ決めてない」
「そうですか」
クロカワはそれ以上追及しなかった。
人の人生に興味がないのだ。
自分のゲームにはあれほど興味があるのに。
午前九時。
営業チームの簡単な打ち合わせが始まった。
「今週の進捗を確認しようか」
俺が声をかけると、三人が集まった。
タナカ、クロカワ、サクライ。
性格も仕事の進め方も、見事なまでにバラバラだ。
共通点があるとすれば、全員が俺より人生を楽しんでいそうなことくらいだろう。
「まず、タナカから」
「はい!」
タナカは勢いよく立ち上がった。
別に立たなくてもいい。
「昨日の納品の件ですが、無事に先方へ訂正できました!」
「よかったな」
「ただ、ちょっと問題がありまして……」
嫌な予感がした。
タナカが「ただ」と言うとき、だいたい何かが起きている。
「訂正した日付が、また間違ってました」
「……何で?」
「カレンダーを一週間見間違えてました」
「一週間?」
「はい!」
元気よく返事をするな。
そこは反省するところだ。
「それで、今どうなってる?」
「今朝、正しい日付で再度連絡しました!」
「先方の反応は?」
「『今度こそ合ってますよね?』って言われました!」
「そりゃそうだろ」
サクライが笑いをこらえている。
クロカワは無表情で資料を見ていた。
俺はため息をつきかけて、やめた。
「タナカ。確認する方法を変えよう」
「方法ですか?」
「今は自分の頭の中で確認してるだろ」
「はい」
「それをやめよう」
「えっ」
「お前の頭を信用するな」
サクライが吹き出した。
タナカは真剣な顔でうなずいた。
「なるほど……」
「いや、納得するな。そこは少し抵抗しろ」
「すみません!」
「日付、数量、品番。この三つは送信前に必ず元の注文書と照合する。チェック欄を作って、確認したら印をつける」
「わかりました!」
「あと、メールを送る前に一度声に出して読め」
「声に出すんですか?」
「小声でいい。人間は黙読だと間違いを見落とすことがあるから」
「なるほど!」
タナカは急いでメモを取った。
こういうところは素直なのだ。
できないことを隠さない。
教えればやろうとする。
問題は、教えたことを翌週には忘れる場合があることだ。
人間の記憶というものは不思議である。
俺は十年前の上司の嫌味を今でも覚えているのに、タナカは昨日の納品日を覚えられない。
「次、クロカワ」
「はい。今月の目標は達成見込みです」
「早いな」
「大口案件が昨日決まったので」
「えっ、あの案件?」
「はい」
俺は思わず身を乗り出した。
クロカワが担当していたのは、半年近く競合と争っていた案件だった。
先方は価格に厳しく、何度も条件の見直しを求めてきた。
俺も一度同行したことがある。
正直、簡単に決まる相手ではなかった。
「どうやって決めたんだ?」
「先方の担当者に、決裁で一番重視される条件を聞きました」
「それで?」
「価格じゃなくて、納期の安定性だとわかったので、物流部門と調整して供給体制を説明しました」
「なるほど」
「価格交渉は最小限で済みました」
見事だった。
相手が何を求めているかを見極め、社内を調整し、必要な提案をする。
営業の基本だ。
そして、その基本を高い精度で実行できる人間は意外と少ない。
「すごいな。よくやった」
「ありがとうございます」
クロカワは淡々と答えた。
「この案件、営業部全体でも共有したいな」
「資料なら作ってあります」
「もう?」
「はい。共有フォルダに入れておきました」
「……助かる」
「ほかに何かありますか?」
「いや、大丈夫」
「じゃあ、今日は予定どおり帰れそうです」
クロカワは満足そうにうなずいた。
俺は少し感動していた。
大口案件を受注し、資料まで作成し、それでいて定時退社を守ろうとする。
この男には、仕事を終わらせるという明確な意思がある。
俺の場合、仕事を終わらせると次の仕事を探してしまう。
たぶん、そこが間違っている。
「最後、サクライ」
「はーい」
サクライはノートパソコンをこちらに向けた。
「今月の販促企画なんですけど、取引先から追加の相談が来てます」
「どんな?」
「店頭で使うPOPを、もう少し目立つものにできないかって」
「予算は?」
「増えません」
「だろうな」
取引先からの要望というのは、だいたい予算を据え置いたまま増えていく。
どうやら世の中の企業は、弊社と同じ人事制度を採用しているらしい。
「それで、既存のデザインを流用して、印刷費を抑える案を考えました」
サクライが画面を切り替えた。
そこには、従来のPOPを少し変更したデザイン案が表示されていた。
確かに目立つ。
しかも、制作費はほとんど変わらない。
「いいじゃん」
「ですよね。先方にも好評でした」
「もう提案したの?」
「はい。昨日のうちに」
「早いな」
「だって、佐伯さんに相談すると、また資料が増えそうだったので」
「おい」
「冗談です」
サクライは笑った。
たぶん、半分くらい本音だ。
いや、七割かもしれない。
「でも、ちゃんと自分で考えて動けてるな」
「ありがとうございます」
「このまま進めていいよ」
「了解です!」
サクライは嬉しそうにうなずいた。
三人とも、仕事の進め方は違う。
タナカは手がかかる。
クロカワは放っておいても成果を出す。
サクライは要領がよく、周囲を巻き込むのもうまい。
それぞれに強みがある。
そして俺は、その強みを活かせるように仕事を割り振り、困ったときに手を貸している。
少なくとも、自分ではそう思っている。
ただ、ふと疑問が浮かんだ。
このチームは、俺がいなくても回るんじゃないだろうか。
打ち合わせが終わったあと、俺はクロカワに声をかけた。
「なあ、ちょっと聞いていい?」
「はい」
「俺がいなくなったら、このチームってどうなると思う?」
クロカワは少し考えた。
「最初は困ると思います」
「そうか」
「でも、しばらくしたら何とかなるんじゃないですか」
「……そうか」
思ったより率直だった。
「タナカのフォローとか、大変だろ?」
「まあ、そこはサクライさんと分担します」
「数字の管理は?」
「僕ができます」
「取引先との調整は?」
「必要ならやります」
なるほど。
俺の存在意義が、順調に解体されていく。
「じゃあ、俺って何のためにいるんだろうな」
思わず口にすると、クロカワは首をかしげた。
「佐伯さん、僕らが困らないようにしてくれてるじゃないですか」
「え?」
「タナカのミスも、僕の案件も、サクライさんの企画も。佐伯さんが全部把握してるから、何かあってもすぐ対応できるんですよ」
「……そうかな」
「そうですよ。だから僕らも安心して仕事できるんです」
クロカワは当然のように言った。
「でも、それって僕らがちゃんと仕事できるようになったら、佐伯さんの出番は減るってことですよね」
「まあ、そうだな」
「じゃあ、いいことじゃないですか」
俺は黙った。
確かにそうだ。
部下が成長すれば、上司の出番は減る。
それは本来、喜ぶべきことなのだろう。
だが、俺は少し寂しかった。
自分が必要とされなくなることに、どこか不安を感じていた。
「佐伯さんって、頼られるの好きですよね」
クロカワが言った。
「そうか?」
「はい。頼られると、ちょっと嬉しそうです」
「そんなことないだろ」
「ありますよ」
即答だった。
「でも、頼られなくなったら、それはそれで成功なんじゃないですか?」
「……成功?」
「だって、部下が自分で仕事できるようになったってことですから」
俺はしばらく考えた。
なるほど。
優秀な部下を育てることが、俺の仕事だとする。
その仕事が成功すれば、俺の仕事は減る。
つまり、俺は自分の仕事をなくすために働いていることになる。
会社員として、なかなか高度な自殺行為ではないだろうか。
「……お前、たまにいいこと言うな」
「ありがとうございます」
「出世する気はないのか?」
「ないです」
「即答かよ」
「はい。今の生活が気に入ってるので」
クロカワは時計を見た。
「じゃあ、午後の訪問行ってきます」
「おう。気をつけて」
彼は鞄を持って出ていった。
俺はその背中を見送りながら思った。
優秀な部下だ。
本当に優秀だ。
ただし、俺の出世欲にはまったく貢献してくれそうにない。
昼休み。
俺は近くのラーメン屋に入った。
昨日とは違う店だ。
味噌ラーメンを注文し、スマートフォンを取り出す。
ミヤモト課長からのメールが、まだ未返信のまま残っていた。
『来期の件、前向きに検討してもらえると助かります』
俺は画面を眺めた。
今のチームは、少しずつ自分たちで回るようになってきた。
だから、隣のチームを見る余裕も生まれるかもしれない。
そう考えれば、今回の話は悪くない。
新しい経験も積める。
管理職への道につながる可能性だってある。
ただし、給料は変わらない。
そこだけは、何度考えても変わらない。
ラーメンが運ばれてきた。
湯気の立つ丼を前に、俺は箸を取った。
うまい。
味噌の香りがいい。
麺の硬さもちょうどいい。
俺はスープを飲みながら、ふと思った。
クロカワは、仕事を終わらせるために働いている。
サクライは、仕事も私生活も楽しむために働いている。
タナカは……。
タナカは何のために働いているんだろう。
少なくとも、今のところ会社に利益をもたらすより、俺の血圧を上げることに熱心だ。
いや、そんなことはない。
あいつだって成長している。
少しずつ。
本当に少しずつ。
俺はラーメンをすすった。
そして、ミヤモト課長への返信を打ち始めた。
『来期の件、前向きに検討しております。』
そこまで入力して、指を止めた。
前向きに検討。
便利な言葉だ。
何も決めていなくても、何かを決めたように見える。
俺はその文章を削除した。
代わりに、こう打った。
『来期の役割について、一度ご相談させてください。業務範囲と評価の考え方を確認したうえで、判断したいと思います。』
送信。
少しだけ、気分が軽くなった。
別に、仕事を断ったわけではない。
出世を諦めたわけでもない。
ただ、自分が何を引き受けるのか、確認することにしただけだ。
こんな当たり前のことをするのに、三十九年もかかった。
いや、正確には会社員になって十年だ。
残りの二十九年は関係ない。
俺は最後のスープを飲み干した。
会計を済ませ、店を出る。
午後からは取引先への訪問が二件。
そのあと、タナカの資料を確認する予定だ。
スマートフォンが震えた。
タナカからだった。
『佐伯さん、すみません! 今日の訪問先、間違えました!』
俺は立ち止まった。
『どこにいる?』
すぐに返信が来た。
『先週行ったお店です!』
なるほど。
成長とは、一直線に進むものではないらしい。
俺は空を見上げた。
いい天気だった。
できれば、タナカにも今日の日付を確認してほしい。




