期待=無償?
【前回までのあらすじ】
大企業への転職が消滅した佐伯遼、39歳。
翌日も普通に出勤したところ、
部下のミスを処理し、仕事を片づけ、
上司からの評価だけが順調に積み上がった。
そして届いた一通のメール。
「来期の体制について相談したい」
懲りない男は、もう出世を期待している。
「佐伯君、ちょっといい?」
午後三時。
ミヤモト課長に呼ばれた俺は、できるだけ平静を装って席を立った。
「はい。何でしょう」
「来期の体制の件でね。会議室、空いてるかな」
来た。
ついに来た。
昨日、世界的企業への転職が消滅したばかりの俺に、早くも次のチャンスが訪れた。
神様というのは、意外と仕事が早い。
もっとも、昨日の件を防いでくれなかった時点で、業務品質には少々疑問が残る。
会議室に入ると、ミヤモト課長はノートパソコンを開いた。
「まあ、座って」
「失礼します」
俺は椅子に腰を下ろした。
机の上には、来期の組織図らしき資料が表示されている。
組織図。
この三文字には、人を興奮させる力がある。
少なくとも俺にはある。
そこに自分の名前がどの位置で書かれるかによって、人生の格付けが変わる気がするからだ。
冷静に考えれば、ただの四角と線なのだが。
「佐伯君には、いつも助けてもらってるからね」
「いえ、とんでもないです」
まずは感謝から始まった。
悪くない。
「営業数字も安定してるし、チームの雰囲気もいい。タナカ君も最近成長してるだろう?」
「まだミスは多いですけど、少しずつですね」
「そうそう。ああいう若手を育てられるのは、佐伯君の強みだと思うんだよ」
褒められている。
かなり褒められている。
俺は表情を変えないよう努めた。
ここでニヤけるのは三流だ。
昇格の話が正式に出るまでは、あくまで冷静に。
「それで、来期なんだけど」
「はい」
「営業部全体の生産性を、もう一段上げたいと思っていてね」
生産性。
出た。
会社が何かを変えようとするとき、必ず登場する便利な言葉だ。
売上を増やすことも生産性。
残業を減らすことも生産性。
人を減らして同じ仕事をさせることも、なぜか生産性と呼ばれる。
「そこで、佐伯君に少し大きな役割をお願いしたいんだ」
心臓が跳ねた。
大きな役割。
これはもう、ほぼ確定ではないか。
俺は背筋を伸ばした。
「具体的には、どのような役割でしょうか」
「今のチームだけじゃなくて、隣のチームのフォローもお願いしたい」
「……隣のチームですか?」
「うん。向こうは若手が多くて、なかなか数字が安定しないからね」
なるほど。
管轄が広がるということか。
管理職への布石としては、十分あり得る。
「もちろん、正式な責任者は向こうにいるんだけど、佐伯君には横断的に見てもらいたいんだよ」
「横断的に」
「そう。数字の管理とか、営業活動の改善とか。若手へのアドバイスも含めてね」
俺はうなずいた。
責任者は別にいる。
しかし、数字の管理と業務改善と人材育成は俺がやる。
それは責任者というものではないのだろうか。
少なくとも、俺の知っている日本語ではそうだ。
「それに伴って、役職の変更などはあるのでしょうか」
俺は聞いた。
遠回しな質問が苦手なのだ。
ミヤモト課長は、少し困ったように笑った。
「ああ、そこなんだけどね」
そこなんだけどね。
嫌な予感がした。
この言葉の後に、朗報が続いた経験があまりない。
「今回は、組織として新しいポストを作る予定はないんだ」
「なるほど」
「ただ、佐伯君には将来的に管理職を目指してほしいと思ってる。今回の経験は、必ずプラスになるはずだから」
なるほど。
つまり、仕事は増える。
役職は変わらない。
給料も、おそらく変わらない。
ただし、経験値は増える。
どうやら弊社の人事制度は、ロールプレイングゲームを参考に設計されているらしい。
問題は、経験値がいくら貯まってもレベルアップの条件が公開されていないことだ。
「もちろん、今すぐ答えを出してほしいわけじゃないよ」
ミヤモト課長は続けた。
「負担が増えるのは事実だからね」
意外だった。
てっきり、やりがいの話で押し切られると思っていた。
「正直に言えば、会社としても余裕がないんだ。増員は難しいし、新しいポストも簡単には作れない」
「そうですよね」
「でも、佐伯君ならできると思ってる。それは本当だよ」
ミヤモト課長は真面目な顔で言った。
たぶん、嘘ではない。
この人は、俺の仕事をちゃんと見ている。
数字も、チームの状況も、タナカの成長も。
だからこそ厄介なのだ。
俺を評価してくれていることと、俺の待遇が改善されないことは、どうやら両立するらしい。
「少し考えさせていただいてもいいですか」
「もちろん。来週くらいまででいいよ」
「ありがとうございます」
会議室を出た俺は、自分の席に戻った。
クロカワがパソコンを閉じるところだった。
「お疲れさまです。何の話だったんですか?」
「来期の体制の話」
「へえ。昇格ですか?」
「いや。仕事が増える話だった」
「ああ」
クロカワは納得したようにうなずいた。
驚くほど早い理解だった。
「断ればいいんじゃないですか」
「簡単に言うなよ」
「だって、給料変わらないんですよね?」
「たぶんな」
「じゃあ、僕なら断ります」
そう言って、クロカワは鞄を持った。
「お先に失礼します」
「お疲れ」
時計を見ると、午後五時半。
定時ぴったりだった。
クロカワは仕事ができる。
数字もいい。
資料も正確で、トラブルも少ない。
そのうえ、誰よりも早く帰る。
なのに出世にはまったく興味がない。
俺からすると、宝くじの当選券を持ちながら換金を拒否しているようなものだ。
ただし、本人はすでに当選金を受け取ったような顔をしている。
自由時間という名の当選金を。
「佐伯さん、ちょっといいですか!」
今度はタナカがやって来た。
「どうした?」
「午前中のボールペンの件、先方からお礼の連絡がありました!」
「ああ、よかったな」
「本当にありがとうございました! 佐伯さんがいなかったら、僕、どうなってたか……」
「次は自分で解決できるようになれよ」
「はい!」
タナカは勢いよく頭を下げた。
そして、そのまま立ち去ろうとして振り返った。
「あ、そうだ。佐伯さん」
「何?」
「さっきの件、納品日を一日間違えて伝えてました」
「……どっちに?」
「先方にです」
「今すぐ訂正しろ」
「はい!」
元気よく返事をして、タナカは走っていった。
できれば元気より正確性を優先してほしい。
だが、悪いやつではない。
失敗したことを隠さず報告するし、注意すれば素直に聞く。
少しずつではあるが、確実に成長している。
この前なんて、同じミスを三回しかしなかった。
以前は五回だったので、四割の改善だ。
弊社の生産性向上施策より、よほど成果が明確である。
「佐伯さん、さっき課長に呼ばれてましたよね」
サクライが声をかけてきた。
「うん」
「もしかして昇進?」
「違う。仕事が増えるかもしれないって話」
「あー」
サクライは、妙に納得した顔をした。
今日はみんな理解が早い。
「それって、引き受けたら何かいいことあるんですか?」
「将来のキャリアにはプラスになるらしい」
「へえ。何年後ですか?」
「そこまでは聞いてない」
「じゃあ、将来って便利ですね」
サクライは笑った。
「私も今度、友達にお金借りるとき、将来的には返すつもりって言ってみようかな」
「それ、返す気ないやつのセリフだろ」
「ですよね。会社だと許されるのに」
彼女は楽しそうに笑って、自分の席へ戻っていった。
俺はしばらく、パソコンの画面を眺めていた。
クロカワは断ると言った。
サクライも、おそらく引き受けないだろう。
俺だって、損得だけで考えれば断るべきなのかもしれない。
でも、どうしても気になるのだ。
この仕事を引き受けた先に、何かがあるんじゃないかと。
今度こそ、自分の価値を証明できるんじゃないかと。
昨日、転職先から高く評価されたばかりなのに。
俺はどうやら、他人に認めてもらうことに飢えているらしい。
面倒くさい性格だ。
しかも、三十九年間付き合ってきたので、今さら返品もできない。
その夜。
夕飯を食べながら、俺は美咲に今日の話をした。
「で、どうするの?」
「まだ決めてない」
「給料は?」
「変わらないと思う」
「仕事は?」
「増える」
「役職は?」
「変わらない」
美咲は箸を止めた。
「それ、何が変わるの?」
「……俺の経験値かな」
「ゲームなの?」
向かいで悠真が吹き出した。
「父さん、レベルいくつ?」
「知らん」
「装備は?」
「スーツ」
「弱そう」
「うるさい」
陽菜まで笑い始めた。
「お父さん、転職できなかったから、今の会社でレベル上げするの?」
「そういうわけじゃない」
「でも、ボス倒してもお金もらえないんでしょ?」
「ボスは倒さない。上司だから」
「つまんな」
俺のキャリアプランが、中学生と高校生によってゲームとして処理されていく。
教育方針を間違えたかもしれない。
美咲は味噌汁を一口飲んでから言った。
「まあ、やりたいならやればいいんじゃない?」
「そう思う?」
「うん。ただ、何のためにやるのかは考えた方がいいと思うけど」
「何のために?」
「出世したいからなのか、仕事が面白そうだからなのか。それとも、断ったら評価が下がりそうだからなのか」
俺は黙った。
美咲はこういうことを、さらっと言う。
本人に悪気はない。
たぶん、俺の頭の中にある見たくない部分を、たまたま正確に言い当てる才能があるのだ。
「別に、今のままでも生活できてるしね」
「まあな」
「共働きの特権だな」
美咲はそう言って、何事もなかったように食事を再開した。
俺は少し考えてから、聞いてみた。
「なあ。俺が出世しなかったら、どう思う?」
美咲は顔を上げた。
「別に?」
「別にって」
「出世しないと困ることある?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、別に」
実に合理的な回答だった。
俺が十年以上悩んでいる問題を、妻は十秒で片づけた。
少し腹が立つ。
ただ、反論する材料も見つからなかった。
食後、ソファに座ってスマートフォンを眺めていると、猫がやって来た。
俺の隣に飛び乗り、丸くなる。
珍しい。
普段は餌をくれるとき以外、俺に興味を示さない生き物だ。
そっと背中を撫でる。
猫は目を細めた。
こいつはいいよな。
出世もない。
人事評価もない。
将来のキャリアプランもない。
寝て、食べて、気が向いたら人間に撫でられる。
それで家族全員から愛されている。
「お前、勝ち組だな」
俺がつぶやくと、猫は大きくあくびをした。
そして、俺の膝の上で眠り始めた。
仕方がないので、しばらく動かずにいた。
スマートフォンには、ミヤモト課長からのメールが届いている。
『来期の件、前向きに検討してもらえると助かります』
俺は返信画面を開いた。
少し考えて、閉じた。
猫が気持ちよさそうに寝ている。
今は動けない。
仕事の返事は、明日でいいだろう。
どうやら俺にも、断れない仕事があるらしい。
こちらは無給だが、今のところ不満はない。




