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俺の人生、もう勝ってたらしい。  作者: ケンジ


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2/6

クセ強部下

【前回までのあらすじ】


39歳、佐伯遼。

世界的企業への転職が、会社都合で消滅した。


俺の能力は高く評価された。

ただし、採用はされなかった。


失意の節分。

娘には落花生で傷口をえぐられ、

妻には焼肉をご馳走された。


人生はどん底だ。


ちなみに、翌日も普通に出勤である。

翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。


午前六時二十分。


昨日、俺の転職活動は終わった。


正確には、俺が終わらせたわけではない。世界的な文房具メーカーの本社が、俺の知らないところで採用計画を終わらせたのだ。


俺はその決定に一切関与していない。


実にグローバルな意思決定である。


数ヶ月にわたる面接、企業研究、適性検査。費やした時間は決して少なくない。


だが、会社からすれば採用計画の変更など、よくある話なのだろう。


俺の人生を左右する出来事が、向こうにとっては会議の議題の一つだった。


たぶん議事録には三行くらいしか残っていない。


せめて五行は使ってほしかった。


隣を見ると、妻はまだ寝ていた。


昨日は焼肉を食べて、帰宅後にドラマを一本見て、ぐっすり眠ったらしい。


俺はというと、夜中に何度も目が覚めた。


夫婦とは不思議なものだ。


同じベッドで寝ているのに、人生の難易度設定が違う気がする。


リビングに向かうと、猫が餌の皿の前で待っていた。


「おはよう」


返事はない。


「俺、昨日すごいことがあったんだぞ」


猫は皿を見つめている。


「世界的企業への転職がなくなったんだ」


猫は俺を見た。


ようやく興味を持ったのかと思ったら、餌の皿を前足で叩いた。


どうやら、失業していないなら早く働けということらしい。


俺は餌を入れた。


こいつには肩書きも年収もない。


それなのに、我が家で最も堂々としている。


少し見習いたい。


ただし、排泄物を他人に片づけてもらう生活まで見習うつもりはない。


*


午前八時四十分。


東邦文具株式会社、営業部。


俺が十年間勤めている会社だ。


ボールペン、ノート、事務用品などを製造する中堅メーカーである。


業界内ではそこそこ知られているが、一般的な知名度は高くない。


友人に会社名を言うと、大抵「聞いたことある気がする」と返ってくる。


たぶん聞いたことはない。


俺はここで営業リーダーをしている。


部下は三人。


売上管理、人材育成、得意先との交渉、トラブル対応。


仕事はそれなりに多い。


ちなみに管理職ではない。


責任は管理職並み、権限は一般社員並み。給料も一般社員と大して変わらない。


会社ではこれを「次世代リーダーの育成」と呼んでいる。


俺はもう十年目だ。


そろそろ育成を終えてもらいたい。


「佐伯さん! おはようございます!」


元気な声が聞こえた。


タナカだ。


二十八歳。入社五年目。


誰よりも熱心に仕事をする男である。


朝は早いし、メモも取るし、研修にも積極的に参加する。


その姿勢は本当に素晴らしい。


問題は、仕事への熱意と営業成績に、今のところ相関関係が見られないことだ。


「佐伯さん、ちょっと相談いいですか?」


「いいよ。どうした?」


「昨日の商談なんですけど」


嫌な予感がした。


タナカが朝一番に相談してくるとき、大抵ろくなことが起きていない。


ただ、問題を隠さないのは彼の長所だ。


問題の発生源が本人であることを除けば、実に優秀な社員である。


「先方から、納期を一週間早められないかって言われまして」


「どの商品?」


「新商品のゲルインクボールペンです」


「数量は?」


「五千本です」


なかなか大きい。


「で、何て答えた?」


「確認しますって伝えました」


俺は少し感動した。


以前のタナカなら、その場で「できます!」と答えていたはずだ。


人間は成長する。


「それで、工場には確認した?」


「はい。無理だそうです」


「先方には?」


「まだ連絡してません」


「なんで?」


「何かいい方法がないかなと思って」


悪くない。


その姿勢は悪くない。


「ちなみに、返事はいつまでに欲しいって?」


「昨日中です」


俺は時計を見た。


午前八時四十五分。


残念ながら、昨日はもう終わっている。


俺はタナカに言った。


「まず先方に連絡しよう。回答が遅れたことを謝って、通常納期を伝える。その上で、何のために早く必要なのか確認して」


「理由ですか?」


「そう。五千本全部が必要なのか、一部だけ先に必要なのかでも対応が変わるから」


「なるほど!」


タナカは勢いよくメモを取り始めた。


「あと、確認が取れるまで納期は約束しないこと」


「わかりました!」


元気よく席に戻っていった。


本当にいいやつだ。


素直で、明るくて、努力家。


これで仕事ができれば完璧なのだが、世の中はそう簡単にはできていない。


*


「佐伯さん」


今度はクロカワが声をかけてきた。


三十二歳。入社八年目。


営業成績は常に上位。


資料作成も早く、数字にも強い。


俺の部下の中では、間違いなく一番仕事ができる。


「今日、直帰していいですか?」


「予定は?」


「午前中に得意先二件です。午後は資料作成だけなんで」


「資料は?」


「終わってます」


「……もう?」


「昨日やりました」


提出された資料を確認する。


数字は正確。


分析も的確。


無駄な説明もない。


俺が作るより見やすいかもしれない。


少し腹が立つ。


「いいよ。直帰で」


「ありがとうございます」


クロカワはそれだけ言って席に戻ろうとした。


「なあ、クロカワ」


「はい?」


「お前、出世したいと思わないの?」


以前から気になっていた。


これだけの能力があれば、もっと上を目指せるはずだ。


クロカワは少し考えた。


「今のところは、別に」


「もったいないな」


「そうですかね」


「能力あるんだから、もっと挑戦すればいいのに」


「佐伯さんは出世したいんですよね?」


「もちろん」


「じゃあ、僕の分までお願いします」


そう言って、クロカワは席に戻った。


見事な回答だった。


こちらの価値観を否定せず、自分の価値観も変えない。


しかも、俺に余計な仕事を押しつけたわけでもない。


単に出世する気がないだけだ。


俺はもう一度、クロカワの資料を見た。


完璧だった。


こいつは今日も定時前に仕事を終えるのだろう。


俺は今日も残業する予定だ。


どちらが優秀なのかは明らかだった。


どちらが幸せなのかは、考えないことにした。


*


「おはようございます!」


サクライが出社してきた。


二十六歳。入社三年目。


整った顔立ちで、社内でも目立つ存在だ。


明るく、人付き合いが上手い。


得意先にもすぐに顔を覚えてもらえる。


仕事の能力は悪くない。


ただし、本人が仕事を人生の中心に置いていない。


「佐伯さん、昨日どうなりました?」


「昨日?」


「転職ですよ。結果出るって言ってたじゃないですか」


そうだった。


以前、飲み会で話したことがあった。


「ダメだったよ」


「えっ、そうなんですか?」


「採用自体がなくなったんだって」


「うわ、それ最悪ですね」


サクライは眉をひそめた。


「結構行きたかったんですよね?」


「まあな」


「じゃあ、今日めちゃくちゃ落ち込んでません?」


「普通に仕事はするよ」


「いや、そういう話じゃなくて」


サクライは少し考えてから言った。


「週末、温泉でも行ったらどうですか?」


「温泉?」


「佐伯さん、好きじゃないですか」


確かに好きだ。


「私、嫌なことあったら旅行の予定入れるんですよ。そうすると、それまで頑張れるんで」


「なるほどな」


「今週末、日帰りでもいいじゃないですか」


「まあ、考えとくよ」


「おすすめの温泉、あとで送りますね」


サクライは笑って席に戻った。


この子は、いつも楽しそうだ。


もちろん悩みがないわけではないのだろう。


ただ、嫌なことがあっても、次の楽しみを見つけるのが早い。


俺は昨日のメールを、今朝も二回読み返した。


サクライなら、とっくに温泉を予約している気がする。


*


午前十時過ぎ。


タナカが再び俺のところに来た。


「佐伯さん、先方に確認できました!」


「どうだった?」


「五千本全部じゃなくて、千本だけ先に欲しいそうです」


「理由は?」


「来週から始まる新生活フェアで使うみたいです」


なるほど。


それなら話は変わる。


「他の営業所の在庫は確認した?」


「いえ、まだです」


「じゃあ、見てみようか」


社内の在庫システムを開く。


各営業所の在庫を確認すると、隣県の営業所に同じ商品が千二百本残っていた。


「これ、使えるかもしれないな」


「本当ですか?」


「まだわからない。向こうにも出荷予定があるから」


俺は担当者に電話をかけた。


事情を説明し、在庫の一部を融通してもらえないか相談する。


幸い、千本なら対応できるという。


次は物流だ。


配送会社に確認すると、追加費用は発生するものの、希望日までに届けられる見込みだった。


俺はタナカを呼んだ。


「先方に連絡して。千本だけなら間に合いそうだ。ただし追加の配送費がかかるから、そこは条件を確認して」


「ありがとうございます!」


「あと、次からは工場だけじゃなく、他の営業所の在庫も見ること」


「はい!」


タナカは深く頭を下げた。


「佐伯さん、やっぱりすごいですね」


「別にすごくないよ。確認する場所を増やしただけ」


「でも、僕は思いつきませんでした」


「次から思いつけばいいんだよ」


タナカは嬉しそうにうなずいた。


こういう瞬間は、嫌いじゃない。


むしろ結構好きだ。


自分の判断で問題が解決する。


部下が成長する。


得意先にも喜んでもらえる。


営業という仕事には、そういう面白さがある。


俺は今の仕事が嫌いなわけじゃない。


むしろ、向いていると思っている。


ただ、もう少し評価されたいだけだ。


問題は、会社も俺を高く評価していると言っていることである。


評価は高い。


給料は上がらない。


昨日の転職先と同じだ。


どうやら俺の人生には、評価だけを支払う企業が集まってくるらしい。


*


昼休み。


近くのラーメン屋に入った。


初めて来る店だった。


俺はラーメンが好きだ。


特に、新しい店を開拓するのが好きである。


メニューを見ると、豚骨ラーメンが看板商品らしい。


迷わず注文した。


待っている間、スマホを開く。


昨日届いた転職先からのメールが、まだ受信箱に残っていた。


丁寧な文章だった。


こちらの能力を高く評価していること。


今回の見送りは採用計画の変更によるものであること。


将来、再び募集する機会があれば検討してほしいこと。


何度読んでも、結果は変わらない。


わかっている。


わかっているのだが、つい開いてしまう。


俺は自分を合理的な人間だと思っている。


仕事では数字を重視するし、感情論も嫌いだ。


だから転職活動でも、待遇、将来性、仕事内容を比較して判断した。


その結果、採用が白紙になった翌日、同じメールを三回も読み返している。


合理的な理由は特にない。


「お待たせしました」


ラーメンが運ばれてきた。


白濁したスープ。


細めのストレート麺。


チャーシューは二枚。


悪くない。


まずはスープを一口。


うまい。


なかなかいい店を見つけた。


麺をすすりながら、午前中のことを思い返す。


タナカは今日も失敗しかけた。


クロカワは相変わらず仕事が早い。


サクライは週末の温泉の話をしていた。


三人とも、俺とはずいぶん違う。


でも、不思議と嫌いじゃない。


むしろ、いいチームだと思っている。


そんなことを考えていると、スマホが震えた。


ミヤモト課長からだった。


『午後、少し時間あるか?』


直属の上司だ。


四十八歳。


現場の営業力なら、正直俺の方が上だと思う。


ただし、社内政治に関しては圧倒的にミヤモトの方が強い。


上層部への説明が上手く、面倒な案件を引き受けるタイミングも絶妙だ。


俺が現場の問題を解決している間に、ミヤモトは会議室で自分の評価を上げている。


これも立派な能力だと思う。


少なくとも、俺には真似できない。


『大丈夫です。何かありましたか?』


すぐに返信が来た。


『来期の体制について相談したい』


来期の体制。


俺は箸を止めた。


そういえば、そろそろ人事の話が出る時期だ。


まさか。


昇格の話だろうか。


いや、期待するのは早い。


昨日だって、期待した結果があれだった。


それでも、頭の中ではすでにいくつかの可能性を考えていた。


新しい役職。


待遇の改善。


担当エリアの拡大。


もしかしたら、本社への異動なんて話もあるかもしれない。


人間というのは不思議なものだ。


昨日、あれほど落ち込んだばかりなのに。


たった一通のメールで、もう次の期待を始めている。


俺は残りの麺をすすった。


うまい。


この店はまた来よう。

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