クセ強部下
【前回までのあらすじ】
39歳、佐伯遼。
世界的企業への転職が、会社都合で消滅した。
俺の能力は高く評価された。
ただし、採用はされなかった。
失意の節分。
娘には落花生で傷口をえぐられ、
妻には焼肉をご馳走された。
人生はどん底だ。
ちなみに、翌日も普通に出勤である。
翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
午前六時二十分。
昨日、俺の転職活動は終わった。
正確には、俺が終わらせたわけではない。世界的な文房具メーカーの本社が、俺の知らないところで採用計画を終わらせたのだ。
俺はその決定に一切関与していない。
実にグローバルな意思決定である。
数ヶ月にわたる面接、企業研究、適性検査。費やした時間は決して少なくない。
だが、会社からすれば採用計画の変更など、よくある話なのだろう。
俺の人生を左右する出来事が、向こうにとっては会議の議題の一つだった。
たぶん議事録には三行くらいしか残っていない。
せめて五行は使ってほしかった。
隣を見ると、妻はまだ寝ていた。
昨日は焼肉を食べて、帰宅後にドラマを一本見て、ぐっすり眠ったらしい。
俺はというと、夜中に何度も目が覚めた。
夫婦とは不思議なものだ。
同じベッドで寝ているのに、人生の難易度設定が違う気がする。
リビングに向かうと、猫が餌の皿の前で待っていた。
「おはよう」
返事はない。
「俺、昨日すごいことがあったんだぞ」
猫は皿を見つめている。
「世界的企業への転職がなくなったんだ」
猫は俺を見た。
ようやく興味を持ったのかと思ったら、餌の皿を前足で叩いた。
どうやら、失業していないなら早く働けということらしい。
俺は餌を入れた。
こいつには肩書きも年収もない。
それなのに、我が家で最も堂々としている。
少し見習いたい。
ただし、排泄物を他人に片づけてもらう生活まで見習うつもりはない。
*
午前八時四十分。
東邦文具株式会社、営業部。
俺が十年間勤めている会社だ。
ボールペン、ノート、事務用品などを製造する中堅メーカーである。
業界内ではそこそこ知られているが、一般的な知名度は高くない。
友人に会社名を言うと、大抵「聞いたことある気がする」と返ってくる。
たぶん聞いたことはない。
俺はここで営業リーダーをしている。
部下は三人。
売上管理、人材育成、得意先との交渉、トラブル対応。
仕事はそれなりに多い。
ちなみに管理職ではない。
責任は管理職並み、権限は一般社員並み。給料も一般社員と大して変わらない。
会社ではこれを「次世代リーダーの育成」と呼んでいる。
俺はもう十年目だ。
そろそろ育成を終えてもらいたい。
「佐伯さん! おはようございます!」
元気な声が聞こえた。
タナカだ。
二十八歳。入社五年目。
誰よりも熱心に仕事をする男である。
朝は早いし、メモも取るし、研修にも積極的に参加する。
その姿勢は本当に素晴らしい。
問題は、仕事への熱意と営業成績に、今のところ相関関係が見られないことだ。
「佐伯さん、ちょっと相談いいですか?」
「いいよ。どうした?」
「昨日の商談なんですけど」
嫌な予感がした。
タナカが朝一番に相談してくるとき、大抵ろくなことが起きていない。
ただ、問題を隠さないのは彼の長所だ。
問題の発生源が本人であることを除けば、実に優秀な社員である。
「先方から、納期を一週間早められないかって言われまして」
「どの商品?」
「新商品のゲルインクボールペンです」
「数量は?」
「五千本です」
なかなか大きい。
「で、何て答えた?」
「確認しますって伝えました」
俺は少し感動した。
以前のタナカなら、その場で「できます!」と答えていたはずだ。
人間は成長する。
「それで、工場には確認した?」
「はい。無理だそうです」
「先方には?」
「まだ連絡してません」
「なんで?」
「何かいい方法がないかなと思って」
悪くない。
その姿勢は悪くない。
「ちなみに、返事はいつまでに欲しいって?」
「昨日中です」
俺は時計を見た。
午前八時四十五分。
残念ながら、昨日はもう終わっている。
俺はタナカに言った。
「まず先方に連絡しよう。回答が遅れたことを謝って、通常納期を伝える。その上で、何のために早く必要なのか確認して」
「理由ですか?」
「そう。五千本全部が必要なのか、一部だけ先に必要なのかでも対応が変わるから」
「なるほど!」
タナカは勢いよくメモを取り始めた。
「あと、確認が取れるまで納期は約束しないこと」
「わかりました!」
元気よく席に戻っていった。
本当にいいやつだ。
素直で、明るくて、努力家。
これで仕事ができれば完璧なのだが、世の中はそう簡単にはできていない。
*
「佐伯さん」
今度はクロカワが声をかけてきた。
三十二歳。入社八年目。
営業成績は常に上位。
資料作成も早く、数字にも強い。
俺の部下の中では、間違いなく一番仕事ができる。
「今日、直帰していいですか?」
「予定は?」
「午前中に得意先二件です。午後は資料作成だけなんで」
「資料は?」
「終わってます」
「……もう?」
「昨日やりました」
提出された資料を確認する。
数字は正確。
分析も的確。
無駄な説明もない。
俺が作るより見やすいかもしれない。
少し腹が立つ。
「いいよ。直帰で」
「ありがとうございます」
クロカワはそれだけ言って席に戻ろうとした。
「なあ、クロカワ」
「はい?」
「お前、出世したいと思わないの?」
以前から気になっていた。
これだけの能力があれば、もっと上を目指せるはずだ。
クロカワは少し考えた。
「今のところは、別に」
「もったいないな」
「そうですかね」
「能力あるんだから、もっと挑戦すればいいのに」
「佐伯さんは出世したいんですよね?」
「もちろん」
「じゃあ、僕の分までお願いします」
そう言って、クロカワは席に戻った。
見事な回答だった。
こちらの価値観を否定せず、自分の価値観も変えない。
しかも、俺に余計な仕事を押しつけたわけでもない。
単に出世する気がないだけだ。
俺はもう一度、クロカワの資料を見た。
完璧だった。
こいつは今日も定時前に仕事を終えるのだろう。
俺は今日も残業する予定だ。
どちらが優秀なのかは明らかだった。
どちらが幸せなのかは、考えないことにした。
*
「おはようございます!」
サクライが出社してきた。
二十六歳。入社三年目。
整った顔立ちで、社内でも目立つ存在だ。
明るく、人付き合いが上手い。
得意先にもすぐに顔を覚えてもらえる。
仕事の能力は悪くない。
ただし、本人が仕事を人生の中心に置いていない。
「佐伯さん、昨日どうなりました?」
「昨日?」
「転職ですよ。結果出るって言ってたじゃないですか」
そうだった。
以前、飲み会で話したことがあった。
「ダメだったよ」
「えっ、そうなんですか?」
「採用自体がなくなったんだって」
「うわ、それ最悪ですね」
サクライは眉をひそめた。
「結構行きたかったんですよね?」
「まあな」
「じゃあ、今日めちゃくちゃ落ち込んでません?」
「普通に仕事はするよ」
「いや、そういう話じゃなくて」
サクライは少し考えてから言った。
「週末、温泉でも行ったらどうですか?」
「温泉?」
「佐伯さん、好きじゃないですか」
確かに好きだ。
「私、嫌なことあったら旅行の予定入れるんですよ。そうすると、それまで頑張れるんで」
「なるほどな」
「今週末、日帰りでもいいじゃないですか」
「まあ、考えとくよ」
「おすすめの温泉、あとで送りますね」
サクライは笑って席に戻った。
この子は、いつも楽しそうだ。
もちろん悩みがないわけではないのだろう。
ただ、嫌なことがあっても、次の楽しみを見つけるのが早い。
俺は昨日のメールを、今朝も二回読み返した。
サクライなら、とっくに温泉を予約している気がする。
*
午前十時過ぎ。
タナカが再び俺のところに来た。
「佐伯さん、先方に確認できました!」
「どうだった?」
「五千本全部じゃなくて、千本だけ先に欲しいそうです」
「理由は?」
「来週から始まる新生活フェアで使うみたいです」
なるほど。
それなら話は変わる。
「他の営業所の在庫は確認した?」
「いえ、まだです」
「じゃあ、見てみようか」
社内の在庫システムを開く。
各営業所の在庫を確認すると、隣県の営業所に同じ商品が千二百本残っていた。
「これ、使えるかもしれないな」
「本当ですか?」
「まだわからない。向こうにも出荷予定があるから」
俺は担当者に電話をかけた。
事情を説明し、在庫の一部を融通してもらえないか相談する。
幸い、千本なら対応できるという。
次は物流だ。
配送会社に確認すると、追加費用は発生するものの、希望日までに届けられる見込みだった。
俺はタナカを呼んだ。
「先方に連絡して。千本だけなら間に合いそうだ。ただし追加の配送費がかかるから、そこは条件を確認して」
「ありがとうございます!」
「あと、次からは工場だけじゃなく、他の営業所の在庫も見ること」
「はい!」
タナカは深く頭を下げた。
「佐伯さん、やっぱりすごいですね」
「別にすごくないよ。確認する場所を増やしただけ」
「でも、僕は思いつきませんでした」
「次から思いつけばいいんだよ」
タナカは嬉しそうにうなずいた。
こういう瞬間は、嫌いじゃない。
むしろ結構好きだ。
自分の判断で問題が解決する。
部下が成長する。
得意先にも喜んでもらえる。
営業という仕事には、そういう面白さがある。
俺は今の仕事が嫌いなわけじゃない。
むしろ、向いていると思っている。
ただ、もう少し評価されたいだけだ。
問題は、会社も俺を高く評価していると言っていることである。
評価は高い。
給料は上がらない。
昨日の転職先と同じだ。
どうやら俺の人生には、評価だけを支払う企業が集まってくるらしい。
*
昼休み。
近くのラーメン屋に入った。
初めて来る店だった。
俺はラーメンが好きだ。
特に、新しい店を開拓するのが好きである。
メニューを見ると、豚骨ラーメンが看板商品らしい。
迷わず注文した。
待っている間、スマホを開く。
昨日届いた転職先からのメールが、まだ受信箱に残っていた。
丁寧な文章だった。
こちらの能力を高く評価していること。
今回の見送りは採用計画の変更によるものであること。
将来、再び募集する機会があれば検討してほしいこと。
何度読んでも、結果は変わらない。
わかっている。
わかっているのだが、つい開いてしまう。
俺は自分を合理的な人間だと思っている。
仕事では数字を重視するし、感情論も嫌いだ。
だから転職活動でも、待遇、将来性、仕事内容を比較して判断した。
その結果、採用が白紙になった翌日、同じメールを三回も読み返している。
合理的な理由は特にない。
「お待たせしました」
ラーメンが運ばれてきた。
白濁したスープ。
細めのストレート麺。
チャーシューは二枚。
悪くない。
まずはスープを一口。
うまい。
なかなかいい店を見つけた。
麺をすすりながら、午前中のことを思い返す。
タナカは今日も失敗しかけた。
クロカワは相変わらず仕事が早い。
サクライは週末の温泉の話をしていた。
三人とも、俺とはずいぶん違う。
でも、不思議と嫌いじゃない。
むしろ、いいチームだと思っている。
そんなことを考えていると、スマホが震えた。
ミヤモト課長からだった。
『午後、少し時間あるか?』
直属の上司だ。
四十八歳。
現場の営業力なら、正直俺の方が上だと思う。
ただし、社内政治に関しては圧倒的にミヤモトの方が強い。
上層部への説明が上手く、面倒な案件を引き受けるタイミングも絶妙だ。
俺が現場の問題を解決している間に、ミヤモトは会議室で自分の評価を上げている。
これも立派な能力だと思う。
少なくとも、俺には真似できない。
『大丈夫です。何かありましたか?』
すぐに返信が来た。
『来期の体制について相談したい』
来期の体制。
俺は箸を止めた。
そういえば、そろそろ人事の話が出る時期だ。
まさか。
昇格の話だろうか。
いや、期待するのは早い。
昨日だって、期待した結果があれだった。
それでも、頭の中ではすでにいくつかの可能性を考えていた。
新しい役職。
待遇の改善。
担当エリアの拡大。
もしかしたら、本社への異動なんて話もあるかもしれない。
人間というのは不思議なものだ。
昨日、あれほど落ち込んだばかりなのに。
たった一通のメールで、もう次の期待を始めている。
俺は残りの麺をすすった。
うまい。
この店はまた来よう。




