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俺の人生、もう勝ってたらしい。  作者: ケンジ


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落花生

39歳。妻と子ども二人、猫一匹。

仕事もある。家もある。友人もいる。


それなのに、俺は人生の負け組らしい。


誰が決めたのかって?


俺である。


そんな男が、節分の日に人生最大の挫折を味わった。

「お父さん、落ちたから落花生食べてるの?」


娘の一言に、俺は手を止めた。


右手には落花生。左手には剥いた殻。


なるほど。落ちたから落花生。


なかなか上手いことを言う。


いや、感心している場合じゃない。


「……節分だからだよ」


「そっか。そうだよね」


娘は笑いながら、また落花生を食べ始めた。


どうやら本人に悪気はないらしい。


俺は佐伯遼、39歳。


中堅文房具メーカーに勤める、ごく普通の会社員である。


そして本日、人生最大のチャンスを失った。


世界的な文具メーカー、ノースフィールド・インターナショナル。


誰もが一度は製品を手にしたことがあるような、業界の超大手だ。


その日本法人への転職が、つい数時間前に白紙になった。


理由は、採用ポジションのクローズ。


クローズ。


便利な言葉だと思う。


日本語にすれば、単なる採用中止である。


俺は最終面接まで通過していた。


採用担当者からの評価も高かった。


待遇面の話も進んでいた。


あとは正式な通知を待つだけ。


それなのに、本社の組織再編で採用計画そのものがなくなったらしい。


「佐伯様のご経験や能力については、非常に高く評価しております」


担当者はそう言った。


ありがたい。


実にありがたい。


だが、できれば評価ではなく雇用契約書が欲しかった。


「お父さん、もう一個食べる?」


娘が落花生を差し出してきた。


「……もらう」


殻を割ると、中から二粒の豆が出てきた。


俺の採用枠はゼロなのに、落花生には二つも枠がある。


世の中は理不尽だ。


*


俺には妻と二人の子どもがいる。


高校一年生の娘、陽菜。


中学二年生の息子、悠真。


そして、妻の美咲。


ついでに猫が一匹。


ついでと言ったら怒られそうだが、本人は今、ソファの上で腹を出して寝ている。


この家で最も自由な生き物だ。


「で、次どうするの?」


妻が聞いてきた。


「次って?」


「転職活動。またするの?」


「……まだ考えてない」


「そっか」


それだけだった。


もう少し何かあるだろう。


人生最大の挑戦が失敗した夫に対して、もう少しこう、励ましの言葉とか。


「残念だったね」


「……うん」


「でも、まあ仕方ないよね」


「……そうだな」


「じゃあ、今日の夕飯どうする?」


話が終わった。


俺の転職活動は、夕飯の献立より優先順位が低いらしい。


「今日くらい、何か好きなもの食べに行こうか」


妻が続けた。


「え?」


「落ち込んでるんでしょ?」


どうやら、ちゃんと気にはしてくれていたようだ。


「焼肉でも行く?」


「……いいの?」


「いいよ。共働きの特権だな」


出た。


妻の口癖である。


我が家は共働きだ。


妻は俺より仕事の要領がよく、順調に出世している。


学生時代の成績は、ごく普通だったらしい。


一方、俺は勉強しなくても学年トップクラスだった。


それなのに、現在の社会的な立場は妻の方が上である。


人生とは不思議なものだ。


ちなみに俺は大学受験に失敗している。


勉強しなかったからだ。


当たり前だと思うかもしれないが、当時の俺は本気で受かると思っていた。


若さとは恐ろしい。


「焼肉なら俺も行く」


息子の悠真がスマホから顔を上げた。


「お前、さっきまで興味なさそうだったじゃん」


「転職の話には興味ないけど、焼肉にはある」


実に正直な息子である。


こいつは勉強ができる。


バスケ部ではキャプテンも務めている。


最近は世の中のすべてを理解したような顔で話す。


少し前の俺に似ている。


そこが心配だ。


「陽菜は?」


妻が聞く。


「行く! でも明日朝練だから早めがいい!」


娘はソフトテニス部だ。


補欠だが、毎日楽しそうに部活に通っている。


成績はあまりよくない。


しかし、友達は多い。


俺に似たのだろう。


成績以外は。


「じゃあ、着替えてくる」


妻が立ち上がった。


決定まで約三十秒。


俺が数ヶ月かけて進めてきた転職活動は、本社の一存で消滅した。


一方、我が家の焼肉計画は三十秒で承認された。


組織の意思決定というものについて、少し考えさせられる。


*


焼肉屋に到着した。


平日の夜だというのに、店内はなかなか混んでいる。


妻はタブレットで次々と注文していく。


タン塩。


カルビ。


ハラミ。


ロース。


息子はご飯の大盛り。


娘はチーズ入りの石焼ビビンバ。


俺は生ビールを注文した。


「今日、飲むんだ」


妻が言う。


「まあな」


「明日仕事でしょ?」


「一杯だけ」


「いつもそう言うよね」


信用がない。


もっとも、過去の実績を考えれば妥当な評価である。


運ばれてきたビールを一口飲む。


うまい。


悔しいことに、うまい。


人生最大の挫折を味わった日でも、ビールは普通にうまかった。


「お父さん、元気出してよ」


陽菜が言った。


「出してるよ」


「全然出てないじゃん」


「そう見える?」


「うん。さっきから肉焼いてないし」


確かに。


俺の皿には、まだ何も乗っていなかった。


「ほら、これ食べな」


娘が焼けたタン塩を一枚、俺の皿に置いた。


「ありがとう」


食べてみる。


うまい。


やっぱりうまい。


「お父さんって、そんなにその会社に行きたかったの?」


息子が聞いてきた。


「そりゃそうだろ。世界的な大企業だぞ」


「今の会社じゃダメなの?」


「ダメってわけじゃないけどさ」


「じゃあ、なんで?」


俺は少し考えた。


待遇がいい。


知名度がある。


将来性もある。


理由はいくらでも挙げられる。


だが、息子が聞きたいのは、たぶんそういうことではない。


「……まあ、男にはいろいろあるんだよ」


「それ、説明できないときに使う言葉じゃん」


まったくそのとおりだった。


「お前、最近ほんと生意気だな」


「別に」


息子は涼しい顔でカルビを食べている。


妻が笑った。


「でも、今の会社でも結構頼りにされてるんでしょ?」


「まあな」


「だったらいいじゃん」


簡単に言う。


俺は今の会社に入って十年目になる。


部下は三人。


肩書きは営業リーダー。


売上管理も、人材育成も、得意先との交渉もやっている。


それなりに成果も出してきた。


ただし、給料は部下とほとんど変わらない。


責任だけが増えている気がする。


正直、もっと評価されてもいいと思っている。


それに、地元の友人たちは大企業に勤めているやつが多い。


高校時代、俺が数学を教えていた友人が、今では立派な管理職だ。


この前の同窓会では、海外出張の話をしていた。


俺の海外経験といえば、新婚旅行くらいである。


別に友人を妬んでいるわけじゃない。


成功していることは素直に嬉しい。


ただ、少しだけ思うのだ。


俺だって、もっと上に行けたんじゃないか。


そんなことを考えていると、妻が言った。


「ねえ、そのハラミ食べないの?」


「え?」


「ずっと焼いてるけど」


網を見る。


ハラミが見事に焦げていた。


「……食べる」


俺は箸を伸ばした。


今日という日は、どうやら何をやってもうまくいかないらしい。


*


帰宅すると、猫が玄関まで迎えに来た。


いや、正確には迎えに来たわけではない。


たまたまそこにいただけだろう。


こいつは俺が帰宅しても、基本的に無関心だ。


ただし、餌の時間だけは別である。


俺は猫を抱き上げた。


「お前はいいよな」


猫は迷惑そうな顔をした。


「働かなくていいし、出世もないし」


猫はあくびをした。


「毎日寝て、飯食って、好きなときに遊んで」


猫は俺の腕から逃げ出した。


どうやら話は終わりらしい。


ソファに腰を下ろし、スマホを開く。


地元の友人たちのグループに、新しいメッセージが届いていた。


『来月、久しぶりに集まらない?』


続けて、別の友人から返信が来る。


『いいね。俺、今度異動で東京行くから、その前に飲もうぜ』


東京。


異動。


大企業。


俺はスマホを眺めた。


つい数時間前まで、俺にも新しい未来が待っているはずだった。


世界的な企業で働く自分。


今までとは違う環境。


新しい肩書き。


地元の友人たちにも、ようやく胸を張れる。


そんな未来が、突然消えてしまった。


「……くそ」


思わず声が漏れた。


そのとき、キッチンから妻の声がした。


「ねえ、明日の朝、ゴミ出しお願い!」


「わかった!」


反射的に返事をした。


俺はスマホを置き、天井を見上げた。


世界的な文具メーカーへの転職は失敗した。


しかし、ゴミ出し担当としての地位は盤石である。


こちらは十年以上の実績がある。


しかも無給だ。


……いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。


俺はまだ39歳だ。


人生はこれからだ。


今回の失敗で終わるつもりはない。


いつか必ず、もっと上に行ってやる。


そう決意したところで、妻がもう一度叫んだ。


「あと、明日の朝、陽菜を学校まで送ってね!」


「わかった!」


俺は再び天井を見上げた。


どうやら明日も忙しくなりそうだ。


俺の人生は、まだ何も始まっていない。


少なくとも、このときの俺は本気でそう思っていた。

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