冬の日常(前編)
車庫を出て住宅街を抜けると、車はすんなりと流れに乗った。エンジンが、低くなめらかに唸る。
助手席の僕は、運転席の母をちらりと盗み見た。
正直、なんとも奇妙なギャップだった。
ほんの数分前まで、子供みたいにナイフとフォークを振り回して朝ご飯をねだっていた人だ。それなのに、ハンドルを握った今の母からは、息をのむほどプロの空気が漂っている。
ハンドルに添えた指先は、しなやかなのに力強い。鋭く、それでいて落ち着いた視線が前方の流れを的確にとらえて、鮮やかに車線を変えていく。ウインカーを出すタイミングも、ブレーキの踏み方も、すべてが無駄なくなめらかだ。
おかげで、不思議と安心感があった。
どう見ても、ビジネスの最前線でバリバリ活躍している、非の打ちどころのないキャリアウーマンそのもの――もっとも、中身は精神年齢が追いついていない子供なのだが。
「どうしたの、小冬? もしかして、ママの真剣な運転姿にまた惚れ直しちゃった?」
僕の視線に気づいたのか、母は前を向いたまま、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「……仕事モードと家での落差が激しすぎて、こっちの頭がバグりそうだなって思っただけ」
僕はやれやれと小さくため息をついて、窓の外を流れる街並みに視線を移した。
「これを『完璧なオンオフの切り替え』って言うのよ、わかる? 女の多面性は、女の最大の武器なんだから! ママなんて、昔これでパパを丸呑みしちゃったんだからね」
母はフフンと鼻を鳴らして、得意げに言った。
「丸呑み」って、なんだか物騒な響きだけど……。
父はいったい昔、どんな目に遭ったんだろう……?
とはいえ、僕は女性という生き物のことをほとんど理解していない。母の言う「武器」が何を指すのか、いまいちピンとこなかった。
車はあっという間に、家の最寄り駅のロータリーに着いた。
シートベルトを外して、ドアノブに手をかける。
「ありがと。運転気をつけてね。仕事もほどほどにね」
そう声をかけると、母はすっかり家でのテンションに戻って、にっこり笑った。
「はーい! 小冬も、学校でお友達と仲良くするんだよ! バイバーイ!」
母は軽やかに手を振って走り去り、車はあっという間に流れの中に溶けていった。
その後ろ姿を見送ってから、朝のひんやりと澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、駅へと歩き出す。
ちょうど通勤・通学ラッシュの真っ只中だった。改札前は、大勢のサラリーマンと、色とりどりの制服を着た高校生でごった返している。
慣れた手つきでICカードをタッチして改札を抜け、人の波に流されるようにホームへ上がった。
しばらくすると、レールが軋む耳障りな音とともに、満員の電車がホームに滑り込んできた。
プシュー、と扉が開いた瞬間、無数の人の体温と、社畜たちの怨念のようなものが混ざり合った熱気が、わっと押し寄せてくる。
僕は少し眉をひそめ、人の流れに押し込まれるように車内へ乗り込んだ。
なんとか隅のスペースを確保して、頭上のつり革につかまり、通学カバンを胸にしっかり抱え込む。
ガタンゴトンと重い音を立てて、電車が動き出した。
窓の外では、高層ビルの影が飛ぶように後ろへ流れていく。けれど、それを眺める余裕はない。
今朝は早起きして家族全員分の朝食を作ったせいで、けっこう疲れが溜まっていた。
ここで秘技・立ち寝モードを発動――しようとしたものの、周りの空気が重すぎるのか、いっこうに眠気が来ない。結局あきらめて、カバンに埋めていた顔を上げた。
何気なく、すぐ隣の窓ガラスに目をやる。
トンネルに入ったせいで、ガラスはまるで鏡のようになっていた。そこには、疲れた僕の横顔が、はっきりと映っていた。
ほとんど反射的に目をそらす。
足元の床に落ちている小さなネジを、じっと見つめた。
この得体の知れない拒絶感に、僕は今でも、合理的な説明をつけられずにいる。
顔の輪郭やパーツが特別ひどいわけではないことは、周りの褒め言葉が証明してくれているはずだ。
それなのに、「鏡に映った自分の顔を見る」と想像しただけで、胃のあたりがむかむかと締めつけられる。
まるで、ガラスの向こうから、まったく知らない誰かがこちらの瞳をのぞき込んでいるような――そんな錯覚に陥るのだ。
また、答えの出ない思考の沼にはまりそうになる。
振り払うように、今朝のアラームで聞いた夏の声を、頭の中で再生してみた。
『お兄ちゃん、起きる時間だよ!』
たったそれだけで、胸につかえていた嫌なモヤモヤは、あっという間に吹き飛んでいった。
ただ、そうしているうちに、今度は別の不安が頭をもたげてくる。
夏は普段から、「お兄ちゃん大好き!」とか「お兄ちゃんと結婚する!」なんてことを平気で口にする。
けれど、時が経てば、あの子もいずれたくさんの人と出会って、いつか自分だけの運命の相手と巡り合うのだろう。
兄として、それを喜ぶべきなのは分かっている。
――それなのに。
そう想像した瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
……これが、子を持つ親の心境というやつなのだろうか。
そんな空想にふけりながら二十分ほど揺られていると、車内アナウンスが、降りる駅の名を告げた。
人の波にもまれながらホームに降り立つ。朝の日差しが頬を撫でて、車内の澱んだ空気を追い払ってくれた。
駅から学校までは、歩いて十分ほど。
通学路にはもうクラスメートたちの姿があって、いかにも青春らしい活気に満ちている――なんてことは全然なく、誰もが死んだ魚みたいな目で、足を引きずるように学校へ向かっていた。
僕もその絶望感に深く共感しながら、黙々と歩く。
うつむき加減のまま一定のペースで校門をくぐり、並木道を抜けて、三年B組の教室のドアに手をかけた。
教室には、もう大半の生徒が来ていた。あちこちで小さなグループが固まって、おしゃべりに花を咲かせている。
自分の席まで行き、重いカバンを机のフックに掛けようとしたとき、背後から聞き慣れた軽い声が飛んできた。
「よお、小冬。今日は遅かったな。もしかして昨夜、こっそり世界を救う特訓でもしてたのか?」
気の抜けた、それでいてどこかからかうような調子。同時に、無遠慮な腕が僕の肩にぽんと置かれる。
振り返ると、豪快な笑みを浮かべた見慣れた顔がそこにあった。
隣の席の、数少ない悪友の一人――秋人だ。
秋人は、いつ見ても寝癖のついたままの気だるげな茶髪に、着崩した制服という、絵に描いたようなチャラ男スタイルを貫いている男だった。
顔立ち自体は整っていて、女子からの人気もそれなりにある。ただ、口を開けば軽薄なノリが飛び出すせいで、せっかくのイケメンが台無しになるタイプだ。
しかも、なぜか男ウケがやけにいい。あのチャラいノリが逆にいいのか、女子よりも男子からの好感度のほうが高いという、妙な特技の持ち主だった。いろんな意味で、得をしている男だ。
「世界を救えたなら、どんなに楽だったか。大英雄になって、学校なんかサボりまくって、みんなにチヤホヤされる人生だったよ」
僕は呆れて彼の手を払いのけ、椅子を引いて腰を下ろした。
「そうそう、俺なんかさ、授業中に銃を持った強盗が教室に乱入してきて、全部の弾を華麗に避けてぶちのめす妄想、何回もしたことあるぜ!」
秋人は遠慮なく自分の椅子を引き寄せると、背もたれを前にしてドカッとまたがり、その上で腕を組んで顎をのせた。
時計を見ると、一限が始まるまであと十分ほどある。
仕方なく、僕はおしゃべりに付き合うことにした。
「にしても、お前ほんと羨ましいよな。あんなに一途に慕ってくれる妹がいてさ。毎日天国だろ」
そう言いながら、秋人はなぜか恨めしそうな目を向けてくる。僕は華麗にスルーした。
「人んちの事情を面白がるなよ」
ジト目で言い返しつつ、カバンから一限の教科書を取り出す。
「別に大したことじゃないって。夏はまだ、子供から抜けきれてないだけだ。そう遠くないうちに、あいつにも初めての彼氏とかできるだろ」
自分でも、妙に確信めいた口調だった。
――まるで、自分に言い聞かせているみたいに。
「えー……俺はそうは思わないけどなぁ……。いっそさ! その夏ちゃん、俺の嫁にくれよ! 絶対大事にするからさ!」
秋人は全身から、わざとらしいほど大真面目な雰囲気を出してみせた。
「却下。夏はお前になんかやらん。だいたい、彼女持ちのくせにそんなこと言ってると、そのうち痛い目見るぞ」
僕は容赦なく、バッサリ切り捨てた。
「冷たっ! 俺たち、一蓮托生の相棒じゃなかったのかよ!」
秋人はこれ見よがしに胸を押さえて、悲劇のヒロインばりの大根芝居を披露した。




