↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/29

冬の日常(前編)

 車庫を出て住宅街を抜けると、車はすんなりと流れに乗った。エンジンが、低くなめらかに唸る。


 助手席の僕は、運転席の母をちらりと盗み見た。

 正直、なんとも奇妙なギャップだった。


 ほんの数分前まで、子供みたいにナイフとフォークを振り回して朝ご飯をねだっていた人だ。それなのに、ハンドルを握った今の母からは、息をのむほどプロの空気が漂っている。


 ハンドルに添えた指先は、しなやかなのに力強い。鋭く、それでいて落ち着いた視線が前方の流れを的確にとらえて、鮮やかに車線を変えていく。ウインカーを出すタイミングも、ブレーキの踏み方も、すべてが無駄なくなめらかだ。

 おかげで、不思議と安心感があった。


 どう見ても、ビジネスの最前線でバリバリ活躍している、非の打ちどころのないキャリアウーマンそのもの――もっとも、中身は精神年齢が追いついていない子供なのだが。


「どうしたの、小冬? もしかして、ママの真剣な運転姿にまた惚れ直しちゃった?」


 僕の視線に気づいたのか、母は前を向いたまま、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「……仕事モードと家での落差が激しすぎて、こっちの頭がバグりそうだなって思っただけ」


 僕はやれやれと小さくため息をついて、窓の外を流れる街並みに視線を移した。


「これを『完璧なオンオフの切り替え』って言うのよ、わかる? 女の多面性は、女の最大の武器なんだから! ママなんて、昔これでパパを丸呑みしちゃったんだからね」


 母はフフンと鼻を鳴らして、得意げに言った。


 「丸呑み」って、なんだか物騒な響きだけど……。

 父はいったい昔、どんな目に遭ったんだろう……?


 とはいえ、僕は女性という生き物のことをほとんど理解していない。母の言う「武器」が何を指すのか、いまいちピンとこなかった。


 車はあっという間に、家の最寄り駅のロータリーに着いた。

 シートベルトを外して、ドアノブに手をかける。


「ありがと。運転気をつけてね。仕事もほどほどにね」


 そう声をかけると、母はすっかり家でのテンションに戻って、にっこり笑った。


「はーい! 小冬も、学校でお友達と仲良くするんだよ! バイバーイ!」


 母は軽やかに手を振って走り去り、車はあっという間に流れの中に溶けていった。


 その後ろ姿を見送ってから、朝のひんやりと澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、駅へと歩き出す。


 ちょうど通勤・通学ラッシュの真っ只中だった。改札前は、大勢のサラリーマンと、色とりどりの制服を着た高校生でごった返している。

 慣れた手つきでICカードをタッチして改札を抜け、人の波に流されるようにホームへ上がった。


 しばらくすると、レールが軋む耳障りな音とともに、満員の電車がホームに滑り込んできた。

 プシュー、と扉が開いた瞬間、無数の人の体温と、社畜たちの怨念のようなものが混ざり合った熱気が、わっと押し寄せてくる。


 僕は少し眉をひそめ、人の流れに押し込まれるように車内へ乗り込んだ。

 なんとか隅のスペースを確保して、頭上のつり革につかまり、通学カバンを胸にしっかり抱え込む。


 ガタンゴトンと重い音を立てて、電車が動き出した。

 窓の外では、高層ビルの影が飛ぶように後ろへ流れていく。けれど、それを眺める余裕はない。


 今朝は早起きして家族全員分の朝食を作ったせいで、けっこう疲れが溜まっていた。

 ここで秘技・立ち寝モードを発動――しようとしたものの、周りの空気が重すぎるのか、いっこうに眠気が来ない。結局あきらめて、カバンに埋めていた顔を上げた。


 何気なく、すぐ隣の窓ガラスに目をやる。

 トンネルに入ったせいで、ガラスはまるで鏡のようになっていた。そこには、疲れた僕の横顔が、はっきりと映っていた。


 ほとんど反射的に目をそらす。

 足元の床に落ちている小さなネジを、じっと見つめた。


 この得体の知れない拒絶感に、僕は今でも、合理的な説明をつけられずにいる。

 顔の輪郭やパーツが特別ひどいわけではないことは、周りの褒め言葉が証明してくれているはずだ。


 それなのに、「鏡に映った自分の顔を見る」と想像しただけで、胃のあたりがむかむかと締めつけられる。

 まるで、ガラスの向こうから、まったく知らない誰かがこちらの瞳をのぞき込んでいるような――そんな錯覚に陥るのだ。


 また、答えの出ない思考の沼にはまりそうになる。

 振り払うように、今朝のアラームで聞いた夏の声を、頭の中で再生してみた。


『お兄ちゃん、起きる時間だよ!』


 たったそれだけで、胸につかえていた嫌なモヤモヤは、あっという間に吹き飛んでいった。


 ただ、そうしているうちに、今度は別の不安が頭をもたげてくる。


 夏は普段から、「お兄ちゃん大好き!」とか「お兄ちゃんと結婚する!」なんてことを平気で口にする。

 けれど、時が経てば、あの子もいずれたくさんの人と出会って、いつか自分だけの運命の相手と巡り合うのだろう。

 兄として、それを喜ぶべきなのは分かっている。


 ――それなのに。

 そう想像した瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。


 ……これが、子を持つ親の心境というやつなのだろうか。


 そんな空想にふけりながら二十分ほど揺られていると、車内アナウンスが、降りる駅の名を告げた。


 人の波にもまれながらホームに降り立つ。朝の日差しが頬を撫でて、車内の澱んだ空気を追い払ってくれた。


 駅から学校までは、歩いて十分ほど。

 通学路にはもうクラスメートたちの姿があって、いかにも青春らしい活気に満ちている――なんてことは全然なく、誰もが死んだ魚みたいな目で、足を引きずるように学校へ向かっていた。

 僕もその絶望感に深く共感しながら、黙々と歩く。


 うつむき加減のまま一定のペースで校門をくぐり、並木道を抜けて、三年B組の教室のドアに手をかけた。


 教室には、もう大半の生徒が来ていた。あちこちで小さなグループが固まって、おしゃべりに花を咲かせている。


 自分の席まで行き、重いカバンを机のフックに掛けようとしたとき、背後から聞き慣れた軽い声が飛んできた。


「よお、小冬。今日は遅かったな。もしかして昨夜、こっそり世界を救う特訓でもしてたのか?」


 気の抜けた、それでいてどこかからかうような調子。同時に、無遠慮な腕が僕の肩にぽんと置かれる。

 振り返ると、豪快な笑みを浮かべた見慣れた顔がそこにあった。


 隣の席の、数少ない悪友の一人――秋人(あきと)だ。


 秋人は、いつ見ても寝癖のついたままの気だるげな茶髪に、着崩した制服という、絵に描いたようなチャラ男スタイルを貫いている男だった。


 顔立ち自体は整っていて、女子からの人気もそれなりにある。ただ、口を開けば軽薄なノリが飛び出すせいで、せっかくのイケメンが台無しになるタイプだ。


 しかも、なぜか男ウケがやけにいい。あのチャラいノリが逆にいいのか、女子よりも男子からの好感度のほうが高いという、妙な特技の持ち主だった。いろんな意味で、得をしている男だ。


「世界を救えたなら、どんなに楽だったか。大英雄になって、学校なんかサボりまくって、みんなにチヤホヤされる人生だったよ」


 僕は呆れて彼の手を払いのけ、椅子を引いて腰を下ろした。


「そうそう、俺なんかさ、授業中に銃を持った強盗が教室に乱入してきて、全部の弾を華麗に避けてぶちのめす妄想、何回もしたことあるぜ!」


 秋人は遠慮なく自分の椅子を引き寄せると、背もたれを前にしてドカッとまたがり、その上で腕を組んで顎をのせた。


 時計を見ると、一限が始まるまであと十分ほどある。

 仕方なく、僕はおしゃべりに付き合うことにした。


「にしても、お前ほんと羨ましいよな。あんなに一途に慕ってくれる妹がいてさ。毎日天国だろ」


 そう言いながら、秋人はなぜか恨めしそうな目を向けてくる。僕は華麗にスルーした。


「人んちの事情を面白がるなよ」


 ジト目で言い返しつつ、カバンから一限の教科書を取り出す。


「別に大したことじゃないって。夏はまだ、子供から抜けきれてないだけだ。そう遠くないうちに、あいつにも初めての彼氏とかできるだろ」


 自分でも、妙に確信めいた口調だった。

 ――まるで、自分に言い聞かせているみたいに。


「えー……俺はそうは思わないけどなぁ……。いっそさ! その夏ちゃん、俺の嫁にくれよ! 絶対大事にするからさ!」


 秋人は全身から、わざとらしいほど大真面目な雰囲気を出してみせた。


「却下。夏はお前になんかやらん。だいたい、彼女持ちのくせにそんなこと言ってると、そのうち痛い目見るぞ」


 僕は容赦なく、バッサリ切り捨てた。


「冷たっ! 俺たち、一蓮托生の相棒じゃなかったのかよ!」


 秋人はこれ見よがしに胸を押さえて、悲劇のヒロインばりの大根芝居を披露した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。