冬の朝
『お兄ちゃん、起きる時間だよ! 起きてくれないと、夏がお兄ちゃんの上に飛びついちゃうからね〜!』
スマホのアラームから、無邪気で甘い妹の声が響く。
寝ぼけ眼のまま画面を手探りして明かりをつけると、時刻は朝の五時半だった。
きっかけは、夏とアラーム音の話をしていたときのことだ。
「いっそ、夏の可愛い声をアラームにしたらどうかな」
冗談半分で、僕はそう言った。ただの軽口のつもりだったのに、夏は予想以上に大喜びした。
「お兄ちゃんが毎朝、起きて最初に私の声を聞けるの? それってすごく素敵なアイデアだね!」
そう目を輝かせて、張り切って何パターンものセリフまで録音してくれたのだった。気分で選べるように、だそうだ。
まったく。この、血の繋がらない妹の甘えっぷりには、ときどきどう向き合えばいいのか分からなくなる。
画面をスワイプしてアラームを止め、重いまぶたをこすりながら布団から這い出した。
うちに、二度寝という贅沢はない。朝食の担当は僕だからだ。
もし寝坊しようものなら、駄々をこねて泣きわめく母と、どんよりした空気をまとって落ち込む父が待っている。それに比べて夏は、朝になれば自分でちゃんと起きてくるし、両親よりよっぽど大人びている気がする。
そんなことを考えて苦笑いしながら、いつものように洗面所へ向かった。
手早く歯を磨き、学校の制服に着替えて洗面所を出る。そのあいだ、洗面台の正面にある鏡は、意識して視界に入れないようにした。
生まれつきの性分なのかもしれない。僕は、自分の容姿にどこかコンプレックスを抱いていた。
面と向かって顔を悪く言われたことはない。肌が白くてきれいだと褒められたことさえある。
それでも、「鏡に映った自分の顔を見る」という行為そのものが、なぜか怖かった。
だから家でも、外の公衆トイレでも、手を洗うときに鏡で自分の顔を確かめることは、絶対にしない。
洗面所を抜けて、朝食の準備のためにキッチンへ入る。
すると、ダイニングテーブルにはもう、行儀よく座っている母の姿があった。右手にナイフ、左手にフォークを握りしめて、目をキラキラさせて待ち構えている。
「あっ、小冬! お腹ぺこぺこだよ〜、早く何か食べたいな……!」
僕の顔を見るなり、母は嬉しそうに、ナイフとフォークでテーブルをコンコンと叩いた。
母は小柄で顔立ちも幼く、お世辞抜きで、実年齢が分からない(生年月日から計算すれば分かるけど)。
だから今の光景は、どう見ても「大人の真似をしてスーツを着た中学生が、お腹を空かせて朝ご飯をねだっている」としか思えなかった。
ちなみに、夏も母も、普段から念入りにおしゃれをするタイプではない。母も出勤の日はナチュラルメイクで済ませている。それでも十分なのは、単に二人とも、素材がいいからなのだろう。
「ママ、何か食べたいものある?」
先に聞いておけば、献立に悩む手間が省ける。
「うーん……パンケーキ! 甘いやつ!」
母は少し首をかしげてから、いかにも彼女らしい答えを返した。
冷蔵庫を確認する。昨日の帰りに買った牛乳が残っているし、卵もストックがある。バターも入っていた。
肝心のパンケーキミックスは……戸棚の引き出しを開けてみると、よかった、まだ少し残っている。ただ、これで使い切ってしまいそうだ。まあいい、学校帰りに買い足しておこう。
「材料はまだ少しあるから、パンケーキにしようか!」
振り返って、待ちきれない様子の母に告げる。
「やったぁ――!」
母はさらに大喜びして、またナイフとフォークでテーブルをトントンと叩いた。
「はいはい、ママ落ち着いて。ナイフとフォークでテーブル叩くのは危ないよ」
はしゃぐ大人をなだめつつ、エプロンの紐をきゅっと結んで、調理に取りかかる。
正直、パンケーキ作りにはそれほど自信がない。しょっちゅう作っているわけではないからだ。
仕方なくスマホでレシピを検索して、三人の好みに合わせて微調整することにした。
まずは配合。パンケーキミックス二百グラム、卵一個、牛乳はおよそ百五十ミリリットル。
ボウルに卵を割り入れ、牛乳を注いで軽く混ぜる。そこにパンケーキミックスを何回かに分けて加え、泡立て器で円を描くように、ダマがなくなって滑らかになるまで混ぜ合わせた。
混ぜすぎると膨らまなくなる、とレシピに書いてあったので、粉っぽさが消えたところで手を止める。
続いて、フライパンを弱火で温め、バターを薄くのばす。
濡れ布巾の上に一度フライパンをのせて、温度を落ち着かせてから、生地をお玉一杯分すくい、中央からゆっくりと流し込んだ。
ジュウ、と心地よい音。丸い生地がふっくら膨らみ、表面にぷつぷつと小さな気泡が浮かんでくる。
ここぞというタイミングでフライ返しを滑り込ませ、ひっくり返す――。
こんがりと黄金色の焼き色。バターと卵の香ばしい匂いが、キッチンいっぱいに広がった。完璧な焼き上がりだ。
同じ要領で、人数分を焼いていく。
でも、これで終わりではない。
好みがばらばらな三人の胃袋を満たすには、フルオーダーのカスタムが欠かせないのだ。
まずは母の分。
見た目も中身も中学生みたいなこの人は、実のところ筋金入りの甘党で、「カロリー」という言葉は彼女の辞書に存在しない。
パンケーキの上に、これでもかとホイップクリームを絞り、仕上げにメープルシロップをたっぷり回しかけた。見ているだけで膵臓が心配になる代物だが、背後からはすでに、突き刺さりそうなほど熱烈な視線を感じていた。
次は父の分。
極限まで甘い母とは対照的に、父は控えめで素朴な味を好む。焼きたての真ん中に小さめの無塩バターをぽんとのせ、ハチミツを少しかけるだけで十分だ。
そのシンプルさは、父の端正な顔立ちと、どこか物静かで落ち着いた佇まいによく似合っていた。
最後は夏の分。
「お兄ちゃんが作ってくれたものなら、どんな味でも好きだよ」
いつも笑顔でそう言ってくれる夏だけど、ベリー系の甘酸っぱさに目がないことは、とっくにお見通しだ。
一番きれいに焼けた一枚に瑞々しいベリーを添えて、少しだけクリームを絞り、てっぺんにイチゴを一粒。仕上げに粉砂糖を、雪みたいにふんわりと振りかけた。
目の前に並んだ三者三様のパンケーキを眺めながら、額に浮かんだ汗を拭って、エプロンを外す。
気づけば、二十五分ほどが経っていた。
自分の分は、焼き損じて端が欠けた一枚を、立ったまま口に放り込んで済ませた。ミックスはこれで使い切ったから、ちょうどいい。
振り返ると、待ちくたびれて溶けそうになった母が、自分の皿をキラキラした目で見つめていた。
「はやく……はやくぅ……」
母はゾンビみたいに両手を宙に伸ばして呻いた。
「はいはい、どうぞ」
呆れつつ、母の皿をテーブルに置く。
父と夏が起きてくるまでは、まだ少し時間がある。二人の分はラップをかけて、冷蔵庫にしまっておいた。起きたらすぐ、温めて食べられるように。
「いただきまーす!」
母がパンケーキにナイフを入れようとした瞬間、僕は慌てて止めた。
「ちょっと待って。ママ、絶対に服にシロップかクリームこぼすから」
さっき外したばかりのエプロンを、もう一度母の首にかけてやる。
「むぅ……小冬、ママのこと子供扱いしてない?」
母はむすっと頬を膨らませて、不満そうに僕を睨んだ。
「してないよ! 万が一のためだって。汚しちゃったら後が大変でしょ」
そう言い訳したものの、内心では間違いなく子供扱いしていた。
母は幸せそうにうっとりしながら、パンケーキを平らげていく。
僕はダイニングテーブルの端に腰かけて、そんな母を静かに眺めていた。
自分の作った料理を、誰かがおいしそうに食べてくれる姿を見るのは、悪くない。それが今みたいに幸せいっぱいの笑顔なら、なおさらだ。
「んー!」
最後の一口をぺろりと食べ終えた母は、満足そうにお腹をぽんと叩いた。口の端には、しっかりクリームがついている。
「いやあ、美味しかった! ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
僕が立ち上がって皿を片付けようとすると、母のほうが早かった。
「あ、小冬は座ってていいよ。お皿くらい自分で洗うから〜!」
そう言って食器を回収し、流し台へ向かう。
珍しく家事を手伝う気になっているようなので、ここはありがたく甘えることにした。
母は食器をチャプチャプ洗いながら、ふと話しかけてきた。
「そういえばさ、小冬って学校でモテるんじゃない? 顔立ちもすっきりしてて清潔感あるし、何をやらせても器用にこなすじゃない」
不意打ちで褒められて、頬が熱くなる。
「そんなことないって。ママが買いかぶりすぎだよ」
そう、僕はそんな大層な人間じゃない。ただ、目の前のことに真剣に取り組んでいるだけだ。
「そう? ママはそうは思わないけどなぁ。うちの会社にだって、小冬より仕事のできない大人なんて山ほどいるわよ」
両親は二人で、インテリアデザインと内装工事を手がける会社を経営している。
父はCOO兼エンジニアリングディレクターとして、会社の運営と技術面を取り仕切っている。母はクリエイティブディレクターとして、中核となるデザインや、大口クライアントとの折衝を担当している。
今の子供じみた姿からは想像もつかないが、仕事中の母は驚くほど真剣で、頼もしく、洗練されているのだ。
おかげで、うちの経済状況は悪くない。お金に困った記憶は一度もないし、父と母はそれぞれ自分の車を持っているくらいだ。
「小冬ももうすぐ大人だしさ、高校を卒業したら、うちの会社に入らない? ママがコネで推薦してあげるから! きっとすごく活躍できると思うよ」
母は洗った皿を拭きながら、真剣な眼差しでそう言った。
たしかに、高校三年生の今、そろそろ将来の進路を真面目に考えなければならない時期ではある。
「うーん……でも……」
とはいえ、将来のことはまだはっきり見えていなくて、僕は言葉に詰まった。
やりたいことが、ないわけじゃない。ただ、それを口に出す勇気が、まだなかった。
「新入社員でも、初任給は月三十万円はいくんだよ……!」
母はふざけた表情をすっと消して、妙に現実的な、仕事の顔になった。
「……! あ、明日から入社してもいいですか?」
初任給からそんな破格の待遇なのか!? それなら悩む必要なんてない。今すぐ学校に行って、退学届をもらってこよう!
「ふふ。それは小冬が、ちゃんと卒業してからのお楽しみ〜」
母は濡れた手のまま僕の頭にぽんと手を置いて、あまりに現金な息子の反応を面白がるように、優しく撫でた。
「ママ、そろそろ出ないと」
スマホの時計に目をやって、本気で急がないとまずいと気づく。これ以上もたもたしていたら遅刻だ。
「ん、じゃあ行こっか!」
母は手をきれいに拭くと、テーブルに置いてあったおしゃれなバッグをひょいと持ち上げ、玄関へ向かった。
「ママは先に車で待ってて。僕、ちょっとだけ片付けてから行くから」
僕は布巾を手に取り、作業台に残ったわずかな粉を拭き取った。
テーブルとキッチンをきれいに片付けてから、通学カバンを引っさげて家を飛び出す。
玄関の鍵をカチリとかけ、マンションのエントランスを出たところで、すぐ横から聞き覚えのある声がした。
「よお、そこのお兄さん」
声のほうを見る。
そこにいたのは、スタイリッシュなジャケットに無地のインナー、落ち着いた色のデニムを合わせた女性だった。愛車のボディに気だるげにもたれかかり、チンピラみたいな軽薄な口調で、僕に話しかけてくる。
「……ママ、朝から何やってるの……?」
思わず盛大なため息が出て、どっと疲れた。
けれど母は、僕の冷ややかなツッコミを華麗にスルーして続ける。
「姉ちゃんの車、乗ってかない? 楽しいとこ連れてってやるよ〜、絶対おもしろいからさ!」
……三十年前の、ベタすぎるナンパの手口そのものだ。
「はいはい、ありがたく乗せてもらいますよ」
僕は観念して肩をすくめ、助手席に乗り込んだ。
もちろん、行き先は「楽しいとこ」なんかじゃない。僕は駅まで送ってもらって、母はそのまま会社へ向かう。
いつもと同じ、変わらない朝だった。




