運命の起点
ラーメン屋さんを出たあと、私と冬は改札を抜けて、帰りの電車に乗り込んだ。
「ラーメン屋でゆっくりしてたら、すっかり遅くなっちゃったね。車内もガラガラだ。どこか座ろうか」
冬は誰もいない車内をぐるりと見回してから、私のほうを向いて言った。
「うん、ここでいいよ。降りるときも便利だし」
さっきラーメン屋さんで少しうたた寝したばかりなのに、満腹になると眠くなるって、やっぱり本当らしい。
席に座った途端、心地よい眠気が襲ってきた。おまけに、車内の空調はちょうどよくて、乗客もほとんどいない。ガタン、ゴトン、という規則正しい音と静けさが、いっそう眠気を誘う。
私はそっと、隣に座る冬の肩に頭をもたせかけた。
これは昔からの私の癖だ。冬と電車に乗るときは、眠くなるといつもこうして甘えてしまう。
私は、冬の少し体温の高い、その肩が好きだった。
電車のかすかな揺れに合わせて、体がゆらゆらと揺れる。
周りは静まり返っていて、まるでこの世界に、私と冬の二人しかいないみたいだった。
血の繋がらない、けれど誰よりも近い――そんな二人だけの世界を、ちょっとだけ想像してみる。
……案外、悪くない。
意識がだんだん遠のいて、私はそのまま眠ってしまった。
どれくらい経っただろう。
目を覚ますと、まだ駅には着いていないようで、乗客は眠る前よりさらに減っていた。
ただ、目が覚めた瞬間から、頭の横にずっしりとした重みを感じていた。何かが、そっと押しつけられているような感覚。
横目で見ると――なんと、冬が自分の頭を、私の頭にもたせかけていた。
私の身長は149センチで、冬は169センチ。私より20センチも高い冬は、きっと首を変な角度に曲げて、無理な体勢で寄りかかるしかなかったのだろう。
冬の匂いが、ふわりと鼻先をかすめる。シャンプーと、ほんの少しだけ、さっきのラーメン屋さんの湯気の匂い。
その髪が電車の揺れに合わせて、私の首元をくすぐった。
……神様、ありがとうございます。
心の中でこっそりそう唱えて、私はこの時間を、全身全霊で味わうことにした。
車内を見渡すと、残っているのはスマホをいじるサラリーマンと、ぼんやり窓の外を眺めているおじいさんの二人だけ。
あの人たちの目に、私たち――生まれたときから「兄妹」の二人は、どんな関係に見えているのだろう?
仲のいいクラスメイト?
それとも、ただの仲良し兄妹?
それとも――
そんなことをあれこれ想像しているうちに、顔が勝手にニヤけてきて、耳まで熱くなっていくのが分かった。
――冬、大好きだよ。
それから五分ほどして、電車は駅に着いた。私は名残惜しく思いながらも、隣の冬をそっと揺り起こした。
「お兄ちゃん、着いたよ。降りるよ」
「ん……」
起きたばかりの冬は、眠そうに目をこすって、気だるげに伸びをした。それから私と一緒に立ち上がって、電車を降りた。
駅から家までは、歩いて十分ほど。
住宅街のまっすぐな道は、夜風が心地よくて、それほど苦にならない。どこかの家から、お風呂の湯気とせっけんの匂いが漂ってくる。
私と冬は、並んで家路を歩いた。
電車で眠ったおかげで二人ともすっかり目が冴えていて、他愛のないおしゃべりが弾む。
「ねえ、お兄ちゃんは、どうして私がお腹を空かせてるって分かったの?」
――そう、これはずっと気になっていたことだった。
私は、表には出していなかった(はず)なのに。
冬は少し考えてから、ふっと笑った。
「ん? テレパシーかな? 夏が何を考えてるか、なんとなく分かるんだよ」
「へぇ、お兄ちゃんには私の考えてることが分かっちゃうんだ? じゃあ、私がお兄ちゃんのことをどう思ってるかも分かる〜?」
私たちは、自然と歩みを緩めた。
「うーん……夏はきっと……僕のことが、一番好きなんじゃないかな」
そう言って、冬は笑いながら私の頭を優しく撫でた。答えを分かっていて言っているのは、明らかだった。
「へへ〜、お兄ちゃん、もしかして本当にテレパシー使えるの!?」
私は嬉しさに任せて、冬に飛びついた。冬は不意を突かれてバランスを崩し、道沿いのブロック塀にもたれかかる。
「そうだよ! 私、ずっとお兄ちゃんが一番大好きだから!」
私は冬を、さらに強く抱きしめた。
形だけの「お兄ちゃん」という肩書を越えて、心の底から溶け込んでしまいそうなほど、強く。
胸の奥で、甘い熱が弾けそうだった。
「お兄ちゃんは、私のこと好き?」
冬を抱きしめた姿勢のまま、私は上を向いて尋ねた。自分の声が、少し震えているのに気づく。
「うん、好きだよ」
冬が、まっすぐに答える。
「一番好き?」
「一番好きだよ」
「うへへ〜……」
私は、あふれそうな感情を、ぐっと押し隠した。
だって私たちは、戸籍の上では兄妹でも、血の繋がらない二人なのだから。
少しずつ、一歩ずつ。冬の心を、本当の意味で占領していかなきゃいけない。
「もう遅いし、お父さんとお母さんが心配するから、そろそろ離れよっか!」
そう言って、私は冬を抱きしめていた腕をほどき、何食わぬ顔で、再び肩を並べて歩き出した。
街灯がぽつぽつと照らすだけの夜道だったけれど、冬が隣にいるだけで、私の世界はまばゆいほど満たされていた。
「夏」
冬が私の名前を呼ぶと同時に、そっと肩を引き寄せた。車道側から、内側へ。
背後から差したヘッドライトの光で、ようやく一台の車が通り過ぎていくことに気づく。
「僕が外側を歩くよ。そのほうが安全だしね」
冬は、照れくさそうに笑った。
――ずるい。
ようやく落ち着いてきたはずの心臓が、また激しく脈を打ち始める。
冬はいつもそうだ。こんなふうに、血の繋がりなんて関係なく、ただ一人の女の子として、私を大切にしてくれる。
独占したいとか、ゆっくり距離を縮めようとか、そんな冷静な計算は、一瞬で吹き飛んでしまった。
私は理性を手放した。急に立ち止まって振り返ると、冬の襟元をぐっとつかんで、その顔を引き寄せる。
「え……っ、なに――!?」
身長差があるから、思い切り背伸びをして――
ほんの一瞬、唇を重ねた。
もちろん、冬にはまったく予想できないことだった。
そして、当の私にとっても予定外で、すべては衝動だった。
すぐに身を離す。冬が呆然と固まっている隙に、私は早足で歩き出した。
「ふ、冬。私、もう十五歳なんだよ」
恥ずかしさをごまかすための言い訳は、それしか思いつかなかった。
残りの道のりは、ずっと冬の前を歩いて、一言も口をきかなかった。
冬も、追いついてこない絶妙な距離を保ったまま、戸惑った様子で家までついてきた。
二人分の足音だけが、静かな夜道に響いていた。
家に着くと、リビングにいる両親に「ただいま」とだけ言って、そのままお風呂に直行した。上がったら、自分の部屋に駆け込む。
部屋に入るなりベッドにダイブして、枕に顔をうずめて、ゴロゴロと転げ回った。
「私ってバカだぁ! 焦りすぎだよ、あんな大胆なことしちゃって……!」
「い、いや、でもさっき冬も『一番好き』って言ってくれたし、じゃあこれって両想いってこと……!?」
「何をバカなこと言ってるの! 私たち『兄妹』なんだよ!? 冬の『好き』は、家族としての好きに決まってるでしょ!?」
「でも、でも……!」
私はベッドの上で一人、自問自答を繰り返した。
やがて夜が更けて眠りに落ちるまで、その甘くて痛い堂々巡りから、抜け出せなかった。
そして、きっとこの夜からだったのだろう。
血の繋がらない家族という関係の歯車が、かすかな音を立てて、少しずつ狂い始めたのは。
私たちはまだ、その甘い罠に気づいていなかった――。




