——ずっと前から愛してるの。
「もう、まったく!」
私は、目の前で申し訳なさそうな顔をしている冬(そんな顔もかわいいんだけど)を見て、大きくため息をついた。
曲がり角の向こうの通りに目をやったけれど、さっきの男の人の姿はもう、人混みに紛れて見えなくなっていた。
「まさか止めに入られるなんて、完全に読み違えたなぁ……ちょっと悪ノリしすぎたみたいだ」
冬は苦笑いして、言葉を続けた。
「でも、あの人は本当に優しい人だよね。あんなふうに勇気を出して動けるなんて、なかなかできることじゃないよ」
それには、私も大賛成だ。
だってあの人、手をガクガク震わせながらも、ちゃんと私の前に立って守ってくれたんだから。――まあ、結局は全部勘違いだったわけだけど。
「誤解も解けたことだし、もう帰ろっか」
私は明るくそう言った。
だって今の私には、一刻を争う重大問題があるのだ。
お腹が空きすぎて、限界……!
カップラーメンでも、食パンの耳でも、なんでもいい。一刻も早く家に帰って、お腹を満たしたい!
「あれ、帰るの?」
冬が不思議そうに私を見た。
「え? うん。お兄ちゃん、どこか寄りたいところでもあるの?」
首をかしげる私に、冬はさらりと言った。
「うん。付き合ってよ。ご飯、食べに行こう」
予想外の誘いに、私は数秒ほどぽかんとしてしまった。
けれど、お腹の底から突き上げてくる空腹に、すぐ現実へ引き戻される。
正直、お腹が空いて死にそうだった。
でも、私は絶対に、冬からお金を借りたりしない。これは、冬から学んだ習慣だ。
冬は、誰からもお金を借りない。そういう性格なのかもしれないけれど、理由を深く考えたことはなかった。気がつけば私も、「人からお金を借りない」のが主義になっていた。いろんな意味で、悪くない選択だと思う。
――でも、大好きな冬のお願いなら、断るなんて選択肢はない。
私は空腹をぐっとこらえて、歯を食いしばってうなずいた。
「うん、じゃあ行こう」
やばい。低血糖のせいか、ちょっと足元がふらつく気がする。
それでも私は冬について、駅の地下街の飲食店街へ向かった。
冬が選んだのは、老夫婦が切り盛りしている、老舗のラーメン屋さんだった。
――さっき私が、行きたくても行けなかった、あのお店だ。
私と冬がよく通っている店で、のれんは色あせ、カウンターの木目は長年の油でつやつやと光っている。
ちなみに私の一番のお気に入りは、看板メニューの『花巻家特製超豪華海鮮ラーメン』。通称『花海麺』。
花巻夫妻が丹精込めて炊き上げる濃厚なスープに、コシのある麺。エビにホタテにイカ、新鮮でプリプリの海の幸が、これでもかってくらいのっている。あの誘惑を拒める人間なんて、この世にいないと思う。
ただ、冬は海鮮アレルギーだから、この絶品を味わえない。本当にもったいない話だよね。
私と冬は常連で、花巻夫妻とはたまにおしゃべりする間柄だ。
だから、のれんをくぐる冬の足取りも、自分の家に帰ってきたみたいに気軽だった。
「いらっしゃい〜……あら? フユくんにナツちゃんじゃない?」
ご主人の花巻のおじいちゃんは、厨房で忙しそうに中華鍋を振るっていたので、出迎えてくれたのは女将さん――花巻のおばあちゃんだった。
私たちの顔を見るなり、本当の孫でも迎えるみたいに、当たり前のように奥の席へ案内してくれる。
「おじいちゃん、おばあちゃん、こんにちは!」
「お邪魔しまーす!」
私と冬が元気に挨拶すると、厨房から、おじいちゃんが「おう」と短く返してくれた。
湯気の向こうで、白いタオルを巻いた頭がちょっとだけ揺れる。
「んー……ナツは何にする?」
メニューならとっくに頭に入っている。冬は席に着くなり、おばあちゃんに注文しようとした。
「あいたた……私、今日財布忘れてきちゃったんだ……だから今日はやめとくね〜」
(本当は忘れたんじゃなくて、昨日のクレープで空っぽにしただけ。でも、そっちのほうが百倍恥ずかしいから、ここは「忘れた」で押し通す)
冬は、私が「お金は借りない」主義だと知っているので、無理に奢ろうとはしなかった。
そういう気遣いは、私の中でかなりポイントが高い。
「お金なら今じゃなくていいのよ〜。次に来た時に払ってくれれば大丈夫だからねぇ」
そう声をかけてくれたのは、おばあちゃんだった。予想どおりの、あったかいお言葉だ。
「ううん、大丈夫だよ、おばあちゃん! 次に来た時は、絶対に倍の量頼むから!」
猛烈にお腹は空いていたけれど、ツケで食べるのは私の流儀に反する。
ありがたいけれど、気持ちだけいただくことにした。
「そっか。じゃあ僕は自分の分だけ頼むね〜。ついでに聞くけど、もしナツがお金を持ってたら、何が食べたかった?」
冬がさりげなく聞いてきたので、私も深く考えずに答えた。
「ふふん、もちろん『花海麺』だよ! お兄ちゃんは食べられないのが残念だけどね。食べられたら、絶対気に入るのに」
冬が注文しているあいだ、私は寝ることにした。
寝て空腹をごまかそう作戦だ。一日中授業を受けてくたくたの私には、なかなかの名案に思えた。
「お兄ちゃん、私疲れたからちょっと寝てるね〜。食べ終わったら起こして」
そう言って、私は冬の隣、年季の入った長椅子に座ったまま、テーブルに突っ伏した。
厨房から聞こえる、麺を湯切りする小気味いい音。換気扇の低いうなり。ほかのお客さんの、ずるずるとすする音。
お腹がまたひとつ鳴ったけれど、それもだんだん遠くなっていって――私は、眠りに落ちた。
どれくらい経っただろう。
冬の声で、目が覚めた。
「……ナツ、起きなよ」
冬の声は、いつだって落ち着いていて、聞くと安心する。
私は、この声が好きだ。
「んー……お兄ちゃん、食べ終わった? じゃあ行こっか!」
起き上がろうとした私に、冬は言った。
「違うよ。ナツのラーメンができたんだ」
言われて初めて、あの見慣れた海鮮の香りが漂っていることに気づいた。
目の前のテーブルには、なんと一杯の『花海麺』が、湯気を立ててどんと置かれていたのだ。
黄金色のスープに、ぷりっと身の詰まったエビが二尾。肉厚なホタテに、つやつやのイカ。
「……へ? 私、頼んでないよ!?」
私は目を見開いた。
さっき私が財布を忘れたって言ったの、冬は聞き逃してたの? それとも、おばあちゃんが気を利かせて作ってくれたの?
どっちにしても、理性はぐらぐら揺れているけれど――お金がない以上、この猛烈に誘惑してくるラーメンは、断らなきゃ。
「ナツが頼んでないのは当たり前だよ。だって、僕が頼んだんだから」
冬は、何でもないことのように私を見ている。ごく普通の会話でもしているみたいに。
「そ、そんな……どうすんのこれ!? 食べ物を粗末にするわけにはいかないのに……」
私は頭を抱えた。
冬はこんなおっちょこちょいな人じゃないはずなのに……まあ、たまにやるけど。
「そうだね、どうしようか? うっかり注文を間違えちゃったんだよね。でも僕は、海鮮が食べられないでしょ? 誰かがこのラーメンを食べてくれないと、おばあちゃんに下げてもらうしかないんだ……でも、食べ物を無駄にするのはよくないよね〜」
冬は楽しそうに微笑みながら、私をじっと見つめてくる。
「そういえば、ナツはさっき花海麺が好きだって言ってたよね? ナツも、食べ物が無駄になるのは見たくないでしょ?」
どこかからかうような(絶対そうだ!)目だった。
「うぅ……! わかったよ、食べる! 食べればいいんでしょ! 私が責任を持って、平らげてあげるから……!」
観念した私は、丼を手元に引き寄せて、勢いよくすすり始めた。
ひと口目のスープが、空っぽの胃にじんわり染みわたっていく。……あぁ、生き返る。
冬は何も言わず、私がおいしそうに食べる姿を、静かに見つめていた。
空腹が限界だったこともあって、ラーメンはあっという間に、スープの一滴も残さず消えてしまった。
満ち足りた気分で、ふと冬に目を向ける。
「ん? お兄ちゃんは、自分のラーメン頼まなかったの?」
見ると、冬の前には、おばあちゃんが出してくれたお水が一杯置いてあるだけだった。ラーメンの丼は、影も形もない。
「うん。だって、一杯分のラーメン代しか持ってなかったからね」
まただ。
冬はまた、いつものことみたいに、さらりと言ってのけた。
「お腹いっぱいになったなら、帰ろうか」
私が立ち上がるのを見て、冬も席を立ち、店を出ようとした。
「で、でも……っ」
胸の奥からこみ上げてくる罪悪感に、私が何か言おうとした、そのとき――
「ナツが申し訳なく思う必要なんて、どこにもないよ。むしろ僕のほうこそ、ナツに感謝しなくちゃ。ナツがいてくれなかったら、このラーメンを持て余して困ってたところなんだから。要するに、僕のミス。僕がうっかりしてたのが悪いんだよ」
私の言葉を遮るように、冬は言った。
……絶対に嘘だ。
私たちが注文するときは、いつも直接おばあちゃんにメニュー名を伝える。間違えるはずがない。
きっと、私がお腹を空かせていることに気づいて、気兼ねなく食べさせるために、こんな優しい嘘をついたのだ。
「そうそう」
店の引き戸に手をかけた冬が、振り返って私を見た。
「家にはもう、食べるものがないんだ。帰っても、何もないよ」
言い終えると、冬はおじいちゃんとおばあちゃんに挨拶をして、店を出ていった。
私も慌てて二人に頭を下げて、その背中を追いかけた。
やっぱり、冬のこういうところが、私をずっと――




