平凡な僕たち(後編)
「おい! デブ! こっち見ろよ!」
そう言って笑ったのは、金髪に染めた不良の同級生だった。あごをしゃくって、僕の机を見ろと促してくる。
わざわざ見なくても、自分の机がどうなっているかなんて想像がついた。
油性ペンでびっしり書き殴られた悪口。べったりと接着剤を塗りたくられた天板。ぐしゃぐしゃに引き裂かれて、床に散らばった教科書。
僕はそのどれにも、そしてあの金髪の顔にも一瞥すらくれず、まっすぐ教室の出口へ向かった。どうせ次の授業は水泳だ。早く着替えたほうがいい。
無視されたのが気に食わなかったのか、不良は苛立ったように立ち上がり、僕の机を思い切り蹴り飛ばした。
机は派手な音を立ててひっくり返り、中に入っていた筆箱が床を転がっていく。
「いいご身分だな、お前? この俺を無視したのかよ?」
そいつは僕に詰め寄ると、そのでかい体で、僕を床に押し倒した。
背中に、リノリウムの床の冷たさが広がる。
「このブタが、死ねよ、死ね、クソが……」
罵声と一緒に、次々と拳が振り下ろされた。
頬が熱くなり、口の中に鉄の味が広がる。鼻の奥がつんとして、生温かいものが垂れてきた。顔には、たぶん青あざができている。
そいつの気が済むまで、暴力は止まらなかった。
「くそっ。二度と俺を無視するなよ」
そう吐き捨てて、そいつは教室を出ていった。
僕はよろめきながら立ち上がり、教室の中を見回した。
誰もいなかった。
クラスメイトも、先生の姿さえも。最初から何も見えていなかったみたいに、全員が、いつの間にか音もなく教室から消えていた。開け放たれた窓から、プールの塩素の匂いだけが流れ込んでくる。
それが普通だ。僕は、彼らを少しも恨まなかった。
自分が同じ立場だったら、絶対にこんな面倒ごとには巻き込まれたくない。そう思うから。
いつも通り、何事もなかったかのように立ち去ろうとした、そのとき。
誰かがハンカチを取り出して、血のにじむ口元や鼻を、そっと拭ってくれた。
ハンカチからは、かすかに石けんの匂いがした。
「まったく、ひどいことするよね……あいつ……」
そう言ったのは……誰だっけ?
あのときの僕は、その顔をまともに見ることさえできなかった。ただ、小さい頃から知っている女の子だった、ということだけは覚えている。幼馴染、というやつかもしれない。
「僕は平気だよ。君は早く離れたほうがいい。僕と一緒にいるところを見られたら、君まで目をつけられる」
僕は彼女の手を軽く払いのけて、そう言った。
「……」
彼女は何も言わず、じっと僕を見つめた。その瞳には、複雑な感情と、どこか痛みのようなものが混じっていた。
「放っておけないよ。だって、あなたには助けが必要だもの」
切なそうな声だった。
「ううん、そんなことない。人間関係なんて、結局は階級社会のピラミッドみたいなものでさ。上にいる人間が下の人間をいじめて優越感に浸るのは、当たり前のことなんだ。だから、僕とは違う階級にいる君は、自分のやるべきことだけをやっていればいいんだよ。……親切にしてくれて、ありがとう」
彼女の返事も聞かずに、僕はその場から足早に立ち去った。
背中に、彼女の視線がいつまでも刺さっている気がした。
そして、その日の放課後。
薄汚れた裏通りの片隅で、僕は、死にかけの野良猫と出会った。
ボロボロの段ボールの陰で、小さく丸まっていた。毛はところどころ抜け落ちて、あばら骨が浮いている。息をするのがやっとで、助けを求めて鳴く力さえ残っていないようだった。
その猫を見つめていると、昼間、自分が口にした言葉が頭の中によみがえってきた。
――上にいる人間が、下の人間をいじめるのは当たり前。
じゃあ、今の僕は?
ついさっきまで不良のサンドバッグにされていた、こんなにも無力な僕に、この餓死寸前の猫より自分が「上」だなんて思い上がる資格が、本当にあるのだろうか。
僕たちの、いったい何が違うというのだろう。
怯えた瞳の中に、僕の姿が映っていた。
同じようにボロボロで、同じようにこの世界に見捨てられた存在だった。
ふと、周囲の喧騒や車の音が遠ざかっていった。巨大な街が、冷たい廃墟に変わっていくような気がした。最底辺を生きる弱い僕たち二匹だけが、その片隅で身を寄せ合っている――そんなふうに思えたのだ。
僕は震える手で、そっとその猫を抱き上げた。驚くほど軽かった。
そして、そのまま家に連れて帰った。
それが、僕が生まれて初めて、自分から「何かを救おう」と動いた瞬間だった。
きっと、あれがすべての始まりだったのだろう。
それからの日々、僕はその猫に、きれいな水と、たっぷりのエサと、柔らかい寝床(といっても僕のベッドだけど)を与えた。
最初はびくびくと部屋の隅に隠れてばかりいたのに、やがて僕の足元にすり寄ってくるようになり、気づけば毎日、家の中を元気に跳ね回るようになった。
その姿を見るたびに、自分はあの猫をちゃんと救えたのだと思い込んだ。――いや、そう信じたかったのだ。
――そうか。あれは最初から、そんな高尚な善行なんかじゃなかった。
あれはいつだって、ちっぽけで、自分勝手で、惨めな理由でしかなかったんだ。
僕が手を差し伸べたのは、決して僕が優しい人間だからじゃない。
泥の中に放り出され、誰かに踏みにじられる悔しさを、痛いほど知っていたからだ。
自分と同じように弱い存在に、「下の人間」として味わったあの絶望と痛みを、二度と味わわせたくなかった。
ただそれだけの、頑なで、身勝手な理由だったんだ。
そして――あの駅の曲がり角で、見知らぬ兄妹に頭を下げられた、あの日。
そんな僕の身勝手な理由を、「優しさ」と呼んでくれた人がいた。
――あれから、何年が経っただろう。
「あき……ねえ、聞いて……る?」
かすかな声が、僕の回想を遮った。
「明輝……ねえ、聞いてるの?」
聞き覚えのある、懐かしい声だった。
さっきより大きく、はっきりと、彼女はもう一度呼んだ。
「明輝!」
澄んだ声が、頭の中まで響き渡る。
僕は過去の記憶から引き戻されて、ぼんやりした目でその女の子を見た。
動きやすいジャージ姿。その上に、「ひだまり苑ボランティア」と書かれた黄色いゼッケンをつけている。
僕はゆっくりと視線を彼女から外して、周囲を見渡した。
広々とした芝生の庭。そこは、老人ホームの中庭だった。あちこちでおばあさんたちが楽しげにおしゃべりをし、藤棚の木陰では、おじいさんたちが将棋を指している。そして、彼女と同じゼッケンをつけた人たちが、お年寄りたちに笑顔で寄り添っていた。
初夏の風が、洗いたてのシーツの匂いを運んでくる。空気は驚くほど穏やかで、満ち足りていた。
「どうしたのよ? 何回も呼んだのに、ずっとボーッとしてさ」
彼女は少し不満そうに、僕を睨んだ。僕は慌てて頭を下げる。
「あぁ、傾芽、ごめん。ちょっと昔のことを思い出しててさ」
「アキラくん、本当に大丈夫かい?」
今度は、下から声がした。
視線を落とすと、僕が押している車いすに座ったおじいさんが、心配そうにこちらを見上げていた。
「もう! おじいちゃん聞いてくださいよ! 私、さっきからずっと明輝と結婚式の会場とか日取りの話をしたかったのに、こいつ、いきなり上の空なんですよ! ひどい幼馴染だと思いません?」
傾芽は車いすのおじいさんの前にしゃがみ込むと、泣きそうな声で愚痴をこぼした。おじいさんは困ったように笑いながら、彼女の頭を優しくなでてくれる。
僕は苦笑いを浮かべて、傾芽を見つめた。
数年前、僕は勇気を振り絞って、彼女に連絡を取った。
傾芽は僕の幼馴染であるだけでなく、僕がいじめられていたとき、たった一人、手を差し伸べてくれた人だったからだ。いつか直接、あのハンカチのお礼を言いたいと、ずっと思っていた。
でも、久しぶりの再会が人生の大きな転機になるなんて、思ってもみなかった。
彼女に誘われるがまま同じ会社に就職し、休みのたびに、こうして一緒に老人ホームでボランティアをするようになった。いつの間にか、僕たちは自然と手をつなぐようになり、気づけば、恋人同士になっていた。
最近の傾芽は、「早く結婚しようよ」と毎日のようにせがんでくる。
正直、自分に一人前の夫が務まるのか、今でも不安になることが多いけれど。
これまでの道のりを振り返ってみる。
傾芽との再会。すんなり決まった就職。そして、ボランティアのある日常。
どれもこれも、かつての僕には想像すらできなかった未来だ。
運命というものは、一本の細い糸のように、どこかでつながっている。
ふと、かつて僕の運命を、ほんの少しだけ変えてくれた――あの男の姿が頭をよぎった。
――『あなたには、どうかその優しさを持ち続けてほしいんです!』
あの日から、僕は「目を背ける」スキルを身につけるのを、やめた。
たとえ僕のような人間でも。こんなにも平凡な、僕なんかでも――。
僕は、青く澄み渡った空を見上げた。
特別な理由なんてない。ただ、そうしたくなったからだ。
「ん? 空になんかあるの?」
僕の様子に気づいた傾芽も、不思議そうに顔を上げた。
「ううん、何でもない。ただ――」
たとえ僕たちのような、平凡な人間であっても――。
「今日の空、すごく青いなって思ってさ」
――きっと、自分にできることが、何かひとつくらいはあるはずだ。




