平凡な僕たち(前編)
……僕は昔から、自分のことが大嫌いだった。
街角の野鳥や、行き場のない野良猫。目の前に現れさえすれば、僕は無意識のうちに手を差し伸べてしまう。
そのせいで、家にはいつの間にか五匹もの保護犬や保護猫が住みつき、僕自身も動物シェルターの常連になった。おまけに、ホームレスの人たちに差し入れを買うせいで、毎月のお小遣いは月の半ばを待たずに底をつく。
でも、冷静に考えてみれば、そんな衝動は滑稽でしかない。
だいたい、僕がいつもそうしてしまう理由なんて、思い返せばあまりにもちっぽけなきっかけだった――。
そう、小さくて、くだらない理由だ。
中学時代の不愉快な記憶と、忘れようとしても忘れられないいくつかの顔が頭をよぎって、胸がむかついた。僕は「昔の知り合い」を急いで頭から追い払い、歩くことに集中する。
「あいつらは、僕がこんなことをする理由なんかじゃない」
結局、こんな善行は、施しをすることで自分のちっぽけな同情心を満たしているだけなんじゃないか。
そう気づくたびに、偽善的な自分に吐き気がするほど嫌気がさした。
この社会を生き抜くうえで、何の役にも立たない同情心こそが、最も致命的な弱点だ。空っぽの財布と、猫や犬だらけの家が、何よりの証拠じゃないか。
だから僕は、こんなものはきっぱり捨てて、生き残るための自分なりのルールを一から作り直すことに決めたのだ。
そうだ! 今日こそその日だ。新しい僕が、今この瞬間に生まれ変わるんだ……!
頭の中で新しいサバイバル思考を何度もシミュレーションしながら、駅へ向かって歩く。偽善的な過去の自分から抜け出せると思うと、これまでにない高揚感が込み上げてきて、口元が緩み、鼻息まで荒くなった。
鼻歌まじりに曲がり角へ差しかかった、そのとき。かすかな話し声が聞こえてきて、僕は思わず角の陰に身を引いた。
「付き合ってよ、少しだけでいいからさ。どうせ家に帰りたくないんだろ?」
「えっ……でも……うーん……」
ナンパされているみたいだ。
僕はナンパ男をこっそり観察してみた。服装からして高校生らしい。色白で、柔らかそうな髪に、整った目鼻立ち。間違いなくイケメンの部類だ。
なのに、どうしてこんな不器用で古臭い手口で声をかけなきゃならないんだ? 世の中も変わったものだ。
ナンパされている女の子も高校生に見えたが、どこかあどけなさが残っていて、中学を卒業したばかりといったところだろう。こちらも色白で整った顔立ちだったが、目だけは死んだ魚みたいだった。
男は女の子と、曲がり角の端で話していた。通りを行き交う人の邪魔にならない、絶妙な位置だ。ナンパのくせに妙に気が利いている。
「ほんの少しだけだからさ、いいだろ?」
男は女の子をしつこく引き留め、ついには手首をつかんで、強引に引っ張っていこうとした。
これはさすがにマズいんじゃないか? あの子、今にも連れ去られそうだぞ。
二人の声は、小さくはないが大声というほどでもない。それでも、通りかかった人なら多少は気づくはずだ。なのに、誰一人として止めに入ろうとしない。大人も、学生も、お年寄りも、暗黙の了解でもあるかのように、見なかったことにして足早に通り過ぎていく。
そうだ、これが今の社会だ。
誰もが自分の安全圏を慎重に守り、他人の危機なんて、道端を吹き抜ける落ち葉くらいにしか思っていない。スマホを覗き込み、歩幅を速め、イヤホンの音量を上げる――人間には、道徳と自己防衛を両立させるための「お上品なやり方」が、数えきれないほどある。見なかったことにさえすれば、親切のせいで降りかかる面倒もリスクも、背負わずに済むからだ。
なにせ最近のニュースは、助けに入ったら痴漢と疑われて通報された、スマホを持っていただけで盗撮を疑われた、なんて話であふれている。自分の善意を悪意と取られるなんて、誰だってごめんだ。
だから人は、冷たさの裏に優しさを隠して、目を背けることで厄介事から身を守る。
そしてそれこそが、新しい僕が身につけるべき「目を背ける」スキルだった。
僕は相変わらず、角の陰から様子をうかがっていた。
女の子は困っている……ように見えるか? あれ、もしかして笑いをこらえてる?
まあ、どっちにしろ今の僕には関係ない。
そう、新しい僕は、もう誰も助けないと決めたのだから。
「ほら、早く行くぞ……!」
男がしびれを切らしたのか、やや切羽詰まった口調で、女の子の手をつかむのが見えた。
「ひゃっ……! あ」
変な声を上げた女の子は、バランスを崩しかけたが、すぐに体勢を立て直した。
僕は自分のことを、冷静に状況を観察しているつもりだった。
ところが、女の子だけでなく、あの男までもが驚いた顔をしている。どうやら僕は衝動的に飛び出して、男の手をパチンと払い除けてしまったらしい。……はは。
女の子の手が自由になる程度に加減したから、男の手もそんなに痛くはなかったはずだ。もっとも、男のほうも最初から強く掴んでいたわけではなさそうだったが。
改めて見ると、二人はそろって驚いた顔でこっちを見つめていた。
……くそっ、あいつら絶対、僕が何か言うのを待ってるぞ。
仕方ない。こうなったら腹をくくって、何か絞り出すしかない。
「ぼ、僕はっ……! な、何があったのかは……し、知らないけどさ……! こ、この子がす、すごく困ってるの……見えなかったのかよ!? お、男ならさ……女の子をそんなにしつこく……困らせるもんじゃない……だろ……!」
正直、緊張で心臓が破裂しそうだった。何人かの通行人がこっちをチラチラ見ている気配すらする。頼むから、僕なんか見ないでさっさと通り過ぎてくれ!
「あの……すみません……実は……」
予想外だったのは、口を開いたのが男ではなく、僕の後ろで守られているはずの女の子だったことだ。
「ん?」
展開が予想の斜め上を行きすぎて、僕は「ん?」というアホ丸出しの返事しかできなかった。
女の子は僕の脇をすり抜けて男のほうへ歩み寄ると、ごく自然に、男の腕に自分の腕を絡ませた。
「あのね……この人、お兄ちゃんなの……」
そう言いながら、女の子は拳で男の額をポカリと小突いた。小突かれた男は、気まずそうな笑みをこちらに向けてくる。
言われてみれば、二人のあいだには、他人同士ではありえない気安さがあった。
「いやぁ……ナンパと間違われちゃったみたいですね……ははは……」
男は後頭部をポリポリとかいた。
……は?
状況はだいたい飲み込めた。
要するに僕は、兄妹のじゃれ合いを、盛大に邪魔してしまったわけだ。
じゃあ、さっきの僕の行動は一体なんだったんだぁぁぁぁ!
恥ずかしすぎて死にそう! 何のつもりで正義のヒーロー気取りで飛び出したんだよ! あの視線! あの熱血すぎるセリフ! 「男なら」なんて、よく言えたな! 今、この場にいる全員が僕を見てるぞ! さっき通り過ぎた奴らだって、絶対心の中で笑ってるに違いない! 神様、頼むから今すぐ地割れを起こして僕を飲み込んでくれ!
今なんて言えばいい? 「すみません、人違いでした」か? その場で倒れて気絶したフリをするか? 頭を抱えてしゃがみ込むか? それとも「舞台のセリフの練習をしてただけです」ってごまかすか? いや、さっきあんなにガタガタ震えてたの、全部バレバレだし! なんて滑稽なんだよ僕は、あぁぁぁ逃げ出したい! もうこの場所にはいられない! お母さん助けて、本当に家に帰りたい……!
頬がカッと熱くなり、その熱は耳たぶまで一気に駆け上がっていく。
余計なことには首を突っ込まないと、ついさっき誓ったばかりなのに。やっぱり、こうして報いを受けた。
羞恥心が津波みたいに押し寄せてくる。穴があったら入りたいどころか、自分で掘ってでも入りたい。いっそこの駅は二度と使うまいと本気で決意して――そうだ、そうしよう!――僕は慌てて体を反転させた。どう言い訳してトンズラするか、必死に頭をフル回転させながら。
「ありがとうございます!」
唐突な男の声が、逃げ出そうとした僕の背中を呼び止めた。
全身がビクッと震え、足がピタリと止まる。
ぎこちなく振り返る。待っているのは嘲笑か、困惑の視線だとばかり思っていた。
だが、男の顔からは、さっきまでの気まずさがすっかり消えていた。そこにあったのは、ただ、真剣な眼差しだけだった。
「妹のために助けに入ってくれて、本当にありがとうございました」
そう言うと、彼は少しの迷いもなく、僕に向かって深々と頭を下げた。あまりにも真っ直ぐなその態度に、こっちが気恥ずかしくなってくる。
「あ、いや……僕、大したことしてないし……」
すっかり慌てふためいて、手をもじもじとこすり合わせるしかなかった。声は蚊の鳴くような小ささになり、さっきまでの羞恥心は、いつの間にか、むず痒いような照れくささに変わっていた。
「いいえ、そんなふうに言わないでください」
男はすっと体を起こした。まっすぐ僕を見つめる瞳に、嘘はなかった。
「通りすがりの方に、僕たちが兄妹だなんて分かるはずがありませんよね? 他人から見れば、さっきの状況はどう見ても危なそうでした。それなのに、誰もが関わり合いになりたがらないこのご時世に、あなたは勇気を出して、困っている人を助けようとしてくれた。それが、本当に嬉しかったんです。ありがとうございます」
そう言って、彼は手を差し出し、僕の手をぎゅっと握りしめた。
「あなたには、どうかその優しさを持ち続けてほしいんです! もっとたくさんの人を、救ってあげてください!」
僕が……?
こんなにちっぽけで、弱い僕が、そんなことを……?
目の前の男の顔を見つめながら、僕は、過去のどうしようもない記憶に引きずり込まれていった。
胸を締めつける嫌な記憶が、さっきよりもずっとはっきりと、よみがえってくる。




