冬の日常(中編)
ちょうどそのとき、教室の前の扉がガラリと開いて、委員長の鋭い拍手が響いた。
「みんな静かに! ホームルーム始まるよ! まだうろうろしてる人は、さっさと席について!」
その声を聞いた途端、教室のざわめきは、スイッチを切られたみたいにぴたりと止んだ。
秋人は「っと、やべ」と舌を出し、いたずらっぽくウィンクを一つ飛ばしてから、椅子を元の位置に戻した。
僕は一限の教科書を開いて、昨日予習したページを探し、ふうっと小さく息を吐く。
窓から差し込む朝の光が、紙の上で柔らかくきらめいていた。
毎朝あれだけドタバタしているのに、こういう何気ない時間が積み重なって、僕の日常になっていく。
……悪くないな、と思った。
朝のホームルームが終わると、予定どおり一日の授業が始まった。
午前中は、教師が退屈な関数や英文法を、ひたすら淡々と説明し続けた。クラスのあちこちで、居眠りやスマホいじりに励む生徒の姿がある。
黒板の前では先生が熱心にチョークを走らせているのに、その熱が教室の後ろまで届くことは、ほとんどない。
隣の席の秋人も、例外じゃなかった。
しょっちゅうこっちを向いては、意味不明な落書きのメモを回してきたり、シャーペンで僕の机をつんつんつついて「構え」アピールをしてくる。
僕は白い目を向けて、小声で釘を刺した。
「ちゃんと授業聞かないと、あとでノート見せてやらないからな」
秋人は大げさに口を押さえて、しゅんとしたふりをした。三分後には、またつついてきたけれど。
やがて、待ちに待った昼休みのチャイムが鳴った。
教室を覆っていた張りつめた空気が、一気にゆるむ。
生徒たちはそれぞれ好きなグループに分かれて、弁当を広げていく。唐揚げや卵焼きの匂いと、にぎやかな話し声が、教室中に広がった。
「なあ小冬、今日の昼は何持ってきたんだ? もしかしてまた、見てるだけで嫉妬したくなる手作り弁当か?……まあ、作ったのはお前本人だけどさ」
秋人は遠慮なく椅子を引き寄せて、僕がカバンから出したばかりの袋を覗き込んだ。
「本当はパンケーキを持ってくるつもりだったんだけど、朝でミックスを使い切っちゃってさ。登校の途中で、コンビニのパンを一個買っただけだよ」
袋の包装をビリビリ破きながら答える。
「そっちこそ、昨日あんなに『絶対ムキムキのマッチョになる!』って意気込んでたくせに。結局、コンビニの特盛り焼きそば弁当じゃないか」
「分かってねえなあ、小冬。筋肉も魂も、カロリーがなきゃ育たねえんだよ」
秋人はニヤリと笑って、焼きそば弁当のフィルムを剥がした。ソースとマヨネーズの、暴力的なまでに濃い匂いが立ちのぼる。
「ほら、親愛なる相棒よ。俺の特製マヨ焼きそば、一口分けてやるよ! でないと、お前があまりに哀れに見えるからな」
「いいよ。僕はこれで十分だから」
僕は、秋人の厚意をやんわり断った。
べつに無理をしているわけじゃない。もともと食は細いほうだし、パン一個でも午後の授業は乗り切れる。
……このときは、本気でそう思っていた。
僕たちは、クラスの他愛ない噂話や、近づいてきた定期テストの話、週末の予定なんかをだらだらとしゃべりながら、昼食を済ませた。
取りとめのない会話ばかりだったけれど、そのゆるい空気のおかげで、朝の電車から胸の奥に引っかかっていたモヤモヤも、少しずつ溶けていくようだった。
午後の日差しが窓ガラスを斜めに抜けて、教室の床に暖かい光の帯を描く。
その心地よいぬくもりが、容赦なく生徒たちのまぶたを重くしていった。午後の授業は、睡魔との過酷な戦いの連続だった。
おまけに、昼がパン一個では、やっぱり軽すぎたらしい。
授業が始まって間もなくお腹が鳴り出し、時間が経つほど、空腹はどんどんひどくなっていく。静まり返った古典の時間に、ぐう、と派手な音が響いたときは、さすがに冷や汗が出た。隣で秋人が、肩を震わせて笑いをこらえていた。
僕はひたすら意識を保って、なんとか放課後までもちこたえた。
そしてついに、最後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
その瞬間、教室の生徒たちは一斉に息を吹き返したように動き出す。カバンを片付ける音や、椅子を引く音が、教室いっぱいに満ちた。
「ふう……やっと解放されたぁ!」
秋人は大きく伸びをして、盛大にあくびをした。
普段なら、その大げさな態度に呆れるところだ。けれど、猛烈な空腹に襲われている今の僕には、深く共感せざるをえなかった。
くるりとこちらを向いて、秋人が言う。
「なあ小冬、放課後どっか寄ってかないか? 駅の近くにできた新しいカフェ、冷やかしに行こうぜ」
「悪い、今日はやめとく。とにかく早く、何か腹に入れたいんだ」
僕はノートと教科書を手早くカバンに放り込みながら、首を振った。
「そいつは残念。じゃ、また今度だな!」
秋人は片眉を上げて、やれやれ仕方ない奴だな、という顔を作ってみせた。
「んじゃ、また明日な。我が家の偉大なる主夫クン、お疲れさん!」
「……また明日」
僕は、じとっとした目を返してやった。
重いカバンを肩にかけ、秋人やほかのクラスメートに軽く手を振って、足早に教室を出る。
傾きかけた日差しが、校舎の壁をやわらかな茜色に染めていた。少しひんやりした夕風が、並木の葉をさわさわと揺らしている。
帰り道を急ぎながら、僕は大きく息をついた。
頭の中は、一刻も早く何かを胃袋に放り込むことで、いっぱいだった。
電車に揺られて、乗り換えのターミナル駅に着く。
迷わず、駅の地下街にある、花巻夫妻のラーメン屋さんに狙いを定めた。
あそこのラーメンは、僕も夏も大好物なのだ。
地下街へ降りる階段の途中で財布を取り出し――ふと、手が止まった。
もうすぐ月末だ。この時期の僕の財布は、いつも寂しい。
母に言えばすぐに出してくれるのは分かっている。でも、人に頼ってお金を足すのは、どうにも性に合わなかった。
おそるおそる中を覗くと、小銭がちゃんと残っている。
数えてみると、ちょうど一杯分。
「おっ、ラッキー。ラーメン一杯分、ぴったり残ってる」
自分の運のよさに、小さくガッツポーズを決める。なぜかスキップでもしたくなるような軽い足取りで、店のほうへ向かった。
そのとき、ふと視界の端に、見覚えのある後ろ姿が飛び込んできた。
――夏だ。
あれ、夏も来てたのか。
けれど夏は、店の前で財布を握りしめたまま、しばらく固まっていた。やがて、がっくりと肩を落とすと、とぼとぼと駅のホームのほうへ引き返していく。
店に入る様子は、まるでない。
声をかけようとした、その瞬間だった。
「はぁ……家に帰りたくないなぁ……」
夏の、深々としたため息まじりのつぶやきが聞こえた。
同時に、今朝、母がマンションの前で披露した、あの古臭いナンパのノリが、脳裏にフラッシュバックした。
……急に、あれを一度やってみたくなった。
そんな不謹慎な考えが頭をよぎる。
いやいや。そんなバカなことをするほど、僕はもう子供じゃないはずだ。
頭ではそう否定しながらも、僕の足は、まるで意志を持っているみたいに、勝手に夏のほうへ向かっていた。
そして気づけば、こう口走っていた。
「おやっ? そこの女子高生さん? 今、家に帰りたくないって聞こえたけど?」
……我ながら、救いようのない大馬鹿者だった。




