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冬の日常……?(後編)

 僕の声を聞いた夏は、「……?」と言葉を失ったまま、心底呆れた目で僕を見た。


 ……ちょっと傷つく。


 でも、ベタなナンパのセリフを口にしたせいか、なぜか少しだけ気分が高揚していた。きっと受験勉強でストレスが溜まっているせいだろう。決して、僕が変質者だからではない。……たぶん。


「付き合ってよ、少しだけでいいからさ。どうせ家に帰りたくないんだろ?」


 お、おお……! これ、思ったよりずっと面白い。

 駅前で片っ端から声をかけているチャラい大学生って、こんな気分なのか。新しい世界だ。今朝の母の気持ちが、ちょっとだけ分かった気がする。


 でも、あまりふざけすぎるのもよくない。夏はお腹を空かせているみたいだし、そろそろ種明かしして引き下がろう――と思った、そのとき。


「えっ……でも……うーん……」


 夏の声がした。戸惑いと恥じらいが入り混じったような、絶妙な声色。しかも、引き下がろうとした僕の手を、こっそりきゅっと掴んでくる。


 ……こいつ、ノリノリだ。


 顔を見れば、間違いなかった。眉はしおらしく下がっているのに、口元がひくひくと笑いをこらえている。

 まさか、こんなところで兄妹の波長が合ってしまうとは。喜ぶべきか、嘆くべきか。


 ……まあ、夏が乗ってくれるなら、もう少しだけ付き合おう。


 僕たちは、通行人の邪魔にならないよう、曲がり角の端へ寄った。こういうところで妙に気を回してしまうのは、もう性分だ。


「ほんの少しだけだからさ、いいだろ?」


 僕はトーンを一段落として、自分なりに「ワル」っぽい口調で続けた。夏の手首を軽くつかんで、引き留めるふりをする。アニメで仕入れた知識だけど、これなら十分ワルに見えるはずだ。


 ところが、夏の顔がぷるぷると引きつっている。笑いをこらえようと、必死に頬の筋肉を押さえ込んでいるらしい。


(そんなに似合ってないのか、僕のワル口調……)


 こら、笑わない。夏がノってきたから、合わせてあげてるのに。


 恥ずかしさと妙な高揚と焦りがごちゃ混ぜになって、僕は勢い任せに言ってしまった。


「ほら、早く行くぞ……!」


 そのまま、反射的に夏の手を引っ張る。


「ひゃっ……!」


 夏は、僕がいきなり引っ張るとは思っていなかったらしい。無理もない。僕自身、予想していなかったのだから。

 ただ、たとえバランスを崩しても、倒れ込む先は僕の胸のはずだった。夏もそれに気づいたのか、勢いのまま、僕にしがみつこうと身を寄せてくる。


 そのとき、異変が起きた。


 パチン、と乾いた音。

 僕の手が、横から思いきり払いのけられた。


「あ」


 夏の、間の抜けた声。

 僕の胸に飛び込んでくるはずだった夏は、いつの間にか割って入ってきた見知らぬ男の背中に、かばわれるように隠されていた。


 少しぽっちゃりした体型に、どこか自信のなさそうな顔。手は小刻みに震えているのに、それでもしっかりと、夏の前に立ちはだかっている。


 なるほど。これは完全に、不審者扱いされている。ははは。

 ……全然笑えない。


 僕と夏は黙ったまま、男が口を開くのを待った。

 気まずい沈黙のあいだ、男の肩越しに、夏がずっと不満そうな目を僕に向けていた。さっき僕に受け止めてもらえなかったのが、よほど不服だったらしい。いや、そこは今、どうでもいいところだから。


「ぼ、僕はっ……! な、何があったのかは……し、知らないけどさ……! こ、この子がす、すごく困ってるの……見えなかったのかよ!? お、男ならさ……女の子をそんなにしつこく……困らせるもんじゃない……だろ……!」


 どもりがちな声が、男の口からこぼれた。


 ……やっぱり、完全に変質者だと思われている。

 当然だ。今の僕は、誰がどう見ても、嫌がる女子高生の手を引っ張っていたナンパ男なのだから。


 僕が弁解しようと口を開きかけた、そのとき。


「あの……すみません……実は……」


 夏が、先手を打った。

 男の脇をすり抜けて僕のそばまで来ると、ごく自然に、僕の腕に自分の腕を絡めてくる。


「あのね……この人、お兄ちゃんなの……」


 なんていい妹だ。「被害者」本人の証言なら、説得力も抜群だろう。

 ――と感心した次の瞬間、夏の拳が、僕の額をポカリと小突いた。地味に痛い。完全に、さっきの仕返しだ。


 ただね、夏。どさくさに紛れて僕の腕にしがみつくのは、今はやめなさい。僕はまだ容疑者なんだから。


「いやぁ……ナンパと間違われちゃったみたいですね……ははは……」


 僕は後頭部をポリポリとかいて、気まずい笑みを浮かべるしかなかった。


 男は、ぽかんと口を開けて、僕たちを見比べた。

 そりゃそうだ。普通は、駅の地下街で兄妹がこんなごっこ遊びをしているなんて思いもしない。本当に申し訳ない。


 やがて、男の顔がみるみる真っ赤になった。耳の先まで、あっという間に。勘違いが恥ずかしかったのだろう。

 本当に恥ずかしがるべきなのは、こっちの兄妹のほうなのに。


 男は何かをぶつぶつとつぶやきながら、くるりと背を向けた。逃げるように、この場を立ち去ろうとしている。


 その丸まった背中を見て、僕はなぜか、そこに自分の姿を重ねていた。


 体型も顔立ちも、僕とはまるで違う。それなのに、あのおどおどした目の動きや、人の視線から身を隠そうとする仕草に、見覚えがあった。

 鏡の前で、自分の顔から目を逸らすときの僕と、同じだ。

 彼もきっと、僕と同じように、何か重たい劣等感を抱えて生きている。そんな気がしたのだ。


 ――それなのに、彼は飛び出してきた。

 見て見ぬふりをして通り過ぎていく人たちの中で、ただ一人。震える手で。


「ありがとうございます!」


 気づけば、僕は大きな声で彼を呼び止めていた。

 男の肩が、ビクッと跳ねる。足がピタリと止まり、ぎこちなく振り返った。


 僕は彼に向き直って、深く頭を下げた。


「妹のために助けに入ってくれて、本当にありがとうございました」


 勇気ある行動への感謝だけじゃない。その勇気そのものへの、敬意を込めて。


「あ、いや……僕、大したことしてないし……」


 男は僕の突然の行動に面食らったのか、ひどくうろたえて、手をもじもじとこすり合わせた。声は、蚊の鳴くように小さい。


「いいえ、そんなふうに言わないでください」


 僕は顔を上げて、まっすぐに彼を見た。


「通りすがりの方に、僕たちが兄妹だなんて分かるはずがありませんよね? 他人から見れば、さっきの状況はどう見ても危なそうでした。それなのに、誰もが関わり合いになりたがらないこのご時世に、あなたは勇気を出して、困っている人を助けようとしてくれた。それが、本当に嬉しかったんです。ありがとうございます」


 そう言って、彼の手をぎゅっと握った。汗ばんだ、少し冷たい手だった。


「あなたには、どうかその優しさを持ち続けてほしいんです! もっとたくさんの人を、救ってあげてください!」


 自分とよく似た、劣等感を抱える彼に向けた言葉だった。

 ……いや、きっと半分は、自分自身に向けた言葉だったのだと思う。

 いつか僕も、劣等感に足を取られることなく、前へ踏み出せるように。


 彼はしばらく呆然と僕の顔を見つめていたが、やがて小さく、本当に小さく会釈をして、人混みの中へ消えていった。


 その背中を見送ってから、僕は夏に視線を戻した。

 夏がさっき、店の前で立ち止まっていた理由は、なんとなく分かる。


 もちろん、テレパシーが使えるわけじゃない。

 ただ、この妹は、僕とあの男のやり取りのあいだ、ずっと体がふらふらと揺れていたのだ。どう見ても、空腹のせいだった。


 おそらく、手持ちのお金がないのだろう。かといって、家に帰っても食べるものがあるかどうか分からない。

 そう悩んで、帰るべきか帰らざるべきか迷っていたところに、ちょうど僕が通りかかって、あの茶番が始まった――というわけだ。


 もっとも、夏の心配は正しかった。

 我が家の冷蔵庫には、もう食材がほとんど残っていない。今朝、パンケーキミックスも使い切ってしまった。買い出しは、週末にまとめて行くつもりだった。


 そのとき、夏がじっと僕を見て、目を細めた。


「もう、まったく!」


 あ、怒ってる。まあ当然か。さっきので盛大にやらかしたわけだし。


「まさか止めに入られるなんて、完全に読み違えたなぁ……ちょっと悪ノリしすぎたみたいだ」


 僕は苦笑いして、言葉を続けた。


「でも、あの人は本当に優しい人だよね。あんなふうに勇気を出して動けるなんて、なかなかできることじゃないよ」


 夏も、それにはこくりとうなずいた。


「誤解も解けたことだし、もう帰ろっか」


 夏は明るくそう言って、くるりと改札のほうへ足を向けた。

 なるほど、家に食べ物が残っているほうに賭けるつもりか。残念、それは大ハズレだ。


「あれ、帰るの?」

「え? うん。お兄ちゃん、どこか寄りたいところでもあるの?」


 首をかしげる夏に、僕はさらりと言った。


「うん。付き合ってよ。ご飯、食べに行こう」


 そう言うと、夏の顔が、ほんの少しだけ曇った。財布の中身を思い出したのだろう。

 それでも、一緒に来てくれることは分かっていた。


「うん、じゃあ行こう」


 案の定、夏は改札へ向かっていた足を止めて、僕についてきた。

 そのとき、彼女の足元がふらっと揺れたのを、僕は見逃さなかった。空腹は、思った以上に深刻らしい。


 ただ、夏の性格上、僕がおごると言っても絶対に受け入れないだろう。夏は、人からお金を借りない。……僕の真似をして、いつの間にかそうなってしまったのだ。

 そこで僕は、頭の中でひとつ、作戦を組み立てた。


 向かう先は、当初の予定どおり、花巻夫妻のラーメン屋さんだ。

 理由はこうだ。


 僕と夏は、この店の常連だ。だから注文のとき、メニューを開く必要がない。直接、おばあちゃんにメニュー名を伝えるだけで済む。

 そして僕は、夏が『花巻家特製超豪華海鮮ラーメン』――通称『花海麺(はなかいめん)』が大好物だと知っている。


 作戦は単純だ。夏が気づかないうちにそれを頼んでおいて、運ばれてきたら「注文を間違えた」と言う。

 言い訳は穴だらけだけど、一度目の前に届いてしまえば、こっちのものだ。


 おまけに僕は海鮮アレルギーだから、花海麺は自分では食べられない。僕が食べられない以上、夏が断れば、この一杯は丸ごと無駄になる。

 食べ物を粗末にできない夏に、断る理由は残らない。


 計画は、すべて思いどおりに進んだ。


 店に入ると、女将(おかみ)さん――花巻のおばあちゃんが、いつものように孫でも迎えるみたいに、奥の席へ案内してくれた。

 財布を忘れたと言い張る夏に、「じゃあ僕は自分の分だけ頼むね」と言っておいて、ついでのように聞く。


「もしナツがお金を持ってたら、何が食べたかった?」

「ふふん、もちろん『花海麺』だよ!」


 ――言質は取った。


 ほどなくして、夏は空腹をごまかすためか、テーブルに突っ伏して眠ってしまった。

 すうすうという寝息を確かめてから、僕は小声でおばあちゃんを呼んで、注文を伝えた。


「花海麺、ひとつお願いします」


 おばあちゃんは一瞬、目を丸くした。僕のアレルギーを知っているからだ。

 けれど、隣で眠っている夏を見ると、すぐに全部を察したように、目尻のしわを深くしてうなずいてくれた。

 厨房の奥で、おじいちゃんが黙って麺の束をほぐす音がした。


 しばらくして、湯気の立つ丼が運ばれてくる。僕は、そっと夏を揺り起こした。


「……ナツ、起きなよ」

「んー……お兄ちゃん、食べ終わった? じゃあ行こっか!」


 目を覚ました夏は、僕がもう食べ終わったと勘違いしたらしい。そのまま立ち上がって、帰ろうとする。


「違うよ。ナツのラーメンができたんだ」


 そう言うと、夏はくんくんと鼻を鳴らして、ようやく漂ってくるおなじみの海鮮の香りに気づいた。

 目の前には、湯気を立てる花海麺が、堂々と鎮座している。


「……へ? 私、頼んでないよ!?」


 夏は目を丸くして、それから、獲物を狙う猫みたいな目でラーメンを見つめた。


(うん。顔に、でかでかと「食べたい」って書いてある)


 用意していた言い訳を、あれこれ並べる。うっかり注文を間違えた。僕は海鮮が食べられない。食べ物を無駄にするのはよくないよね――。

 ……自分でも、穴だらけだとは思う。

 でも、最後に勝つのは、いつだって目の前のラーメンだ。


「うぅ……! わかったよ、食べる! 食べればいいんでしょ!」


 観念した夏が、丼を引き寄せて勢いよくすすり始める。

 ひと口目のスープを飲んだ瞬間、夏の肩から、ふっと力が抜けるのが分かった。


 おいしそうに麺をすする夏を見て、僕は思わず、笑みをこぼした。


 その直後、全身からすうっと力が抜けていくのを感じた。

 昼はパン一個。目の前には、夏が幸せそうにすする、僕には食べられない海鮮の香り。どうやら僕のほうも、空腹の限界が近いらしい。

 おばあちゃんが出してくれたお水を、ゆっくりと一口飲む。


 まあ、いい。もう少し我慢すれば、なんとかなる。……たぶん。


「ん? お兄ちゃんは、自分のラーメン頼まなかったの?」


 あっという間にスープの一滴まで平らげた夏が、僕の前が空っぽなことに気づいて、首をかしげた。


「うん。だって、一杯分のラーメン代しか持ってなかったからね」


 嘘は、ついていない。


「お腹いっぱいになったなら、帰ろうか」


 そう言って立ち上がると、


「で、でも……っ」


 夏が申し訳なさそうな顔で、何か言いかけた。僕は、それを遮るように言葉をかぶせる。


「ナツが申し訳なく思う必要なんて、どこにもないよ。むしろ僕のほうこそ、ナツに感謝しなくちゃ。ナツがいてくれなかったら、このラーメンを持て余して困ってたところなんだから」


 少しだけ、笑ってみせた。


「要するに、僕のミス。僕がうっかりしてたのが悪いんだよ」


 店の引き戸に手をかけてから、ひとつ思い出して、振り返る。


「そうそう。家にはもう、食べるものがないんだ。帰っても、何もないよ」


 それだけ言い残して、おじいちゃんとおばあちゃんに挨拶をして、店を出た。

 背後で、夏が慌てて二人に頭を下げる気配がした。


 帰りの電車は、がらがらだった。降りるときのことを考えて、ドア近くの席に並んで腰を下ろす。


 席につくなり、夏は僕の肩に頭を預けて眠ってしまった。お腹がいっぱいになったからだろう。小さいころからの、夏の癖だ。


 夏の髪から、甘い香りがふわりと漂って、鼻先をくすぐる。

 同じシャンプーを使っているはずなのに、どうしてこうも匂いが違うのだろう。

 ……女の子というのは、本当に不思議な生き物だ。


 最寄り駅までは、まだ少し時間がある。

 それに、花海麺の残り香のせいで、空腹がじわじわと頭を支配しはじめていた。こういうときは、寝てしまうに限る。


 夏の頭に、こつんと自分の頭をもたせかける。身長差のせいで首が変な角度に曲がったけれど、気にしないことにした。

 規則正しい揺れに身を任せて、僕もまどろみの中へ落ちていった。


 どれくらい経っただろう。

 夏に揺り起こされて目を開けると、電車はもう駅に着いていた。


「お兄ちゃん、着いたよ。降りるよ」

「ん……」


 眠い目をこすって、大きく伸びをする。慣れた足取りで改札を抜け、そのまま歩いて家路についた。


 住宅街のまっすぐな夜道を歩きながら、僕と夏は他愛のない話をした。

 その途中、夏がふと聞いてきた。


「ねえ、お兄ちゃんは、どうして私がお腹を空かせてるって分かったの?」

「ん? テレパシーかな? 夏が何を考えてるか、なんとなく分かるんだよ」


 冗談めかして答えると、


「へぇ、お兄ちゃんには私の考えてることが分かっちゃうんだ? じゃあ、私がお兄ちゃんのことをどう思ってるかも分かる〜?」


 夏は、くすくす笑いながら言った。

 二人とも、自然と歩調がゆるむ。


「うーん……夏はきっと……僕のことが、一番好きなんじゃないかな」


 僕は笑って、夏の頭をぽんぽんと撫でた。

 何百回、何千回と聞いてきた答えだ。外れるはずがない。


「へへ〜、お兄ちゃん、もしかして本当にテレパシー使えるの!?」


 次の瞬間、夏が勢いよく僕に飛び込んできた。不意を突かれてよろけた僕は、そのまま道沿いのブロック塀に背中を預ける形になる。


「そうだよ! 私、ずっとお兄ちゃんが一番大好きだから!」


 夏は、さらにぎゅっと僕を抱きしめた。

 その腕は、いつもより少しだけ強くて――少しだけ、震えているようだった。


「お兄ちゃんは、私のこと好き?」


 夏が、胸の中から僕を見上げて尋ねた。


「うん、好きだよ」

「一番好き?」

「一番好きだよ」

「うへへ〜……」


 迷う理由なんて、どこにもなかった。夏は、僕の大切な家族だ。誰よりも。

 ――少なくとも、このときの僕は、そう信じて疑わなかった。


 満足のいく答えが聞けたのか、夏はふっと腕をほどいた。


「もう遅いし、お父さんとお母さんが心配するから、そろそろ離れよっか!」


 何食わぬ顔でそう言って、上機嫌でまた僕と並んで歩き出す。


 そのとき、背後から車が近づいてくる気配がした。低いエンジン音と、アスファルトを照らすヘッドライトの光。


「夏」


 はしゃいでいる夏の肩を、そっと引き寄せた。車道側から、内側へ。


「僕が外側を歩くよ。そのほうが安全だしね」


 口にしてから、少しだけ照れくさくなって笑った。

 車が、僕たちのすぐ脇を通り過ぎていく。


 その直後、夏がぴたりと足を止めた。

 どうしたのかと思った、次の瞬間。夏が振り返って、僕の襟元をぐっとつかんだ。


「え……っ、なに――!?」


 ぐい、と引き寄せられる。

 夏が、思いきり背伸びをして――


 唇に、やわらかいものが触れた。


 ほんの一瞬だった。まばたきをするよりも、短いくらいの。

 夏はすぐに身を離した。


 何が起きたのか、理解が追いつかない。

 僕はその場に、呆然と立ち尽くしていた。


「ふ、冬。私、もう十五歳なんだよ」


 夏は、震える声でそう言った。

 ――「お兄ちゃん」じゃなかった。夏が僕を、名前で呼んだ。


 視線が重なったのは、ほんの一瞬だけだった。

 真っ赤に染まった頬。潤んだ瞳。そしてその奥に、僕は、果てのない悲しみのようなものを見た気がした。


 夏はくるりと背を向けると、僕を置いて、スタスタと早足で歩き出した。


 僕は、追いかけることができなかった。

 かける言葉が、何ひとつ見つからなかったからだ。


 数歩先を行く小さな背中は、ついに一度も振り返らなかった。

 僕はその背中との距離を、縮めることも、広げることもできないまま、ただ黙ってついていった。


 家に着くまで、僕たちは一言も言葉を交わさなかった。

 唇に残ったかすかなぬくもりだけが、いつまでも消えてくれなかった。


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