こんなに弱虫な私
午前五時四十六分。
ぱちん、と手を伸ばして、目覚まし時計を止める。鳴るはずの六時まで、まだ十四分もあった。
今朝は、いつにも増して最悪のコンディションだった。ほとんど一睡もできなかったのだから、当たり前だ。
そして原因は全部、昨日わたしが冬にしてしまったことにある。
目を閉じるたびに、昨夜の光景が勝手によみがえる。
大きく目を見開いたまま固まっていた、冬の顔。それから、抑えきれなかった、あの衝動。
ほんの一瞬の出来事だったはずなのに、記憶に焼き印を押されたみたいで、どれだけこすっても消えてくれない。
頬が、じわりと熱くなる。
恥ずかしさと後悔が、一晩じゅう頭の中で殴り合いを続けていて、いまだに決着がつかない。冬にどんな顔を向ければいいのかなんて、考えるだけ無駄だった。
とはいえ、ベッドの上で寝返りを打っていても仕方がない。今日も学校があるのだ。
ため息をひとつついて、とりあえず洗面所へ向かうことにした。
……学校で、春鈴に相談してみようか。
いやいやいや、絶対だめでしょ!
「昨日の夜、つい勢いでお兄ちゃんにキスしちゃったんだけど、どうしたらいいかな?」なんて、口にした瞬間に変な人認定されるに決まってる。
春鈴が顔をしかめる姿まで、はっきり想像できてしまった。
「まさか、なっちゃんがそんなことするなんてね……ごめん、私、重度のブラコンはアレルギーなの。これからは距離を置こう」
うぐっ。思ってたより、ずっと破壊力が高い……!
慌てて妄想を振り払い、早足で洗面所に入る。
いつもどおり歯を磨いて、顔を洗って、制服に着替える。それから、ふと顔を上げて鏡を見た。
映っているのは、いつもと同じ顔。
なのに、どこかが違う気がする。
鏡に顔を近づけて、違いを探してみた。
クマでも、赤くなった目元でもない。もっと深いところ――。
ああ、そうか。
なくなっているのだ。「何があっても、冬はわたしの味方でいてくれる」という、傲慢と呼べそうなほどの確信が。
きっと、怖いのだと思う。
冬に嫌われるのが。冬が、離れていってしまうのが。
想像しただけで、指先がかすかに震えた。
全部、わたしのせいだ。
気持ちを抑えられなかったせいで、冬とわたしのあいだで、ずっと穏やかに釣り合っていた天秤は、もう元の位置には戻れなくなってしまった。
スマホを取り出して、アルバムを開く。
「大好きなお兄ちゃん」と名付けたフォルダには、二千四百十二枚の写真が入っていた。
いちばん新しいのは、昨夜、電車の中でこっそり撮った冬の寝顔。
冬は、わたしにとっての太陽だ。
そしてわたしは、向日葵。
――向日葵は、太陽がなければ生きていけない。
リビングに行くと、お父さんはいつものように、ソファで新聞を広げていた。
「……おはよう」
小さく声をかけて、キッチンへ回る。
テーブルの上には、今日も冬が用意してくれた朝ご飯があった。ラップのかかったお皿の上に、サンドイッチ。ちょうど一口で食べられる大きさに、きれいに切りそろえられている。
冬はもう家を出たらしく、姿はなかった。
昨日のことを、どう思っているんだろう。
気持ち悪いと思っただろうか。それとも、失望した?
それ以上は考えられなくて、サンドイッチを手に取ってかじった。
……やっぱり、おいしい。
おいしすぎて、目の奥がじんと熱くなる。
あんなことがあったのに、冬は今日も、わたしの朝ご飯を作ってくれた。いつもと変わらないその優しさは、どんな叱責よりもずっと、胸にこたえた。
急いで食べ終えて、お父さんの車で駅まで送ってもらった。
窓の外を流れていく、いつもの景色。野菜を買いに来るおばあちゃん。公園で将棋を指すおじいちゃんたち。何ひとつ変わっていないのに、変わってしまったのは、わたしだけだった。
その日は一日じゅう、調子が出なかった。
春鈴だけでなく、普段あまり話さないクラスメイトまで「具合悪いの?」と声をかけてくれて、わたしは笑って「大丈夫」と答えるしかなかった。
放課後は、来週の英語の発表に使う資料を借りに、図書館へ寄った。わざと探す手をゆっくりにして、現実から目をそらそうとしてみる。
けれど、必要な資料はそれほど多くなくて、結局わたしは図書館を出て、電車に乗った。
駅に着いてからは、ひとりで家までの道を歩く。
ぼんやりしがちだから、今日はいつもより車に気をつけた。
家の前まで来ると、リビングの窓から明かりがもれていた。
冬が、もう帰ってきている。
玄関の前で、たっぷり三分は立ち尽くした。深呼吸を三回、覚悟を決めるのを二回。それから、ようやく鍵を回す。
ドアを開けると、玄関のたたきに、冬のローファーがきちんとそろえて置かれていた。
「……ただいま」
「おかえり」
リビングの奥から聞こえてきた声は、いつもと少しも変わらない。
けれど、そのあとに、短い沈黙が落ちた。
「夏」
スリッパの足音が、こっちへ近づいてくる。心臓が、早鐘を打った。
「あの、昨日のことなんだけど――」
「わ、わたし、お風呂入ってくる!」
靴を脱ぎ捨てるなり、恐ろしい怪物にでも追われているような勢いで階段を駆け上がって、ばたんと部屋のドアを閉めた。
ドアにもたれて、ずるずると床に座り込む。両手で顔をおおって、深く息を吐いた。
大丈夫。まだチャンスはある。ちょっと緊張しすぎただけ。
明日こそ、ちゃんと説明できるはず!
そう自分に言い聞かせてから、こっそり部屋を出て、お風呂場へ向かった。
次の日は、土曜日だった。
わたしは「図書館に行く」「春鈴と約束がある」と理由を並べて、朝から夕方まで家を空けた。冬と二人きりになりそうな時間を、すべて回避するために。
……回避に成功した、なんて、まったく誇れることじゃないけれど。
三日目、日曜日。今日こそ、ちゃんと話そうと決めた。
こういうことは、先延ばしにするほど言い出しにくくなるのだ。
頭の中では、二十回以上リハーサルをした。
まず謝って、次に説明して、最後は……最後は、まだ決まっていない。とにかく、まず謝る!
夕食のあと、お父さんとお母さんはリビングでテレビを見て笑っていた。冬はひとりでキッチンに立って、お皿を洗っている。
暖かい色の明かりの下に浮かぶ背中は、声をかけるのがためらわれるほど静かだった。
わたしはキッチンの入り口に立って、部屋着の裾をぎゅっと握りしめる。
「あ、あの、お兄ちゃん」
声に気づいた冬が、水道を止めて振り返った。
「ん?」
その目は、優しすぎた。あの夜のことなんて、何もなかったみたいに。
二十回もリハーサルしたセリフは、その瞬間、全部蒸発した。
「……今日の晩ご飯、おいしかった」
なんでそれなのよ、わたし!
冬は少し驚いた顔をして、それから、ふわりと笑った。
「そっか。ならよかった」
冬が背を向けて、また水道をひねる。
ざあざあという水音がふたたびキッチンを満たして、口を開けそうなすき間まで、ついでに全部埋めてしまった。
第一ラウンド、完敗。
部屋に戻って、今日の戦績を振り返る。
でも大丈夫。まだチャンスはある。いつかきっと、ちゃんと説明できる日が来る……はず。
五日目の昼休み。
春鈴はパックジュースのストローをくわえたまま、しばらくわたしの顔をじっと見ていた。かと思うと、ふいに口を開いた。
「なっちゃん」
「ん?」
お弁当を食べている途中だったので、顔は上げずに返事をする。
「最近、『うちのお兄ちゃんが』から始まる話、全然しないよね」
予想外の言葉に、背筋がぴんと伸びた。
勢いよく顔を上げて、何でもないふりで聞き返す。
「え? そ、そう?」
「そうだよ。前は一日に最低三回は聞いてたもん。『うちのお兄ちゃんの卵焼き、超おいしい』とか、『お兄ちゃんのシャツ、いい匂いがする』とか、『お兄ちゃんが――』とか。ちなみに最高記録は、一日十八回」
春鈴は、わたし自身も知らなかった、まったく役に立たない豆知識を教えてくれた。……数えてたの?
「そんなに言ってないもん!」
そう返すのが精一杯だった。耳がまた熱くなっていくのが、自分でも分かる。
「言ってるよ」
春鈴のまっすぐな目に、わたしは何も答えられない。
「……なんでもないの。ただ、最近ちょっと疲れてるだけ」
ごにょごにょと、それだけつぶやいた。
春鈴はわたしをちらりと見て、それ以上は何も聞かなかった。
ただ黙って、自分のお弁当の唐揚げをひとつ、わたしのお弁当のふたに載せてくれる。
「疲れてるなら、ちゃんと食べて体力つけなきゃ! 話したくなったときに、話せばいいからね」
……わたしが想像していた、冷たい顔で「距離を置こう」と言う春鈴とは、まるで違う。
やっぱり、元気いっぱいの小さな天使だ。
うつむいて、唐揚げをかじる。
冬と話せなかったこの数日がどれだけつらかったかを思い出して、鼻の奥がつんとした。
それでも、目の縁に溜まった涙だけは、必死でこぼさないようにした。
八日目の朝も、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
この現象は、もう一週間も続いている。
洗面所で、自分の顔を見る。目の下に、うっすらとクマが浮かんできていた。
太陽を失った向日葵が、少しずつ、少しずつうなだれていくのが分かる。
「じゃあ、この問題は……そうね、窓際のあなた。どう解きますか? いつものあなたなら、簡単だと思いますけど」
数学の授業中、教壇の先生が、前触れもなくわたしを指名した。
「……? すみません、先生。いまの質問、もう一度お願いできますか」
ぼんやりしている。魂が半分抜けてしまったみたいで、何をしても力が入らなかった。
十一日目の夕方、細かい雨が降りはじめた。
乗り換えのターミナル駅のホームで、電車を待っていたときだった。
ふと視線の先に、白い半袖シャツの人影が入ってきた。少し落ちた肩。考えごとをするときに、右手で顎を軽くトントンと叩くくせ。
目を閉じていても、それが誰なのか分かる。
息を止めた。
彼は、わたしに気づいていない。
ホームの屋根の端から、細い雨の糸がいくつも垂れていた。それが、わたしたちのあいだに、薄いカーテンを織っている。
視線を感じたのか、冬がゆっくりとこちらを振り向いた。
目が合った。
一秒、二秒。どちらも動かない。
きっと二人とも、相手が口を開くのを待っていた。そのとき、電車の到着を告げるアナウンスが響く。
頭の中では「手を振って」「早く謝って」と叫んでいるのに、体はまるで正反対のことをした。
無意識のうちに、柱の陰へ、半歩後ずさっていたのだ。
轟音とともに、電車がホームへ滑り込んでくる。独特の騒音が耳に流れ込んで、緊張で暴れる心臓の音を、すっぽりと覆い隠してくれた。
同じホームに立っているのに、距離はこんなにも遠く見えた。
同じ電車に乗ってからも、わたしたちは並んで座ることなく、それぞれ別のドアの近くに立った。それが、たまらなく心細かった。
電車の冷房って、こんなに寒かったっけ。
冬のいない毎日がどれだけつらいか、わたしはまた、思い知らされた。
十二日目の深夜。
ベッドに横になって、冬とのトークルームを開く。
最後のメッセージは、十二日前のまま止まっていた。
夏『わたしって可愛い?』
冬『ごめん、いま何て送ってきた? 夏が可愛すぎて見てなかった』
入力欄で、カーソルが点滅している。
『あの夜のこと――』……削除。
『ごめんなさい』……削除。
簡単なことのはずなのに。ちゃんと言葉にすればいいだけなのに。
『本当はわたし――』……削除、削除、削除。
結局、何も送れないまま、スマホを胸の上に伏せて天井を見つめた。
それから、もう一度アルバムを開く。
二千四百十二枚。
この十二日間、数字はぴくりとも動いていない。
毎日のように増えていた数字が止まったことは、どんな言葉よりも雄弁に、今のわたしたちを物語っていた。
ちょうど二週間。十四日目の夜。
小さな決心を握りしめて、冬の部屋のドアの前に立った。
ドアの下のすき間から、一筋の、暖かい色の光がもれている。
冬も、まだ起きているらしい。まあ、当然か。受験生だから、夜も全力で勉強しているのだろう。
右手を上げた。
けれど指の関節は、ドアの一センチ手前で止まったまま、どうしても下りてくれない。
向日葵は、一日じゅう太陽を見上げて、首を回して光を追いかけることはできる。
けれど、自分が根を張った土地を離れて、太陽のそばまで歩いていくことはできない。
わたしたちのあいだの天秤は、両端とも宙に浮いたままだ。誰も、先に重りを下ろそうとしない。
この先がどうなるのか、誰にも保証できないから。
結局、ノックしようとしていた手を下ろして、自分の部屋に戻った。




