姫と勇者
十五日目。
今日も、目覚ましが鳴るより先に目が覚めてしまった。
もう限界が近い。自分でも分かる。
今すぐ、冬と話したい。でも、この時間なら、冬はもう家を出る支度をしているだろう。
やがて、玄関のドアがぱたんと閉まる音がした。いつもの時間。冬が、お母さんの車で出かけていったんだ。
いつものように洗面所で顔を洗う。鏡の中のわたしは、目の下のクマが、また少し濃くなったように見えた。
リビングに行くと、お父さんが新聞を読んでいた。
「お父さん、おはよう」
いつもどおりに声をかけると、お父さんは新聞から顔を上げて、わたしに焦点を合わせた。
「おお、夏か。おはよう」
ふと、リビングの隅に、大きなリュックが置いてあるのに気づいた。
家族旅行のたびに、冬が背負っていた相棒だ。どうして、こんなところに?
「朝ご飯、いつもどおりテーブルに置いてあるんだよね? 先に食べてくるね」
「あ、ああ、そうだな……」
お父さんの返事は、どこか妙だった。
けれどわたしは、深く気に留めなかった。
キッチンに近づくと、焼きたてのトーストの香ばしさと、淹れたてのコーヒーのほろ苦い香りがした。フライパンでバターが溶けたあとの甘い匂いまで、空気に満ちている。思わず、お腹が鳴りそうになった。
そう思った、そのとき。
「おはよう、夏」
思ってもみなかった声が、食卓のほうから聞こえた。
視線を向けると、テーブルには湯気の立つコーヒーと、厚切りのトーストが並んでいた。トーストの上には、ちょうどいい焼き加減の目玉焼きと、レタスと、カリカリのベーコン。朝ご飯として、これ以上ないほど完璧だった。
けれど、わたしが見たのは、その先。声の主だった。
冬が、そこに座っていた。
どうして? どうして冬が家にいるの?
さっきの玄関の音は? この時間なら、もう電車に乗っているはずなのに。
どうしよう、どうしたら……。
朝ご飯の香りでほんの少しほぐれていた心臓が、一気に跳ね上がる。こんなにドキドキしたのは、ジェットコースターに乗ったとき以来かもしれない。
とにかく、冬と向き合う心の準備なんて、まだ何もできていなかった。
「お、おはよう」
緊張のあまり、声が上ずって噛んでしまう。
「うん。さあ、ご飯食べよう。このあと学校でしょ?」
冬は片手で頬杖をつき、少し首をかしげて、微笑みながら促してきた。
以前のわたしなら、その仕草に心の中で「かっこいい!」と百回は叫んでいたに違いない。でも今は、そんな余裕もない。
機械みたいに冬の向かいに腰を下ろして、ナイフとフォークを手に取る。胃がきゅっと痛んで、食欲はすっかり消えていたけれど。
食べているあいだ、冬は何も言わなかった。もちろん、わたしも。
遠くで、新聞をたたむ音がした。続いて、玄関のドアが静かに閉まる気配。
けれどわたしは、目の前のお皿を見つめるのが精一杯で、それが何を意味するのかまで考えられなかった。
しばらくして、先に沈黙を破ったのは、冬だった。
「夏は今、十五歳だよね。七月二十九日の誕生日が来たら、十六歳か。時間が経つのは早いな」
そう言った冬の瞳に、感慨の色がにじむ。小さく息を吐いて、冬は続けた。
「……夏は、昔した約束を覚えてる? 夏が大きくなっても、まだ僕のことを好きでいてくれたら、ずっと一緒にいよう。僕は、そう言ったよね」
覚えているに決まっている。
一度だって、忘れたことはない。
それは、わたしと冬が交わした、一番大切な約束だ。あの日の言葉のひとつひとつを、わたしは今でも鮮明に思い出せる。
けれど、わたしが答えるより早く、冬は続けた。
「でも、あれはずっと昔のことだし、あの頃は二人ともまだ小さかった。だから最近まで、僕はこう思ってたんだ。夏はただ、まだ運命の人に出会っていないだけなんだって。その人と出会ったら、きっと忘れて――」
「違う!」
わたしは、思いきりテーブルを叩いた。
食べかけのお皿が衝撃で小さく鳴って、コーヒーの表面が波打った。
「違う! そうじゃない……!」
感情を、抑えきれなかった。
ずっと胸の奥に埋めてきた言葉が、堰を切ったようにあふれ出す。冬はびくりと肩を震わせて、呆然とわたしを見つめていた。
「どうしていつもそうなの! わたしの気持ちを、子どもだからだって決めつけて……どうして? 冗談だと思ってるから? それとも、お兄ちゃんを好きになるなんて、気持ち悪いと思ってるの?」
頬を、熱いものが伝っていく。
自分が泣いていることに、そこで初めて気づいた。それでも、止まらなかった。
「昔、言ったよね。お姫様は、勇者のごほうびじゃないって。誰を好きになるかは、お姫様が自分で決めていいんだって」
しゃくりあげながら、言葉を重ねる。
「だから、わたしは自分で決めたんだよ! なのに勇者は……お姫様が本当は何を望んでるのか、一度だって、ちゃんと考えてくれなかった!」
言葉を重ねるたびに、涙がこぼれ落ちる。
「お姫様は――わたしは、ずっと、ずっと……この勇者が……冬が、欲しかったのに……!」
涙でぐしゃぐしゃの顔は、きっとみっともないだろう。肩で息をしながら、わたしは必死に気持ちを落ち着けようとした。
ようやく、言えた。
ずっと、ずっと言いたかったこと。精いっぱい、冬に届けられたと思う。
でも、そのとき、はっと思い出した。
お父さんは、まだリビングにいるはずだ。
きっと、今の全部を聞かれてしまった。わたしと冬は、これからどうなるんだろう。お父さんもお母さんも、わたしのことを気持ち悪いと思うかもしれない。
「父さんなら、もう仕事に行ったよ」
まるでわたしの不安を見透かしたように、冬が口を開いた。
「え?」
「僕が頼んで、先に出てもらったんだ」
冬は顔を上げて、まっすぐわたしを見た。
……さっきの玄関の音は、そういうことだったのか。
頭がまるで追いつかない。どうしてお父さんが、わたしを置いて仕事に? じゃあ、わたしはどうやって学校に行けばいいの?
問いかけようとしたところで、冬が先に言った。
「明日から週末だよね。今日を入れたら、三日間ある」
冬はわたしを見つめたまま、続ける。
「ちょっと、出かけないか。この三日間で。学校には今朝、母さんが二人分の欠席の連絡を入れてくれた。だから夏には、僕と一緒に行くって選択肢しかないよ。父さんと母さんも、もう了承してくれてる」
「どういう……意味……?」
泣いたせいで、声が鼻にかかった。
「簡単に言うと、息抜きだよ。夏休みが明けたら、僕の受験も本格的に始まるしね。その前に、ちょっと羽を伸ばそう」
そう言うと、冬は立ち上がって、わたしのお皿を持って流しへ行ってしまった。
その背中を見て、ようやく気づく。
冬は、制服を着ていなかった。
「夏、荷物の準備をしておいで。着替えと、歯ブラシくらいでいいから。あ、制服も着替えてね。動きやすい服に」
急かされて、まだ状況を飲み込めないまま、わたしは言われたとおり部屋へ戻った。
私服に着替えて、着替えと洗面用具を小さなバッグに詰め込む。
準備を終えて階下に降りると、冬はもう家じゅうの電気を消し、窓の鍵を閉めて、玄関で待っていた。あの大きなリュックを背負って、靴まで履いている。
「準備はいい? じゃあ、行こうか」
そう言って、冬が玄関のドアを開ける。
六月のまばゆい陽の光が、わたしを照らした。
こうして、わたしと冬の旅は、あまりにも唐突に幕を開けた。




