弱気な自分に別れを告げる。
風呂と歯磨きを済ませて自分の部屋に戻った僕は、今日の授業の復習に取りかかろうとしていた。
競争の激しい環境でそこそこの成績を保ち続けるには、それ相応の努力が要る。それに何より、進路を決める大学入試が、もうすぐそこまで迫っているのだ。だからこそ、もっと真剣に復習しなければならない。
いつものように机に向かい、数学の問題集を開く。ざっと目を通すと、似た型の問題は、今日、先生が教えてくれたばかりだった。解けるはずだ。そう思ってペンを取り、公式を書き出そうとする。
ペン先が紙に触れる、その寸前。思考が乱れた。
軽く息を整えて、もう一度ペンを走らせようとする。――やっぱり駄目だった。勉強にはまるで集中できない。原因は、夏だ。
このままでは効率が悪すぎる。僕は一旦ペンを置いた。ずっと目を逸らし続けてきた問題と、ちゃんと向き合うために。
それは、夏の気持ちだ。
あの夜から、ちょうど二週間が過ぎていた。
あの夜までの僕は、いつも僕にべったりな夏の態度を、妹が兄に向ける愛情だとばかり思っていた。唐突に甘えてくる仕草も、あの夜に爆発した、いつもとは違う感情も。唇に残った、ほんの一瞬のぬくもりも。僕はずっと、直視してこなかった。
いや、直視する勇気がなかった、と言うほうが正確かもしれない。
僕は、変わらないものが好きだ。それが僕を安心させてくれるから。
家族のために食事を用意して、おいしそうに食べる姿を眺めること。母さんの車の窓から流れていく景色。電車の人混み(沈んだ空気は少し息苦しいけれど)。学校の人間関係。煩雑な勉強……。慣れ親しんだものがすべて「いつも通り」であってこそ、僕は「冬」として生きていける。
……たぶん僕は、怖かったのだ。日常のすべてが変わってしまうことが。天秤の均衡が崩れてしまうことが。
『でも、わたし、お兄ちゃんがいちばん好きだよ?』
『そういう「好き」とは違うんだ。夏にもいつか、好きで好きでたまらなくなる人が現れるよ』
――五歳の夏。
『お兄ちゃん! わたし、やっぱりお兄ちゃんがいちばん好き!』
『夏が大きくなっても、まだ僕のことを好きだったら、そのときは……ずっと一緒にいるよ。だから、それまで待っててね』
『うーん……じゃあ、いいよ……』
――九歳の夏。
『お兄ちゃん、わたし、中学生になるけど、やっぱりいちばん大好きだよ〜! ちゅっ!』
『えへへ、夏は僕のことが大好きなんだね! 僕も夏のことが大好きだよ!』
『ほんと!? じゃあ、お兄ちゃんと結婚してもいい?』
『お兄ちゃんと結婚したいなら、夏は好き嫌いしないで、ピーマンを食べなきゃね!』
――十二歳の夏。
『冬。わたし、もう十五歳なんだよ』
……。
時が流れて、僕も夏も大きくなった。心も体も、少しずつ大人に近づいた。共に育ってきたこの道のりで、僕たちはたくさんの思い出を作った。笑ったことも、悲しかったことも、そして当然、喧嘩をしたことだって数えきれない。
けれど、喧嘩のあとに泣きながら謝り合って、並んでテレビを見た――そんな記憶もきっと、僕たちがもっと仲良くなるための鍵だったのだろう。
変わらないと思っていた日常には、実はいくつもの変化が紛れ込んでいた。それでも、ただひとつ変わらなかったのは、夏が毎日のように僕へ向けてくれた想いだけ。
――そして、僕の変わらない、臆病な言い訳だ。
でも、それでは何も変えられない。そうだろう? 僕も夏も、そのせいで、あの約束の日に囚われたままなのだ。
僕がすべきことは単純だった。逃げるのをやめて、けじめをつけて、夏の気持ちをきちんと見つめること。僕にはもう、夏を「まだ大きくなっていない子ども」として扱う資格なんてないのだから。
だから、行動を起こすことにした。夏と二人きりになれる環境をつくるのだ。
だが、いったいどうすれば……。
学校がある以上、平日は夏とゆっくり話せない。かといって休日は、両親が家にいる。夏もきっと気まずく感じるだろう。
両親には、まだ話していない。というより、知られたくなかった。親にとっては重すぎる話かもしれないし、できることなら、これは僕と夏、二人だけの秘密にしておきたい。
二人きり……。あっ、そうだ!
不意に、小説やアニメでよく見る展開が頭をよぎった。これは案外、いい手かもしれない……! もっとも、実行するには障害も多い。
まずは何より、夏の意思だ。あまりに突飛で唐突な発想だから、いくら夏でも断る可能性は高い。次に、学校の問題。平日に学校を休んで妹を連れ出したりすれば、間違いなくこっぴどく叱られるだろう。
けれど、今の僕に、そこまで気を配っている余裕はなかった。
すぐさまスマホを開いて、計画に必要な情報を調べる。
「あっ……ここならいける! ここも悪くないな……じゃあ次は、ここだ!」
ぶつぶつと独り言を漏らしながら、白紙を一枚取り出して、計画の詳細を書き出していく。続いて必要な費用をざっと計算してみると、決して小さくない額だった。
それでも、払うと決めたのだ。僕は痛みをこらえて、自分で貯めてきた通帳を取り出した。残高が足りることを確かめてから、クローゼットにしまってあった大きなリュックを引っぱり出す。
ふと我に返ると、この計画には、大きな穴が残っていた。夏が嫌だと言えば、計画は完全に水の泡だ。けれど、準備を整えておかなければ、そもそも始めることすらできない。
結局、僕は計画を実行することに決めた。もう一度スマホを手に取って、いくつかの予約と購入を済ませ、必要なものをリュックに詰め込む。それから静かに部屋のドアを開けて、抜き足差し足で、父さんと母さんの部屋の前まで歩いていった。
廊下は、しんと静まり返っていた。夏の部屋の戸の下には、もう明かりがない。
小さく、ノックする。
「ん……小冬? どうしたの?」
ドアを開けたのは母さんだった。目をこすり、いかにも眠そうな顔をしている。奥では、ノックの音で父さんも目を覚ましたようだった。申し訳ない気持ちになる。けれど、これはとても大事なことだ。今すぐ二人に話を通しておかなければならない。
母さんに部屋へ入れてもらうなり、僕は二人の前で膝をついた。二人は、目に見えて驚いている。
「え、ええっ!? 小冬、どうしたの?」
母さんがうろたえて尋ねた。
「何かあったのか」
父さんは母さんよりも落ち着いていたけれど、それでもベッドを離れて僕のそばまで来ると、僕の体を支えて立たせてくれた。
「父さん、母さん、僕……」
考えてきた計画を、二人に打ち明けた。夏の気持ちについては一言も触れなかったけれど、どうか認めてほしい、と頼み込む。
極度の緊張で、心臓が激しく脈打っていた。生まれて初めてだった。父さんと母さんに、これほど強く何かを乞うたのは。
もう一度、深く頭を下げる。この想いが伝わるように。
「冬」
「小冬」
二つの声が不意に降ってきて、僕は慌てて顔を上げた。
父さんと母さんは顔を見合わせた。父さんが目で合図を送り、それを受けて、母さんが口を開く。
「実はね、私たち、ずっと小冬に申し訳なく思っていたの」
思いがけない言葉だった。意味が飲み込めずにいる僕に、母さんは続ける。
「小冬だって、まだ子どもなのに。毎朝私たちの朝ごはんを作ってくれて、家のこともたくさんやってくれて。これじゃあ、お母さんとお父さんのほうが子どもみたいじゃない」
父さんがうなずいた。
「父さんたちは、冬にはずっと感謝してるんだ。いろんな面でな。胸を張って言える。冬は、父さんたちの誇りだ」
歩み寄って、僕の肩をぽんと叩く。
「だがな、父さんたちだって、夏と冬の親なんだ。とっくに気づいていたこともある」
その言葉で、父さんの意図を悟った。そうか、二人とも、僕の目的を知っていたのだ。
「だから、行ってきなさい。ちゃんと向き合っておいで。父さんも母さんも、覚悟はできている。結果がどうなろうと、お前たち二人が父さんたちの宝物であることに変わりはない。それだけは疑いようがないんだ」
そう言い切ると、父さんは真剣な眼差しで僕を見つめた。きっとこの瞬間、父さんの目にも、僕が歩んできた年月が映っているのだろう。
「そうよ〜。泣いて帰ってきても、笑って帰ってきても、この家の扉はいつだって二人のために開いてるからね!」
母さんが笑いながら、僕をぎゅっと抱きしめた。
「……ありがとう」
二人の眼差しに見送られて、僕は部屋を出た。ここの防音はしっかりしているから、今の会話が夏に聞かれる心配はない。
計画は、両親に認めてもらえた。事前の準備もすべて整った。胸の奥につかえていた大きな石がふっと取れたようで、久しぶりに肩の力が抜けるのを感じる。
残る最後の難関は、夏だ。難しいのは分かっているけれど、それでも説得してみせる。
再び机に戻り、さっきの数学の問題に目を向けた。今度は意外なほど頭が冴えていて、問題はあっさり解ける。その勢いに乗って、今日の授業の復習を一気に終わらせた。
*
朝になった。
僕はスマホが鳴る前にアラームを止めて、リュックを手にリビングへ下りた。そこには父さんと母さんがいて、どうやら二人とも、僕が来るのを待っていたらしい。
「あ、二人とも、そんなに早く起きてたんだ……。すぐ朝ごはん作るね!」
リュックをリビングの隅に置いて、すぐさまキッチンへ向かい、支度に取りかかる。
今朝は、厚切りトーストにコーヒー。目玉焼きとレタス、ベーコンをのせて、少しだけ豪華にした。食卓に運んだときには、父さんと母さんはもう席について、僕を待っていた。
「うん、うまい! 冬はやっぱり料理が上手だな」
朝食を味わいながら褒めてくれる父さんに、僕は気になって尋ねた。
「父さん、今日はどうしてそんなに早起きなの?」
父さんは笑って答える。
「昨夜、あのあと母さんとも少し話し合ってな。お前たちのために、何かしてやりたかったんだ」
コーヒーをひと口飲んで、続けた。
「でも、父さんたちにできることなんて、ないと分かった。できるのは、お前たちを見守ることと……あとは、これだけだ」
そこで母さんが、分厚い封筒を僕の手に押しつけた。
「これは私たちの気持ち。たぶん足りると思うわ! 二人とも、いちばんぴったりの答えが見つかりますように。気をつけて行ってらっしゃい、私の宝物」
「……受け取れないよ。これは、僕が自分で決めたことだから」
僕は昔から、人にお金を借りるのが苦手だった。返そうとした封筒を、母さんの手がぎゅっと押し戻す。
「借りるんじゃないの。親からの『行ってらっしゃい』なの。……受け取ってくれなきゃ、お母さん、泣いちゃうからね?」
ずるい脅し文句だ。僕は観念して、封筒をポケットにしまった。
「……ありがとう。大事に使うよ」
母さんは満足そうにうなずくと、あっという間に朝食を平らげた。そして僕たちに手を振って、先に仕事へと出かけていった。
「父さんは、ここに残るの?」
朝食を食べ終えたばかりの父さんに、目を向ける。
「ああ。父さんがいなかったら、夏が怪しむだろう? 夏がリビングに来たのを見計らって、こっそり出かけるさ」
父さんの細やかな気遣いに驚きつつ、僕は礼を言った。
ギシ、ギシ。
うちの木の床だけが立てる、あの音。夏が起きたのだ。
「じゃあ、父さんは先にリビングに行ってるぞ。頑張れよ、冬」
そう言うと、父さんは身の回りのものを片づけて、食卓を離れた。僕もその隙に夏の分の朝食をテーブルに並べて、椅子に腰かけ、夏が来るのを待つ。
今の僕は、膝が震えて、歯の根が合わない。緊張で張り詰めているからだ。それでも、夏の前では絶対に悟られるわけにはいかない。
「お父さん、おはよう」
リビングから、夏の声が響く。僕は背筋を伸ばし、姿勢を正した。
夏がキッチンに足を踏み入れた、その瞬間――。
「おはよう、夏」




