旅行、初日
家を出て、駅へ向かう道すがら。
私は頭の中で、なんとか状況を整理しようとしていた。けれど、さっき大泣きした気まずさはまだ抜けきらなくて、隣を歩く冬のほうを見ることができない。
「あのさ。今さら言うのもなんだけど……夏。勝手に学校を休ませて、いきなり連れ出して、悪かったね」
冬が、申し訳なさそうに言った。
「それより、お兄ちゃんの学校って厳しいんでしょ? 急に休んで大丈夫なの?」
泣いたばかりで、鼻声はまだ収まっていない。私は鼻にかかった声のまま、冬に尋ねた。
冬が通っているのは、誰もが知る名門の進学校だ。偏差値は桁外れで、難関大学への合格率の高さを誇りにしている。
そのぶん校風も厳しくて、校則は数えきれないほどあり、全部まとめたら辞書一冊分になるらしい(さすがに大げさだと思うけど)。
中でも有名なのが、朝七時五分までに教室に入っていないと、生徒指導室に呼び出されるという決まりだ。
おまけに冬は高校三年生で、大事な大学受験を控えている。学校の締めつけは、いっそう厳しくなっているはずだった。
冬が毎朝、私より早く家を出ているのも、そのためだ。学校は市街地のど真ん中にあるから、私と同じ時間の電車に乗ったら、間違いなく遅刻してしまう。
「とはいえ、校則なんてお構いなしに、毎日遅刻してくる猛者もいるんだけどね」
以前、冬は苦笑まじりにそう話していた。
「うーん……大丈夫って言ったら、嘘になるかな。登校したら、たぶん担任に『受験生の自覚が足りない』とか何とか言われて、お説教だと思う。まあ、僕の成績は、学校の中じゃそんなに目立つほうでもないし」
冬は、照れくさそうに笑った。
いやいや、それ十分すごいでしょ。あんな秀才だらけの学校で、真ん中をキープしてるなんて……。
「それにさ」
内心感心している私をよそに、冬は続けた。
「いい機会だと思うんだ。言いたいこと、全部ちゃんと話せるでしょ。……僕たち、お互いにさ」
私は一瞬きょとんとして、それから、小さくうなずいた。
「……うん、そうだね。ちゃんと話そう」
冬は、それ以上何も言わなかった。私たちのあいだに、また静けさが落ちる。
駅に着くまで、二人とも一言も話さなかった。けれど不思議と気まずくはなくて、この沈黙は、嫌いじゃなかった。
駅に着いたのは、八時二十五分。
ちょうど通勤・通学ラッシュのピークらしく、平日の朝のホームは人でごった返していた。
いつもの私は、もっと早い時間の電車に乗っている。こんなに混み合ったホームを見るのは、初めてだった。
冬は、向かいのホームに並ぶ人の列を、どこか眩しそうに眺めていた。都心へ向かう、満員の上り電車。私たちがこれから乗るのは、その反対――がらがらの、下り電車だ。
「みんな、これから学校や仕事なんだよね。……僕たちだけ、逆走してるみたいだ」
「ほんとだね。なんか、ちょっと悪いことしてる気分」
そう答えたときには、鼻声はもう消えていて、いつもの調子に戻っていた。
「ほら、夏の分」
冬が、切符を一枚差し出す。
「お兄ちゃん、ずいぶん用意がいいんだね。もし私が行かないって言って、どうしても学校に行くって言い張ったら、どうしてたの?」
差し出された切符を見つめながら、私は尋ねた。
「そのときは、仕方ないよ。僕が勝手に決めたことだし。夏には、断る権利があるからね」
冬は、笑って答えた。
もちろん、私が断るはずなんてないのだけれど。
――だって私は、冬のことが好きなんだから。
血の繋がらない兄を、好きになった。
そのことで悩んだ夜は、数えきれない。それでも、この気持ちだけは、どうしても消せなかった。
切符を受け取ろうと手を伸ばすと、指先が、冬の手に触れた。
いつもの私なら、こんなの何でもないと思うはずだ。それどころか、どさくさに紛れて、こっそり指を絡めていたかもしれない。
けれど今日の私は、超がつくほどの臆病者だった。冬の指のぬくもりが伝わった瞬間、慌てて手を引っ込めてしまう。
切符だけが、するりと手のひらに収まった。
顔がまた、勝手に熱くなっていく。
冬は慌てふためく私を見て、ふっと小さく笑っただけで、何も言わなかった。
切符に目を落とす。
印字された行き先は、行ったことのない駅の名前だった。けれど、どこかで見た覚えがある。SNSで、誰かが写真つきで紹介していたような……。どんな場所だったのかは、もう思い出せないけれど。
「お兄ちゃん、いったいどこに行くの?」
「ふふん、着いてからのお楽しみ。乗り換えは三回あるから、けっこう遠いよ。あ、こっそりスマホで調べるのも禁止だからね」
冬はもったいぶった口調で、ふふっと笑った。
……かわいい。
「今、教えてくれてもいいじゃん」
もったいぶられるほど、行き先がますます気になってくる。
「教えたら、面白くないでしょ」
冬は、そう返した。
うう、余計に気になる……。
そうやって言い合っているうちに、私と冬のあいだの空気は、少しずつ以前の調子に戻っていった。
突然の旅行も、案外いい思いつきだったのかもしれない。――そんなことを考えていたとき、電車がホームに滑り込んできた。
乗り込むと、冬に促されて、私は窓側の席に座った。冬は通路側だ。
電車がゆっくりとホームを離れ、速度が上がるにつれて、窓の外の景色はどんどん後ろへ流れていく。
私は何気なく外を眺めているふりをして、窓ガラスにうっすら映る冬の横顔を、盗み見た。
ずっと見つめてきた。ずっと好きだった、その横顔を。
今日はまだ始まったばかりなのに、とても長い夢を見ていたような気がする。何もかもが、現実離れしていて。
ぼんやりと、窓ガラスの中の冬を眺めていた、そのとき――。
「夏」
いきなり名前を呼ばれた。
「ひゃあっ!?」
びっくりして、変な声が出てしまう。
「夏、お腹すいてない? 家で朝ご飯、ろくに食べてなかったでしょ。軽くつまめるものを用意してきたんだ」
そう言って、冬はリュックから保存容器を取り出した。中には、手作りのおにぎりが四つ入っている。
図星だった。
家では気持ちが高ぶりすぎて、食欲がまったくわかなかった。せっかく冬が作ってくれた朝ご飯も、ほとんど喉を通らなかったのだ。気持ちが落ち着いた今になって、ようやくお腹がすいてきた。
私はおにぎりを一つ手に取った。
ひと口かじると、梅干しだった。表面にはうっすら塩が振ってあって、それが食欲をいっそうそそる。あっという間に一つ目を平らげて、二つ目に手を伸ばした。
こちらは、甘辛い肉そぼろ。味はもちろん文句なしで、お腹がちょうどよく満たされていく。
「お兄ちゃんも食べなよ」
残った二つのうち一つを押しつけると、冬は少し困ったように笑って、素直にかじった。
「ごちそうさま〜」
満足して、お腹をぽんぽんと軽く叩く。
「着くまでまだ時間があるから、夏は少し休んでていいよ」
冬にそう言われて、私は少し眠ることにした。
自分でも驚くほど自然に、いつものように、冬の肩へ頭を預ける。
冬の肩は、少し体温が高くて、あたたかい。電車の規則正しい揺れも心地よくて、私はそのまま、すうっと眠りに落ちていった。
*
「夏、着いたよ。乗り換えだよ」
冬に優しく揺り起こされて、私はようやく夢から覚めた。
ぼんやりした頭のまま、窓の外に目をやる。さっきまで並んでいた高層ビルは、いつの間にかひとつ残らず消えていた。代わりに、深い緑の山々が、どこまでも連なっている。
寝ぐせがついていないか、慌てて手で押さえてから、荷物をまとめる。五分ほどして、電車がホームに滑り込んだ。
「次の電車、もうすぐ来るみたいだ。急がないとね」
冬はスマホの画面に目を落としながら、独り言のようにつぶやいた。ホームに降りるなり、足早に歩き出す。
私は小走りになって、その背中を追いかけた。
――ずっと追いかけてきた、その背中を。




