託された想い
なんとか電車に乗り継いで、二度目の乗り換えのために降りたときには、もう午後一時三十五分になっていた。
ドアが開いた瞬間、山ならではの空気が、どっと流れ込んできた。
冬と一緒に電車を降りて、私はうーんと大きく伸びをする。
そよ風が、しっとりした草木の匂いを運んでくる。朝のホームの、息苦しい人混みの匂いとはまるで別物だった。無意識に深呼吸をしてみると、胸の奥までひんやりと澄んでいくようで、全身が浄化されていく気がした。
駅の中をぐるりと見回す。人はあまり多くなくて、ほとんどが旅行客みたいだった。みんな、私たちと同じように荷物を持っている。
冬は両腕を少しだけ広げて、目を細めていた。自然を抱きしめているみたいだ。
「これがフィトンチッド、ってやつか……。なんか、肺が洗われるね」
「ほんと、気持ちいいね!」
そう答えてから、ふと不安になった。
「でも、のんびりしてて大丈夫かな? 次の電車、乗り遅れたりしない?」
さっき乗り遅れそうになったばかりで、私はまだちょっとトラウマだった。
「次の電車までは、まだ少し時間があるよ。先にこのへんでご飯にしようか。このあと、けっこう体力を使いそうだしね」
冬にそう言われて、私はようやく、またお腹が空いてきていることに気づいた。
冬は、おにぎりの量が多くなりすぎないように、ちゃんと計算してくれていたらしい。おかげでお昼になっても、お腹が重たいということはない。
そういう優しさも、私が冬のことを心の底から好きな理由のひとつなんだと思う。
「うん、いいね。お兄ちゃんは何が食べたい?」
初めて来る場所だから、どんな名物があるのか、私にはさっぱり分からない。でも、旅の計画を立ててくれた冬なら、きっと知っているはずだ。
「うーん……せっかく知らない場所に来たんだし、普段あんまり食べないものを食べてみるのはどう?」
冬の提案に、私は二つ返事で賛成した。
私たちは、駅前の石畳の道をのんびり歩いていった。
道の両側には小さなお店がずらりと並んでいて、軒先には淡い黄色の提灯が下がっている。真っ昼間だから明かりはついていないけれど、それでも、ぼんやり光っているような存在感があった。
あたりには、少しずつ観光客が増えてきている。ここは、ちょっと名の知れた観光地なのかもしれない。
ふいに、いろんな匂いが鼻先をくすぐった。
炭火の香ばしい匂い。蒸籠を開けたときの甘い湯気。それに、ほんのりバターのような香りまで。風に乗って、次々に漂ってくる。一歩進むごとに空気の匂いが変わって、食欲がどんどん刺激されていった。
「うわぁ……いっぱいある……!」
思わず声が出て、視線があっちのお店、こっちのお店へと忙しく飛び回る。
「ふふ、気に入ってくれたみたいでよかった。でも、歩くときはちゃんと前見てね」
隣を歩く冬は笑いながら、肩からずり落ちた私のバッグの紐を、そっと引き上げてくれた。
「ゆっくり見ていいよ。次の電車まで、まだ余裕はあるから」
冬の指先が、ふっと肩をかすめる。
ほんの少し触れただけなのに、私の心臓はどきっと跳ねた。赤くなった顔に気づかれたくなくて、慌てて別のお店へ視線をそらす。
さっきまで、あんなに自然に冬の肩にもたれて眠っていたくせに。
ずっと一緒に暮らしてきたのに、どうしてこんな小さなことで慌てちゃうんだろう……。
少し歩いたところで、道端の小さな屋台が目に留まった。
屋台の前には炭火のコンロが据えてあって、串に刺した鮎が一本ずつ、きれいに並べて焼かれている。
身には塩がふってあり、皮はこんがりと黄金色。表面には、うっすら脂がにじんでいた。仕上げに、看板に大きく書かれた「秘伝のたれ」をさっと塗れば完成らしい。
正直、その「秘伝のたれ」がどんな味なのか、気になって仕方がなかった。
「これ……おいしそう」
鮎の列をじっと見つめて、思わずごくりと唾をのみ込む。
けれど、すぐに冬のことを思い出した。冬は海鮮アレルギーで、お医者さんからは「念のため、川魚も避けておきなさい」と言われている。私だけ食べるのは悪い気がして、諦めることにした。
「これ、食べたいの? 僕は食べられないけど、夏は大丈夫でしょ。ほら、行こう」
冬には、私の考えなんてお見通しだったみたいだ。私がはっとするより先に、ひょいと屋台の前まで連れていくと、鮎の串焼きを一本買ってくれた。もちろん、食べるのは全部私だ。
ただ、鮎は想像していたよりずっと大きくて、どこから食べればいいのか分からない。
困っている私に、冬が屋台の脇の小さな貼り紙を指さした。
「背中からかじるのがおすすめなんだって。小骨はやわらかいから、そのまま食べられるって書いてあるよ」
「そ、そうなの?」
私は言われたとおり、背中からひと口かじってみた。
皮はぱりっとして、ちょうどいい塩加減。それなのに中の身は意外なほどやわらかくて、あっさりした、ほのかに甘い香りが口の中でゆっくりほどけていく。
生臭さなんて、これっぽっちもなかった。きっとこれが、ご主人自慢の「秘伝のたれ」の力なんだろう。さすが、「秘伝」を名乗るだけのことはある。
「……おいしい!」
思わず目を見開いて、手の中の鮎を見つめた。
「それならよかった」
冬は私を見て、くすっと笑う。
「前から思ってたんだけどさ。夏って、おいしいものを食べてるとき、すごく幸せそうな顔するよね」
「えっ、どんな顔、それ?」
口ではそう言いながら、空いているほうの手で、つい自分のほっぺたを触ってしまう。
口の端が、ゆるんで上がっている気がする。
それが冬の目に「幸せそうな顔」と映っているのなら、今の私は、きっと世界でいちばん幸せな女の子だ。
だって、冬と一緒にいる時間は、いつだって幸せなんだから。
鮎を食べ終えて、私たちはもう少し先へ歩いた。
小さな路地の角で、あまり目立たないお店を見つけた。
かなりレトロで、少し古びた建物。入り口には色あせた木の札が掛かっていて、筆で豪快に「手打ちそば」と書かれている。ガラス戸の向こうに見える木のテーブルには、地元の人らしいおじいさんやおばあさんばかりが座っていた。
「旅行のときはね、地元の人が通うお店なら、まず外れないんだって」
冬はやけに通ぶった口調でそう言いながら、引き戸に手をかけた。
「ここにしようか。夏はどう?」
「うん! いいと思う!」
戸を開けると、小さな鈴が、ちりんと澄んだ音を立てた。
店の中はとても静かだった。聞こえてくるのは、古い扇風機がゆっくり首を振る音と、厨房から規則正しく響く、麺を切るトントンという音だけ。
お店のおばあさんが、にこにこしながら窓際の席へ案内してくれる。
そのやわらかな雰囲気に、駅の地下街のラーメン屋さん――花巻のおばあちゃんを思い出した。厨房で麺を切っているおじいさんも、どこか花巻のおじいちゃんに似ている気がする。
窓の外には、遠くの山がよく見えた。電車の中から眺めたときより、ずっとくっきりしている。山頂には薄い白い霧がたなびいていて、まるで水でにじませた絵のようだった。
注文の前に、冬がおばあさんにそっと尋ねた。
「すみません、お出汁にお魚は使っていますか? 海鮮のアレルギーがあって」
「あらあら、うちは昆布と干し椎茸だけですよ。山のお店ですからねぇ」
おばあさんは、にこにこと答えてくれた。冬はほっとした顔で、ぺこりと頭を下げる。
私たちは、二人とも山菜そばを注文した。冬は野菜の天ぷらも一皿頼んで、一緒に分けて食べようと言ってくれる。
料理を待つあいだ、私は頬杖をついて、窓の外の景色を眺めていた。冬はその間に、セルフサービスの麦茶を二杯と、お箸を取ってきてくれる。
こういうさりげない気遣いを、冬はいつも驚くほど自然にこなしてしまう。
自然すぎて、その優しさが私をこんなにもときめかせているなんて、きっと考えたこともないんだろう。
しばらくして、料理が運ばれてきた。
おそばからは、ほんのり湯気が立ちのぼって、やさしい香りがふわりと広がる。上には、名前も分からない山菜が何種類ものっていて、鮮やかな緑が目に爽やかだった。
横の天ぷらは、衣が薄くてさくさく。かぼちゃ、なす、ししとうが、彩りよく盛られている。
まずは、おつゆをひと口。
思ったとおり、やさしい甘みが口に広がった。昆布と干し椎茸の香りに、山ならではの、青草みたいな香りがほのかに混じっている。
「どう?」
冬が、期待のこもった目で私を見ている。
街を歩きはじめたときから、冬はずっと私の顔色をうかがっていた。きっと、自分が立てた旅の計画に、私ががっかりしないか心配なんだと思う。
そんなこと、全然気にしなくていいのに。
「うん、すっごくおいしいよ!」
私は正直に答えた。
冬は笑ってうなずくと、自分のおそばをひと口すすった。
「ほんとだ、おいしい……! 外れじゃなくてよかった」
そう言ったきり、冬は夢中でおそばを食べはじめる。
私は、そんな冬を見つめていた。
窓から差し込む陽の光が冬のまつ毛にかかって、金色に縁取っている。
きれいだな、と思う。
この人が、私がずっと見つめてきた、大切な人なんだ。
食事を終えると、冬は少し弾んだ足取りでおじいさんのところへ行って、おそばのつゆのコツを教えてほしいと頼みはじめた。おじいさんも嬉しそうに、自分の料理の話をしてくれている。
その間、私はおばあさんから、おじいさんとのなれそめを聞かせてもらっていた。「高嶺の花」と呼ばれていたおばあさんを、おじいさんがどうやって口説き落としたのか。
話の途中でおばあさんがくすくす笑い出すと、こっそり聞き耳を立てていたおじいさんが、ちょっと顔を赤くする。
二人とも、本当に幸せそうだった。
やがて私たちは二人にお礼を言って、お店を出ようとした。
そのとき、おばあさんが私だけを、こっそり呼び止めた。
「お嬢ちゃん、あの坊やと恋人同士なのかい? お似合いだねぇ!」
おばあさんは、春鈴がよくやるような、野次馬根性まるだしのにやにや笑いを浮かべていた。
「ええっ!? ち、違いますよぉ、おばあさん……!」
顔がぼっと熱くなって、慌てて否定する。
でも、心の中ではものすごく舞い上がっていた。だって、私と冬が恋人に見えたんだから。
「あら、違うのかい? でも、あんたのその目は……恋する乙女の目をしてたけどねぇ」
おばあさんは、不思議そうに首をかしげる。
「……片思いなんです。私、ずっと前から、あの人のことが好きで」
私がそう答えると、おばあさんは「きゃあっ!」と、少女みたいな黄色い悲鳴をあげた。
それから落ち着きを取り戻すと、厨房に向かって、おじいさんを呼んだ。
「あんた、あれを出しておくれ。ずっと取っておいた、『あれ』だよ」
「『あれ』?」
出てきたおじいさんは、首をかしげた。
「もう、あれだよ! あんたが昔、愛の証だって言ってあたしにくれた、ペアのガラスの小鳥じゃないか!」
おばあさんは呆れたように目をぐるりと回すと、エプロンのポケットから、首にピンク色のマフラーを巻いたガラスの小鳥を取り出した。
「おお、あれのことか!」
おじいさんも声をあげて、自分のポケットから、青いマフラーを巻いたガラスの小鳥を取り出す。
二人とも、ずっと肌身離さず持ち歩いていたらしい。
二人は、その二羽の小鳥を、私の手にぎゅっと握らせた。
おばあさんは、真剣な眼差しで私を見つめる。
「何があっても、あんたの恋が実ってほしいと思ってるんだよ」
おばあさんの手は、あたたかくて、少しだけ震えていた。
「あんたからはね、すごく強い運命の糸みたいなものを感じるんだ。それがこの小鳥たちを、あんたたちに渡しなさいって、あたしを導いてくれたんだと思うよ」
おじいさんが、隣でうんうんとうなずいている。
「あたしたちはもう年寄りだけど、あんたたちは違う。これから先の未来を、いくらでも切り開いていける。これが、あたしたちにしてあげられる一番の祝福さ。どうか、受け取っておくれ」
手の中のガラスの小鳥と、目の前の幸せそうな二人。それを見比べているうちに、胸の奥から、じんわりと温かいものが込み上げてきた。
私は小鳥たちを大事にハンカチで包んでバッグにしまうと、二人に心からのお礼を伝えた。
お店を出ると、午後の日差しがやわらかく降りそそいでいた。風に混じる草木の匂いにも、少しだけぬくもりが溶けている。
思わず目を細めたくなるくらい、とても心地よかった。




