旅行初日の午後
冬は手元の切符を確認してから、そば屋を出たばかりの私を振り返った。
「次の電車は午後三時五十分で、今ちょうど二時四十分くらいだから、あと一時間ちょっとあるね。のんびり見て回ろうか」
温かくなったお腹をさすると、口の中にはまだおつゆの香りが残っている気がした。
「ほんと? やったぁ!」
これでまた、冬と一緒にぶらぶらできる時間が増えた。そう思うだけで、足取りが自然と軽くなっていく。
私はこっそり、バッグの中でハンカチ越しにガラスの小鳥たちに触れてみた。これは、絶対に冬に渡さなきゃいけない大事なものだ。でも、今はまだその時じゃない。心の中でそう言い聞かせて、バッグを少しだけ強く抱え直した。
私たちは来たときの細い道を通って、大通りに戻った。今度は、冬が見るからににぎやかそうな商店街を選んでくれた。
さっき通った屋台の通りとは、全然雰囲気が違っていた。お昼どきを過ぎたからか、食べ物を売っているお店はほとんどない。お土産屋さんや、手作りの雑貨のお店ばかりだった。木の看板が風にゆらゆら揺れて、店先にはいろんな小物が並んでいる。どのお店も、つい覗いてみたくなる。
「夏! ちょっとこれ見て!」
冬が、一軒のお店の前で足を止めた。
追いついたところで、空気の中にふわっといい香りが漂っているのに気づく。
「あ、ヒノキかな? いい匂い!」
吸い込まれるようにお店に入って、深く息を吸うと、気持ちまで落ち着いてくる。
店内の造りも凝っていた。壁には筆で描かれた小さな落書きがたくさんあって、入口の横の花瓶には、摘みたての草花が挿してある。小さくて可愛らしい小物が、お店のあちこちに並んでいた。
でも、何より特別なのは、このお店自体が木で作られた小さな小屋だってこと。周りがヒノキのいい香りに包まれているのは、そのせいだったんだ。
「夏、こっち向いて」
冬に呼ばれて、私は冬のほうへ顔を向けた。
次の瞬間、冬の手がこちらに伸びてきて、首筋をかすめた。くすぐったくて、私はそっと目を閉じたまま、髪を触られるのに身を任せる。冬の指先はすごく優しくて、痛くしないように気をつけてくれているみたいだった。
すぐ耳元に、冬の息づかいを感じる。身じろぎひとつできないのに、心臓だけは、いつの間にかどきどきと速くなっていた。
かさかさという小さな音が聞こえる。……冬、髪に何か結んでくれてるのかな。
「できた! どう? すごく似合ってると思うよ」
しばらくして、冬はようやく仕上げ終わると、ふうっと大きく息をついた。まるで、難しいミッションをやり遂げたみたいに。
目を開けると、ちょうど冬がお店の鏡を渡してくれた。鏡の中の自分を見ると、耳のそばに、真っ白な房飾りが結ばれている。体を動かすたびに、ちりん、と小さな鈴の音が鳴った。
「かわいい……」
鏡の中の自分を見て、最初に浮かんだのはそれだった。白い房飾りが、私の黒髪によく映えている。電車で寝て乱れていた髪も、冬の器用な手できれいに整えられていて、いつもよりちょっと大人っぽく見えた。
「これ、すごく気に入った! じゃあ、お会計してくるね」
興奮して冬を見ると、冬は首を振って、笑いながら言った。
「いいよ、僕が払うから。僕からのプレゼントってことで」
そう言って、冬は私をレジまで連れていってくれた。会計を済ませて、私たちはお店を出る。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
スマホのインカメラを起動して、冬が仕上げてくれた新しい自分を、うっとり眺めた。
「どういたしまして。本当によく似合ってる。……すごく可愛いよ」
冬が笑って、こちらを見る。
胸の奥が、きゅんとしびれた。
「あとさ……」
何かを思い出したように、冬が口を開く。
「ほら、あれだよ。今は旅行中でさ、誰も僕たちが兄妹だって知らないでしょ? だから……夏がよければ、この旅のあいだは、僕のこと名前で呼んでもいいよ。あ、もちろん! 今まで通りでもいいけどね」
そう言う冬は、視線をわきにそらしていて、耳がほんのり赤い気がした。
正直なところ、頭の中では、いつも「お兄ちゃん」のことを「冬」って呼んでいる。でも、声に出したことはほとんどない。あの夜と、今朝のキッチン――気持ちがあふれて止められなかったときだけだ。落ち着いているときに口にするのは、すごく恥ずかしい……。
「あっ! も、もちろん……あの…………冬」
言いながら、どんどん俯いてしまう。周りから見たら、名前を呼ぶだけでイチャついてる、ちょっとムカつくカップルにしか見えないんだろうな。
「あ、うん……」
冬の声は、思っていたよりずっと上ずっていた。
もしかして、冬も照れてる……?
「あっ、そうだ! そろそろ時間だね。ここからは乗り換えがあと一回だけだから、乗り遅れないようにしないと」
冬は、話をそらすようにスマホの時計に目をやった。
ちょっと名残惜しいけど、私は忘れられない思い出をくれたこの商店街に、心の中でさよならを言った。
*
駅に戻ると、発車まではまだ十数分あった。
山あいのホームには、今も草木のさわやかな香りをのせた風が吹いていて、遠くから、間延びした鳥の声がいくつか聞こえてくる。私と冬は並んで立ったまま、どちらも何も言わなかった。ただ静かに、この沈黙を味わっていた。
それは気まずくなくて、むしろ安心できる沈黙だった。
やがて、電車がホームに入ってくる。
車内はあまり混んでいなくて、私たちはすぐに並びの席を見つけた。私が窓側で、冬はその隣。電車が走り出すと、窓の外の景色がゆっくり後ろへ流れていく。
町の屋根はだんだん小さくなって、代わりに棚田が次々と現れた。谷あいにときどき顔を出す小川が、日の光を受けてきらきら光っている。電車は、私たちをさらに高いところへ連れていこうとしているみたいだった。
「夏、疲れたなら少し寝てていいよ。ホテルに着くまで、まだしばらくかかるから」
冬は振り向かなかったのに、私の視線に気づいていたみたいだった。声はすごく穏やかで、聞いているうちに、まぶたがだんだん重くなってくる。
「……うん」
小さく返事をして、冬の肩にもたれたい気持ちをぐっとこらえる。名前で呼んだばかりで、なんだか照れくさかったのだ。代わりに、窓に頭をもたせかけた。電車の規則的な揺れと、さっきまで歩き回った疲れで、ほどなく眠りに落ちてしまう。
途中、冬に手を引かれて、一度だけ乗り換えをした気がする。けれど半分夢の中で、ほとんど覚えていなかった。
もう一度目を開けたとき、窓の外の空は、やわらかなオレンジ色に染まっていた。
電車がゆっくり減速して、まもなく到着するというアナウンスが流れる。冬が、私の肩を軽く揺すった。
「夏、起きて。着いたよ」
目をこすって、まだ少しぼんやりしたまま、冬と一緒に立ち上がってドアへ向かう。
ドアが開いた瞬間、真っ先に目に飛び込んできたのは、雄大な山の景色と、夕日の名残だった。流れ込んでくる風は、山の下よりずっとひんやりしている。
私たちは、旅の初日の目的地に着いた。




