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新しいはじまり

 家に着いたのは、日が傾きはじめたころだった。


 玄関の扉を開けると、父と母がリビングから出迎えてくれた。とくに母は、駆け寄ってくるなり、僕と夏をまとめてぎゅっと抱きしめた。


「おかえり」


 感極まっている母を見て、父は困ったように苦笑する。それから、僕たちに向き直った。


「道中、大丈夫だったか?」

「うん。忘れられない旅になったよ」


 母に抱きしめられたまま答えると、隣で夏もこくこくとうなずいた。


 母の視線が、僕と夏の胸もとで、ふと止まる。おそろいのガラスの小鳥が、玄関の明かりを受けて小さくきらめいていた。母は何も聞かなかった。ただ、僕たちを抱きしめる腕に、少しだけ力をこめた。


「そうか。それはよかった。……母さんも、そのへんにしておきなさい。二人とも疲れてるんだから。まずは風呂に入らせてあげよう」


 父が、母を僕たちからそっと引きはがす。


「うぅ……はぁい……」


 それぞれお風呂を済ませて、僕は自分の部屋に戻った。

 ――戻った、はずだった。


「……ん? いやいやいや、待って。なんで夏が僕の部屋にいるの?」


 当たり前のような顔で僕のベッドに腰かけている夏に、至極まっとうな疑問をぶつける。


「ん? 変なこと聞くんだね。冬はもう私のものでしょ? だったら、冬の部屋は私の部屋だよ」


 夏は自信たっぷりに言い切った。腕には、射的で取ったあの猫のぬいぐるみ。しかも、自分の部屋から枕まで持ってきている。どう見ても、計画的犯行だ。


「それと、これからは毎晩、冬と一緒に寝ることに決めたから。よろしくね」


 そういうことを勝手に決めないでほしい。


「僕、受験生なんだけど。これからもっと頑張らなきゃいけないんだよ」


 そう、何だかんだ言っても、目前に迫った受験は、僕にとって大きなプレッシャーだった。


「邪魔しないから、安心して」


 ……本当に?

 夏の性格からして、おとなしく自分のことだけしているとは、とても思えない。でも、今は信じるしかないか。


 旅の疲れは残っているけれど、勘を取り戻すために、少しだけ勉強しておこう。


 机に向かって、数学の問題集を開く。


「……あれ?」


 不思議だった。三日も教科書に触れていなかったのに、公式がすらすらと浮かんでくる。気づけば、何問も続けて解けていた。

 あの二週間、どうやっても進まなかったのが嘘みたいだ。この旅で手に入れたものは、思っていたよりずっと大きかったらしい。


 部屋は、しんと静かだった。聞こえるのは、シャーペンが紙の上を走るさらさらという音と、時計の針が規則正しく時を刻む音だけ。


 何問か解いたところで、さすがに眠気が限界になった。きりもいいし、今日はここまでにしよう。明日からは、倍がんばればいい。


 それにしても、夏はさっきから、本当に一言もしゃべっていない。

 聞き分けのいい子なのは知っているけれど、まさかここまで静かだとは。


 振り返ると、夏はとっくにベッドの上で、すうすうと寝息を立てていた。

 足音を忍ばせてベッドのそばまで行き、その寝顔を見下ろす。


 猫のぬいぐるみを腕に抱えて、枕もとには、ほどいた白い房飾り。胸もとのガラスの小鳥が、寝息に合わせて、小さく上下している。


 これが、いわゆる「惚れた欲目」というやつなんだろうか。

 今夜の夏は、前よりずっと可愛くて、ずっと大人びて見えた。少し前の僕なら、こんなふうに思うことなんて、絶対になかったのに。


 仕方ない。今夜は床で寝よう。たしか押し入れの上の段に、予備の布団があったはずだ。


 そう思って、背を向けかけた、そのとき――


「んっ」


 夏の手が、僕のシャツの裾をつかんだ。そのまま、ぐいっとベッドへ引き込まれる。


 お風呂上がりのボディソープの香りが、ふわりと僕を包んだ。同じものを使っているはずなのに、夏の匂いは、やっぱりどこか違う。

 夏は両腕で、僕にぎゅっとしがみついてきた。まるで、木の幹に抱きつくコアラみたいに。押しのけられた猫のぬいぐるみが、どこか恨めしそうな顔で、ベッドの隅へ転がっていった。


 ……僕って、こんなに照れ屋だったっけ。


 耳の先が、勝手に熱くなっていく。僕もそっと夏を抱きしめ返して、腕の中から伝わってくる体温を感じていた。


 そういえば、電気を消していない。

 起き上がろうとした瞬間、


「……やだ」


 夏の腕に、ぎゅっと力がこもった。


 ふと、旅館の朝を思い出す。目を覚まして僕がいないと気づいたとき、部屋中を必死に探していた夏の姿を。


 ……まあ、いいか。電気をつけたまま寝るのも、たまには新鮮かもしれない。


 僕は起き上がるのをあきらめて、夏の首もとに顔をうずめた。

 そして、そのまま眠りに落ちていった。

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