魔女のおまじない
「なあ、小冬。なんで急に休んだんだよ? 担任、めちゃくちゃ怒ってたぞ。あとで絶対こってり絞られるからな」
秋人が僕の机にべったり突っ伏したまま、顔だけ上げてこっちを見た。
手には英単語帳。どうやらこいつも、ようやく本気で勉強する気になったらしい。
「だろうね。でも、いいんだ。すごく割のいい取引だったから」
僕も化学の模試を開いて、ペンを走らせはじめる。
「お? どういう意味だよ?」
秋人の視線が、単語帳から僕の顔へ移る。でも、僕は黙っていることにした。何と言っても、軽々しく人に話せることじゃない。
「な、なにぃ……! 親友の俺に隠し事だと!? 小冬、お前のこと見損なったぜ……」
僕が黙秘権を行使するのを見て、こいつは勝手にひとり芝居を始めた。まったく相手にされないので、さすがにつまらなくなったのか、おとなしく自分の席に戻っていく。
「はぁ、言わないならいいけどさ。でも次に休むときは、先にひと言くれよな。心配するだろ」
そう言うと、秋人はまた単語帳に目を戻した。
僕は、秋人のこういうところが好きだ。人の踏み込まれたくない一線がどこにあるのかちゃんと分かっていて、絶対にそこを越えてこない。こいつが人気者なのは、きっとそういうところなんだろう。
案の定、一時間目が終わると、僕は担任に呼び出されて説教された。「受験生としての自覚」だの「三年生のこの時期に」だの、似たような言葉が何度も繰り返されて、僕はうつむいたまま、ひたすら謝るしかなかった。
それでも、後悔はひとつもなかった。
ほかの授業は、いつもどおりだった。あっという間に放課後になって、僕は早めに家へ帰ることにした。この三日間の遅れを、取り戻さないといけない。
*
その日から、僕の毎日は、参考書とひとつに結びついた。
朝はいつもどおり五時半に起きて、夏の声のアラームを聞きながら、家族全員の朝ご飯を作る。昼は授業、夜は勉強。
ただひとつ変わったのは、毎晩、夏が枕とあの猫のぬいぐるみを抱えて、当たり前のように僕の部屋に現れるようになったことだ。
最初は邪魔されるんじゃないかと心配していたけれど、夏は本当に約束を守った。僕が勉強しているあいだ、夏はベッドに座って、静かに自分のノートを書いている。そのうち、ぬいぐるみを抱えたまま眠ってしまう。
とはいえ、ベッドの上では、さすがに勉強がはかどらない。ほどなくして、夏は自分の机まで僕の部屋に運び込んできた。おかげで、部屋はちょっと手狭になった。
ときどき、夏は僕の机の隅に、そっとホットミルクを置いていく。そして何事もなかったように、自分の机に戻っていく。
窓の外の季節は、そうやって少しずつ姿を変えていった。
蝉の声が消えて、紅葉が色づいて。それから、初雪が降った。
*
そして、試験当日がやってきた。
父と母はわざわざ午前休を取って、試験会場まで車で送ってくれることになった。
夏もついて来たいと駄々をこねたけれど、僕は断った。夏には、ちゃんと授業を受けてほしかったから。
「……分かった。じゃあ、これ貸してあげる」
出かける前、夏が玄関で僕を呼び止めた。手を伸ばして、僕の胸もとの青いマフラーのガラスの小鳥を、セーターの襟もとから引っぱり出し、そっと整える。
夏自身の胸もとでも、ピンクのマフラーの小鳥がきらきらと光っていた。
「私の宝物が、今日はずっと冬を応援してるからね。だから、冬もがんばって」
「うん。行ってきます」
試験は、思っていたよりずっと順調だった。
最後の科目を書き終えて、ペン先が止まったとき。僕は無意識に、セーター越しに胸もとの小鳥を握りしめていた。
この三年間の努力は、ちゃんと報われたんだと思う。
*
試験が終わって数日経った夕方、僕は夏と並んで家路を歩いていた。
子どものころから、ずっと二人で歩いてきた道。
あの夏の夜、夏が背伸びをした、あの道だ。
「夏はさ、将来やりたいこととか、考えたことある?」
ふと、僕は尋ねた。
試験を終えた今、僕もそろそろ、自分の進路をちゃんと考えなきゃいけない。母に会社へ推薦してあげると言われた話も、まだ返事をしていなかった。でも、それも悪くないのかもしれない。
「うーん……将来?」
夏は少し考えてから、口を開いた。
「私、作家になりたい」
「作家?」
「うん、作家。私と冬の、この思い出を書き残したいの」
夏はまっすぐ前を見ていた。声は落ち着いていて、少しの迷いもなかった。
「……そっか」
僕は心の中で、そっと笑った。僕たちの思い出を書き残したい――いかにも、夏らしい夢だ。
「冬も、一緒に書こうよ」
夏がこちらを振り向いて、僕に手を差し出した。
「……うん。一緒に書こう」
今度は、少しも迷わなかった。その冷たい小さな手を握って、僕のコートのポケットに、一緒にしまい込んだ。
*
合格発表の日は、ちょうど休日だった。だから、家族みんなで会場までついてきてくれた。
掲示板の前は、人でごった返していた。抱き合って泣いている人もいれば、黙って背を向けて去っていく人もいる。
僕は息を止めて、びっしりと並んだ数字の中から、自分の番号を探した――
「……」
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。落ち着け、と何度も自分に言い聞かせたけれど無駄だった。足まで、ずっと震えている。
「あ、あった!」
最初に声をあげたのは、夏だった。
次の瞬間、母が悲鳴みたいな声をあげて抱きついてきて、父が僕の背中を力いっぱい叩いた。三人にもみくちゃにされて、僕はようやく我に返った。
こうして、僕は大学に合格した。
*
家を出る前の晩。夏はいつものように枕を抱えて、僕の部屋にやってきた。
でも、今夜の部屋は、いつもと少し違っていた。本棚は半分空っぽで、床には荷造りを終えた段ボール箱が積み上がっている。ぎゅうぎゅうに並んだ二つの机も、物が残っているのは夏のほうだけ。ノートと参考書が、まだ積まれていた。
「……がらんとしてる」
夏が部屋の入り口に立ったまま、小さくつぶやいた。
「明日には引っ越すからね」
僕は最後の数冊を、スーツケースに詰め込んだ。夏は何も言わずに歩いてきて、僕の隣にしゃがみ込むと、シャツを一枚ずつたたみはじめた。
「冬、向こうに行ったら、朝ご飯は自分で作らなきゃだめだよ」
「僕、ずっと自分で作ってるけど」
「……そうだったね」
夏はうつむいて、手の動きがゆっくりになった。
「じゃあ……これからの朝ご飯は、誰が作ってくれるの?」
僕は、一瞬きょとんとした。そうか、夏が気にしていたのは、そこだったのか。
「よく作るメニューは、レシピにまとめておいたよ。保母さんレベルの親切設計だから、ママでもきっと作れると思う」
「レシピなんていらない。冬が作ったのがいいの」
夏はたたんだシャツを胸に抱えたまま、スーツケースに入れようとしなかった。
僕は手を伸ばして、夏の頭をくしゃりと撫でた。
「休みに帰ってきたら、毎日作ってあげる。パンケーキでも、サンドイッチでも、夏が食べたいもの、なんでも」
「……」
夏はシャツを抱える腕の力を、少しだけゆるめた。それでもまだ、手を離そうとはしない。
「いい子だから、ね?」
僕は小指を差し出した。
「約束する。ちゃんと、しょっちゅう帰ってくるから」
「……うん」
夏も、小指を差し出した。
小指と小指が、絡まる。ずっとずっと昔、あの公園で、そうしたみたいに。
でも、あのときとひとつだけ違うのは、今の僕が、自分が何を約束しているのか、ちゃんと分かっていることだ。
その夜、夏はいつもよりずっと強く、僕にしがみついていた。
僕は夏を起こさないように、暗闇の中で、ただ静かにその寝息を聞いていた。この音を、ちゃんと覚えておけるように。
*
大学は遠くにあるから、父と母がアパートを借りてくれた。
家を出る日、僕はスーツケースを引いて玄関に立った。
母は、案の定泣きだした。父は「男は一度、外に出てみるのもいいもんだ」と繰り返していたけれど、その目尻も、少し赤くなっていた。
「それじゃあ、行ってくるね。休みになったら、しょっちゅう帰ってくるから」
玄関の扉を押し開けようとしたとき、夏が近づいてきた。
「夏」
「冬。これからの二年間、私、もっともっと勉強して、冬の大学に合格してみせるから!」
夏は、これ以上ないくらい真剣な目で僕を見つめていた。
夏ならきっと受かる。分かっている。もともと、夏は成績がいいんだから。
「だから――」
夏はつま先立ちになって、僕の耳もとで、そっとささやいた。
まるで魔女が、呪文をかけるみたいに。
「よそ見、しちゃだめだからね」




