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あなたと一緒なら、それだけで。

「ん……冬……」


 隣で眠る夏は、もうすっかり寝息を立てていた。寝言にまで僕の名前が出てくるのが、なんだかくすぐったい。


 つないだ手は離れないままで、指先から伝わる温もりが、消えそうで消えない小さな火みたいだった。


 天井を見つめる。胸の奥が、何かでいっぱいに満たされている。幸せって、もっと賑やかでドラマチックなものだと思っていた。実際に触れてみると、息をするのもためらうくらい、静かなものらしい。


 すべての転機は、夏のあのキスだったんだと思う。


 あれがなかったら、僕は夏の気持ちと向き合う勇気なんて出せなかったし、この旅行もなかった。「お兄ちゃん」という安全な立場に隠れて、何も気づかないふりをして、一日、また一日と先延ばしにしていたはずだ。


 全部が噛み合って、ここまで来た。歯車がひとつ欠けていたら、今はない。普段は分析ばかりしている僕なのに、いつから揺らいでいたのかだけは、どう計算しても答えが出なかった。だから、素直に感謝するしかない。目の前で眠っている、この女の子に。


 ……なんて、口に出したら、夏は鼻を高くして言うんだろう。


「当然でしょ! 私、いちばん大事な歯車だもん!」


 想像できてしまうのが、ちょっと悔しい。でも、可愛い。


 夏への気持ちだって、振り返ってみれば、手がかりはいくらでも転がっていた。毎朝きっかりに鳴るスマホのアラーム。ときどき顔を出す、自分でも認めたくなかった嫉妬。見ないふりをしてきた小さなサインは、きっとずっと前から、僕に教えてくれていたんだ。僕も、とっくに夏のことが好きだったんだって。


 そのページをめくるのに、時間がかかりすぎただけで。


 空いている左手で頭を撫でると、夏は気持ちよさそうに声を漏らして、こちらへ擦り寄ってきた。毛並みを整えられた猫みたいに。


 新しい一歩を踏み出した以上、目の前の試験にも、ちゃんと集中しないと。この三日間で遅れた分は、きっちり取り戻そう。「恋にうつつを抜かして落ちた」なんて言葉を、誰にも言わせるわけにはいかないから。とくに、夏の耳には入れたくない。


 そう思いながら目を閉じると、意識がゆっくりと沈んでいった。


*


 久しぶりに、夢を見た。


 見慣れた道だった。夏と二人で、帰り道にいつも歩いていた通りだ。夕焼けがアスファルトをオレンジ色に染めて、電柱の影がやけに長く伸びている。


 そこに、呆然と立ち尽くす僕がいた。少し先を、早足で歩いていく夏の背中も見える。二人とも、何も言わない。聞こえるのは足音だけ。前と後ろで、どれだけ歩いても縮まらない距離がある。呼び止めようとしたのに、喉が詰まって、声にならなかった。


 場面が切り替わって、家の中になる。


 夏も僕も、必死に相手と二人きりにならないようにしていた。夏は早めに部屋へ引っ込み、僕は早めに電気を消す。食卓では、お箸が茶碗に当たる音だけが、耳障りなくらい大きく響いた。


 気まずいんだろう。でもこの気まずさは、どんな喧嘩よりもずっとしんどかった。


 ここまでは、この二週間に何度も見た夢と同じだった。違うのは、冷戦がそこで終わらなかったこと。ずっと、ずっと、続いていた。


『小冬、大学でも頑張ってね!』


『冬、困ったことがあったら、いつでも連絡しなさい』


 玄関で荷物を引く僕に、母と父が、あたたかい言葉をかけてくれる。何も起きなかったみたいに、やさしい声で。その横で、夏は階段のそばに立ち尽くしていた。両腕をだらりと垂らして、視線さえ合わせようとしない。


 そうか。あの夜から、僕たちはもう、まともに話していないんだ。


 これは、あのキスも、この旅行もなかった世界なんだ。


「やだ……夏!」


 叫びながら、夏に手を伸ばす。でも、届くはずがない。だって、夢なんだから。夢の中の僕は振り返りもしなかった。まるで、伸ばした手が自分のものじゃないみたいに。


『それじゃあ……行ってきます』


 別れを告げた夢の僕は、玄関の扉を押し開けて、一度も振り返らずに出ていった。扉が閉まる音は、やけに小さくて、それが胸にひどく刺さった。


「夏、夏……!」


 さっきよりもずっと強く叫んで、それから――


「はっ……は……」


 目が覚めた。心臓がうるさいくらいに跳ねている。背中のシャツが肌に貼りついて、指先まで震えていた。


「冬? 怖い夢見たの? すごい汗……」


 声のほうへ顔を向ける。夏が隣に座っていた。寝癖で髪をぴょんと跳ねさせたまま、心配そうに僕を覗き込んでいる。その顔は、ちゃんと本物だった。


「夏!」


 何も考えられないまま、僕は夏に飛びついた。


「うわっ!」


 不意打ちの抱擁に驚いた夏が、そのまま布団の上に倒れ込む。


「だいじょうぶだよ……私、ここにいるから。ずっと、いるから」


 夏は小さな子をあやすみたいに、僕の頭をそっと撫でてくれた。その手は小さくて、寝起きのぬくもりが残っていて、なのに、何よりも安心できた。


 僕は夏の肩に顔を埋めて、鼓動の音を聞きながら、少しずつ呼吸を整えていった。


 誰かに抱きしめてもらうのって、こういう感じなんだ。


 しばらくして、そっと体を離す。すると夏は、ぱっと腰に手を当てて、得意満面の顔になった。


「えへへ、どう? 私、ちゃんとお姉ちゃんっぽかった?」


「……うん。さっきの夏、すごくかっこよかったよ」


 本心だった。ただ、あまり真剣な声にならないように気をつけた。


 褒められた夏は、ますます調子に乗って、さっきよりさらに胸を張った。今にもふわっと浮かんでしまいそうだ。背中に「本日の最強」なんて札を貼られても、喜んで受け入れそうな勢いで。


 昨日はスリッパが見つからなくて、あたふたしていたくせに。


 でも、こういうときは黙っておくのがいい。夏がこんなふうに笑ってくれるなら、それだけで十分だと思えた。


「さてと。そろそろ支度しようか。午後には駅に着かないといけないしね」


 スマホの時計を見ると、思っていたより時間が経っていた。


 簡単に顔を洗って、朝ごはんは抜きにして、荷物をまとめてチェックアウトを済ませる。部屋は来たときよりずっと片付いていたけれど、シーツには、二人ぶんの跡がまだ残っていた。扉を閉める前に、僕はそれをもう一度だけ見た。


「ご宿泊、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」


 上品な仲居(なかい)さんは、僕たちが着いた日と同じように、丁寧に頭を下げて見送ってくれた。振り返って、旅館を眺める。たった数日なのに、もう離れがたくなっていた。


 送迎バスに乗り込んで、山を下りていく。窓の外を木々の影が一枚ずつ流れていって、夏の横顔に落ちる光が、ちらちらと揺れた。


 最初に通りかかったのは、昨日の釣り場だった。歩いて入る場所だから、バスからは中の様子が見えない。


 昨日のことを思い出す。僕は海鮮が食べられないけれど、魚やエビを捕まえるのは、思った以上に楽しかった。夏は張り切って竿を振ったのに、最初に釣り上げたのは、後ろの木の枝だった。背伸びをして糸を外してあげたのは僕だ。


 思わず笑った僕のほっぺたを、夏は真っ赤な顔で、むにむにとつまんでいた。


 しばらく揺られて、バスがゆっくりと止まる。最初の日に歩いた商店街に戻ってきた。


「まだ二日しか経ってないのに、なんか懐かしいね〜」


 伸びをしながら、夏が商店街を見渡す。


 僕も同じ気持ちだった。同じ通りのはずなのに、初日に歩いていた僕たちと今の僕たちは、もう少し違う。あのころは、二人のあいだに、言えない言葉がひとつ挟まっていた。


「うん。時間もあるし、お昼を食べてから行こうか」


 そう提案すると、夏はすぐに「賛成!」と手を挙げた。


 歩いていると、ひとつの屋台が目に入った。ガラスのアクセサリーを、ネックレスに加工してくれるらしい。


「夏、あれ見て」


 呼び止めてから、続ける。


「あのさ……ガラスの小鳥、ネックレスにしない?」


「ネックレス?」


「うん。そのまま持ち歩くのは、ちょっと危ないでしょ。ネックレスにすれば、ずっと身につけていられるし」


 理由は、それだ。本当の理由は、ずっと目に見えるところに置いておきたかったから。


「うん! 行こっ!」


 屋台の前でおじさんに事情を話して、それぞれのガラスの小鳥を渡す。布の上に並べられた二羽は、翼のカーブがぴったり合っていて、最初からひと組だったみたいに見えた。


 おじさんの器用な手で、小鳥たちはあっという間にネックレスになった。日の光を受けて細かくきらめいて、二つ並べると、よく似合っていた。


「貸して。つけてあげるよ」


 そう言って、夏の首にそっとネックレスをかける。留め具が首の後ろに触れたとき、夏は肩をすくめて、「くすぐったい」と小さく言った。


 今度は夏が、背伸びをして、もう一本を僕の首にかけてくれる。近い。睫毛の影まで見えるくらい。


 胸元の小鳥は、ひんやりしているのに、不思議とあたたかかった。


 また歩き出したとき、夏が前を指さした。


「お昼、ここにしようよ!」


 最初の日に入った、あのおそば屋さんだった。


「うん、いいね。ここのおそば、もう一度食べたかったんだ」


 ガラスの小鳥をくれたのも、あのご夫婦だった。あの日の出会いがなければ、僕たちは今ここに立っていない。あとで、ちゃんとお礼を言わないと。


「すみませーん」


 引き戸を開けると、ちりんと鈴が鳴って、お出汁のやさしい香りがふわっと漂ってきた。おばあさんがテーブルを拭いている。


「いらっしゃ――あらまあ!」


 僕たちを見るなり、おばあさんは宝物でも見つけたみたいに、目をきらきらさせた。


「おじいさん、ちょっと来て!」


 弾んだ声で呼ばれて、おじいさんが厨房から出てくる。手には、そば打ちの麺棒が握られたままだった。


「おお? あの時の二人じゃないか! また来たのか!」


 おじいさんも、嬉しそうに迎えてくれた。


「どうだい、この町は楽しかったかい?」


「はい、すっごく楽しかったです! でも、今日で帰るんです」


 夏が元気よく答える。


「はっはっは! 旅ってのは、そういうもんだ! 大事なのは、そこで何を持って帰るかさ。二人とも、いろんなものを手に入れたみたいだな?」


 おじいさんは、僕たちの胸元のネックレスを見て、にやりと笑った。


 やっぱり、おじいさんには敵わないな。隣で、おばあさんも嬉しそうに笑っている。目尻の皺が、やさしく曲がっていた。


「素敵な贈り物を、ありがとうございました。大切にします」


「ありがとうございました!」


 夏と二人で、ご夫婦に頭を下げる。


「いいのいいの。わたしたちは、運命の糸を、ちょこっと先へ繋いだだけだから」


 おばあさんが、にこにこしながら言った。


 運命の糸。つないだままの手に目を落として、思う。この糸は、僕たちが気づくより前に、そっと結ばれていたのかもしれない。


 そのあと、おじいさんが僕と夏に、山菜そばと天ぷらを出してくれた。熱いおつゆをひと口飲んだ瞬間、自分が思っていたよりずっとお腹が空いていたことに気づく。


 隣では夏が、すごい音を立てて麺をすすっていた。途中で、僕のお皿からこっそりかぼちゃの天ぷらを一つ持っていこうとして、見つかると、「私、何も知らないよ?」という顔をした。


 食べ終わると、もう出発の時間だった。夏と一緒に立ち上がって、もう一度、ご夫婦にお礼を伝える。


「はっはっは、また遊びにおいで!」


 二人は店先まで出てきて、大きく手を振ってくれた。だいぶ歩いてから振り返っても、まだそこに立っていた。


 ご夫婦に別れを告げて、駅へ戻る。


「このあと、大変だね……」


 初日の乗り換えを思い出して、少し頭が痛くなった。ホーム、乗り継ぎ、荷物、それから、人波に押されてよろよろ歩いた情けなさ。


「だよね……」


 夏もため息をつく。それから、ふっと顔を上げて、笑った。


「でも、だいじょうぶだよ。冬と一緒なら、どこにだって行けるもん」


 目の前の、まっすぐな女の子を見る。夏はいつもこうだ。勇敢で、怖いもの知らずで、自分の「好き」を、大きな声で歌ってしまう。僕は同じ言葉を口にするまで、こんなに時間がかかったのに。


「うん、僕もだよ。夏と一緒なら、どんなことだって、きっと乗り越えられる」


 つないだ手に、ぎゅっと力を込める。僕たちは、家へ続く道を踏み出した。


 夏の髪に結んだ房飾りの鈴が、りん、と心地よい音を響かせていた。


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