花火の下、心に刻む瞬間
物思いに沈みかけていた私を、冬がぐいっと現実に引き戻した。この人は、いつもこうだ。
「ここの夏祭り、特大の花火が一番の名物なんだって!」
遠足を待ちきれない小学生みたいに、冬は目を輝かせている。
「あとで一緒に見に行こうよ!」
「花火かあ……いいね! すっごく楽しみ!」
夏祭りといえば花火。やっぱり外せない定番だよね。頭の中の後ろ向きな考えを振り払って、私は力いっぱいうなずいた。
「そろそろ時間だね。見える場所を探そうか」
冬は辺りを見回して、少し先を指さした。
「あそこの芝生はどうかな。見晴らしもいいし、空いっぱいの星が見えそうだよ」
指の先を目で追う。芝生にはもう、たくさんの人がいた。はしゃいで走り回る子どもたち、レジャーシートを広げて話し込む大人たち。笑い声が夜風に乗って、ふわりふわりと流れてくる。うん、花火を見るには絶好の場所だ。
空いているところを見つけて、冬と並んで腰を下ろす。その途端、一日中歩き回った疲れがどっと押し寄せてきた。
「んん……やっぱり、歩きっぱなしだと疲れるねえ」
ふくらはぎをさすりながら、ふうっと息をつく。
「……明日にはもう、帰るんだね」
冬は夜空を見上げたまま、ぽつりと言った。声は軽いのに、どこか考えごとをしているみたいだった。
「……そうだね」
私も芝生に寝転んで、同じ空を見上げた。
山の上だからか、空気が澄んでいる。満天の星は、手を伸ばせば摘めそうなほどくっきりしていて、眩しすぎて言葉が出てこなかった。草の匂いとひんやりした夜風が混ざって、そっと鼻先をくすぐっていく。
「ずっと考えてたんだ。この旅って、『正解』だったのかなって」
「『正解』……?」
「うん。いろんな場所を回ったし、いろんな服も着たけど……僕が知りたいのは、この急な旅で何を手に入れて、誰に出会えたのか、ってことなんだ」
「得たものと、出会ったもの……かあ」
少し考えてから、私は指を折って数え始めた。
「いっぱいあるよ! いろんな人にも会えたし。おそば屋さんのおじいちゃんとおばあちゃんでしょ、あの謎めいた仲居さんでしょ、あと浴衣屋さんの元気な店主さんも! みーんな、いい人だったよね!」
それから、冬の手の甲にゆっくり自分の手を重ねた。夜風よりも、ずっとあたたかい。
「それにね。かけがえのない大事なものだって、ちゃんと手に入れたもん。……そうでしょ?」
『ご来場のみなさまにお知らせします。ご来場のみなさまにお知らせします。まもなく、花火の打ち上げです。あと十秒となりました。どうぞ、ご一緒にカウントダウンをお願いします――!』
スピーカーの声が夜空を裂いて、芝生がいっせいにざわめいた。
「あっ、始まる! 冬、一緒にカウントダウンしよ!」
はやる気持ちを抑えきれないまま、私は周りの人たちに混ざって数え始めた。
「十――」
「九――」
「……そうだね。何を得たかって言うなら、いちばん多くもらったのは、僕のほうだと思う」
冬は数えていなかった。口の中でつぶやいた声は小さすぎて、みんなのカウントダウンにほとんどかき消されてしまう。
「五――!」
あと五秒で、花火が咲く。私は空だけを見つめて、息をひそめた。
「あのさ、夏」
不意に、冬が私を呼んだ。
「ん、なに?」
数える口は止めたけれど、目は夜空に張りついたまま。わくわくしすぎて、冬がどんな顔をしているかなんて、まるで気づいていなかった。
「三――!」
「二――!」
「一――!」
大人も子どもも、花火が咲く瞬間を待ちわびて声をそろえている。そして、その時が来た。
「……好きだよ」
ドン。
冬の声は小さかったのに、どんな花火の音よりもはっきりと、私の耳に届いた。
次の瞬間、夜空にいくつもの花火が、つぼみがほころぶように開いた。色も形もそれぞれ違う光が、空まるごと一枚の絵みたいに染め上げていく。
みんな顔を上げて、息をのむような景色に見入っている。カメラを構える人、心に刻むように黙って見上げる人、はしゃいで走り回る子どもたち。
私は振り向かなかった。ううん、振り向けなかった。
冬の手の甲に重ねていた私の手を、下から冬の手のひらがそっと受け止める。指と指が、ぎゅっと絡み合った。
花火は十分ほど続いて、終わった。見届けた人たちが、三々五々帰り始める。芝生は、あっという間に半分以上が空になった。
「いい花火だったね。きっと一生忘れないと思う」
冬は満足そうに息をつくと、空いているほうの手で大きく伸びをした。
「……うん。すごく、いい花火だった」
花火は確かにきれいだった。生まれてから見たなかで、いちばん。
でも、私の心はもう、別の気持ちでいっぱいだった。おかしくなりそうなくらい大きなものに埋め尽くされて、花火の余韻が入りこむすき間なんて、どこにもない。
これ以上、ひと言もしゃべれない。口を開いたら、あふれそうなものが全部こぼれ落ちてしまいそうで。
だって、あれは。ずっと焦がれていた……答えだったから。
メインの花火が終わると、帰る人だけでなく、屋台も少しずつ店じまいを始めた。灯りがひとつ、またひとつと消えていく。祭りのにぎわいが潮が引くように遠のいて、私たちも旅館へ戻って休むことにした。
まずは浴衣屋さんに寄って、浴衣を返し、元の服に着替えた。帰りぎわ、店主さんに呼び止められて、記念に一緒に写真を撮りましょうと誘われる。ぼんやりしたまま並んで立って、カメラに笑いかけた。別れぎわには、どうかお幸せに、とまで言ってもらえた。
私の代わりに、房飾りの鈴がりん、と小さく鳴って返事をした。
旅館への帰り道、私は自転車の後ろに座って、冬の服のすそを軽くつまんでいた。冬のこぎ方は穏やかで、カラカラと一定のリズムを刻む車輪の音が、夜風と一緒に耳もとを過ぎていく。しばらくすると、前方に旅館のあたたかな灯りが見えてきた。
玄関の戸を開けると、案の定、仲居さんが正座して待っていた。
「おかえりなさいませ」
軽く頭を下げた顔はいつもどおり落ち着き払っていて、まるで私たちの帰る時間をぴったり計算していたみたいだ。そのまま、部屋まで案内してくれた。
部屋は畳敷きで、い草のほのかな香りがする。布団が二組、その間に座卓がひとつ。それぞれお風呂を済ませたあと、部屋でゆっくり過ごした。
窓の外から、虫の声が細く聞こえてくる。部屋のなかでは、誰もしゃべらない。ただ、つないだ手だけが、ずっと離れなかった。
見えない糸が、あるみたいだった。気づかないうちに、少しずつ紡がれてきた、運命という名の糸。それが私の指先から、冬の指先まで、ひとすじに結ばれている。




