祭りと朝顔
道は、川沿いにどこまでも続いていた。
傾きはじめた日差しが水面に降り注いで、細かな光がちらちらと揺れている。私は水面から目を離して、冬の背中を見つめた。
……いつの間に、こんなに広くなったんだろう。体つきは、決してたくましいほうじゃないのに。
頬を撫でる風の中、何も言わずに、そっと額を預ける。
十分ほど走ったところで、冬がブレーキを握った。
「着いたよ」
顔を上げると、白い看板が目に入った。『浴衣レンタル』。店先では、色とりどりの浴衣が風に揺れている。
「浴衣……? もしかして、夜の『あれ』って――」
「うん、夏祭りだよ。今夜、この近くであるんだ」
冬は自転車のスタンドを立てて、謎解きの答え合わせでもするみたいに言った。
「夏と一緒に、夏祭りに行きたくて」
……ずるいなぁ。どうして冬は、いつも私のしたいことや行きたい場所が、わかっちゃうんだろう。
「いらっしゃいませ〜! あら、ご予約のお二人ね? お待ちしてましたよ」
暖簾の奥から、明るい女性がひょっこり顔を出した。さっきの上品な女性とは正反対の、よく通る弾んだ声。夏の昼下がりの風鈴みたいだ。
りん、りりん――
髪に結んだ房飾りの鈴が、風鈴に応えるように澄んだ音を立てた。今朝、冬にお願いして結んでもらったものだ。冬も、快く引き受けてくれた。
「うーん……お嬢ちゃんは、ちょっと小柄ねえ。でも大丈夫、ぴったりのがあるから。ゆっくり選んでね。気に入るまで、いくらでも!」
……今回は事実だから、言い返せない。それでも、笑いをこらえている冬の脇腹は、きっちりつねっておいた。
店の奥の壁一面に、浴衣がずらりと掛かっていた。赤、青、黄、紫。色が幾重にも重なって、夏そのものが目の前に広がっているみたいだ。
いちばん近くにあった青系の一着に、そっと触れてみる。綿の生地はやわらかくて、ひんやりしていた。かわいい。でも、その隣の赤地に金魚の柄は、さすがに目立ちすぎる。自称美少女の私でも、着こなせる気がしない。
視線を横へ滑らせていくと、隅に掛かった一着で目が止まった。
白地に、濃紺の朝顔が裾から上へと這うように咲いている。花びらの縁にはほんのり薄紫が差していて、朝露に濡れたばかりのように瑞々しい。
「あら、お嬢ちゃん、お目が高い」
突然、背後から店主さんが顔を出して、びくっとしてしまった。
「朝顔はね、朝にしか咲かなくて、昼にはしぼんじゃうの。だから余計に、名残惜しくなるのよね」
朝だけ咲く花、か。……その花にも、自分だけの陽の光はあったのかな。藍色の花びらを見下ろしながら、私は昔の自分を思い出していた。
「……これ、着てみたいです」
「もちろん! 帯は、淡い朱色なんてどう? 白地に合わせるとすっきりするし、花の色も引き立つわよ!」
うなずくと、店主さんは楽しげに、布を私の腰に当ててみせた。
「うん、決まりね!」
ふと冬のほうを見ると、男物の棚の前に立っていた。迷う様子もなく、濃い色の布を指先でなぞっていって、紺地に細い縞の入った一着をさっと抜き取る。ちらりと眺めただけで、
「僕はこれにするよ」
と言った。
「もう決めたの?」
冬が服の柄にこだわらないのは知っている。でも、今日は特別な日なんだから、もう少し迷ってくれてもいいのに。
「うん。これが似合うと思うんだ」
冬は笑って浴衣を抱え、更衣室に入っていった。暖簾の向こうへ消えていく背中を見送りながら、つい胸が高鳴ってしまう。だって、いつもと違う冬が見られるんだもん。
「さあ、次はお嬢ちゃんの番ね」
店主さんの手際は、魔法みたいだった。帯に、紐。何がどうなっているのか分からないうちに、衿はぴたりと体の線に収まっている。背中で蝶々のように結ばれた帯は、きつすぎず、緩すぎず、ちょうどいい。
「髪も一緒にやっちゃいましょうか。いい髪質ねえ! その房飾りもすごく可愛いけど、わたしならもっと可愛くしてあげられるわよ!」
店主さんが髪に手を伸ばしかけたので、私は慌てて止めた。
「あっ、すみません! 髪は……このままがいいんです。これは、好きな人に結んでもらったものなので」
店主さんは私をじっと見つめて、それから両手で口元を押さえた。
「ぐっ……! 甘すぎる!」
「あの……大丈夫ですか?」
片膝をついてしまった店主さんを、おそるおそる覗き込む。
「え、ええ、平気よ。ただ、純愛パワーの直撃を受けたのが久しぶりすぎて!」
なんだか中二っぽいことを言い出した店主さんは、すっと立ち上がると、真剣な顔で私を見据えた。
「そういうことなら、髪には触れないわ。その代わり、髪以外はぜひ任せてちょうだい! 絶対に素敵にしてみせるから!」
目から炎が噴き出しそうな勢いに、私はうなずくしかなかった。そっと目を閉じて、店主さんに身を任せる。しばらくして、
「はい、できあがり!」
目を開けると、鏡の中に知らない女の子が立っていた。白地の浴衣が肩の細さを際立たせ、藍色の朝顔が裾から袖まで咲き誇っている。わずかに覗くうなじの肌が、薄暗い灯りの下で、どこか無防備に見えた。
暖簾をくぐって外に出る時、どうにも落ち着かなかった。冬はもう着替えを済ませて、店の外で待っている。
夕陽が背後から斜めに差して、通りをあたたかな色に染めていた。濃紺の浴衣に包まれた、すらりとした姿。襟元からのぞく鎖骨の線は、シャツ姿では見られないものだ。
……あ、まずい。よだれが出た。慌てて拭ってから、冬の隣へ歩み寄る。
視線に気づいたのか、冬が顔を上げて、目が合った。何か言いかけて口を閉じ、少ししてまた開く。
「……あ、えっと」
ほんの数秒の沈黙。
「似合ってる」
壊れものに触れるような、小さな声だった。
「本当に、すごく似合ってる。……可愛い」
言い終えると、冬は目を逸らした。耳の先が、わずかに赤い。
「冬、可愛いと思うなら、好きなだけ見ていいんだよ?」
私は真剣に見つめ返した。
「……うん」
冬も視線を戻して、まっすぐ私の目を見た。
そのまま、数秒。先に耐えきれなくなった私がぷっと噴き出すと、冬は呆れたようにこちらを見て、それでも口元をゆるめた。
自転車は店に預けて、会場までは歩くことにした。そう遠くはないらしい。
からん、ころん。下駄が石畳に澄んだ音を響かせる。慣れない歩き方に、鼻緒の当たる指先がじんじんと痛んで、知らず知らず足が遅くなった。この調子だと、あとでおんぶされる定番イベントが発生しそうな予感がする。
冬は何も言わず、そっと歩調を合わせてくれた。こういうさりげない優しさは、昔から変わらない。
でも……昔と違うのは、今度は私のほうから、その手を取ったこと。冬も、ごく自然に握り返してくれた。
五分ほど歩くと、風に別の匂いが混じり始めた。炭火と醤油の焦げる香り、溶けた砂糖の甘さ、遠くのざわめき。昨日の商店街を思い出す。
やがて、太鼓の音が届いた。どん、どん、どん。低く力強い音が、この町の鼓動みたいに、熱く脈打っている。
角を曲がった瞬間、視界が一気にひらけた。夕陽はほとんど沈み、無数の赤い提灯が、ひとつ、またひとつと灯っていく。それは道に沿ってどこまでも連なり、大きな鳥居の向こうへと続いていた。
浴衣姿の人たちが笑いさざめき、子供たちがおもちゃを手に脇を駆け抜けていく。下駄の音と笑い声が混ざり合って、とても賑やかだ。
「わあ……」
思わず声が漏れた。だって、夏祭りに来るのは、これが初めてなんだもん。
鳥居をくぐると、道の両側に屋台がずらりと並んでいた。どの屋台にも、暖色の電球が吊るされている。
唐揚げの屋台の前で足を止めた。大きな鍋の中で油がぱちぱちと弾け、衣をまとった肉が、店主の手でひょいひょいと引き上げられていく。熱々を紙のカップに盛って、レモンをきゅっと絞れば、できあがりだ。
待ちきれずに一カップ買って、竹串で一つ刺し、ぱくりと口に入れる。
「はふっ、あっ、あつっ……!」
かじった途端、熱々の肉汁に不意打ちされて、悲鳴が漏れた。隣で、冬が呆れたように言う。
「そんなに急いで食べるからだよ」
教訓を活かして、今度は端っこを少しだけかじり、ふうふうと息を吹きかけた。頃合いを見て口へ運ぶと、今度はちょうどいい。ざくっと砕ける衣と、じゅわりとあふれる肉汁。レモンの酸味がそれを一段上へ押し上げて、思わず頬がゆるんだ。
もう一つ串に刺して、何度か息を吹きかけ、冬の前に差し出す。
「はい、冬、あーん」
冬はもう、前みたいに照れたりしなかった。堂々と、ぱくりと食べてくれた。
唐揚げを食べ終えると、隣のりんご飴の屋台に目がいった。真っ赤なりんごが透き通った飴をまとって、灯りの下で宝石みたいに輝いている。一本買ってみると、甘くて美味しかった。
かき氷の機械が、がりがりと回っている。削られた氷が粉雪のように山を作り、青、赤、黄色のシロップがかけられて、見るからに涼しげだ。
その隣では、焼きいかと焼きとうもろこしが、炭火の上で香ばしい匂いを立てていた。醤油が滴るたびに、じゅっと小さな音がする。思わずごくりと喉が鳴って、結局どちらも一つずつ買ってしまった。
歩いていくうちに、金魚すくいの屋台にたどり着いた。水槽の中で、赤い金魚たちが尾びれを軽やかに揺らしている。水面に浮かぶ赤い花びらみたいだ。
冬はやる気満々のようで、ポイを手に取って椅子に腰かけ、泳ぎ回る金魚を真剣な眼差しで見つめた。そして――
「今だ!」
タイミングを見計らって、ポイを水に沈める。金魚の重みを受けたポイは、ぺり、と、見事なまでにきれいに破れた。
すっかり肩を落とした冬を慰めてから、私たちは射的の屋台へ向かった。
棚にはさまざまなぬいぐるみやお菓子が並んでいて、銃で撃ち落とせば景品として持ち帰れる。私は一目で、一匹の猫のぬいぐるみに心を奪われた。
「ねえ、冬、あれがほしい」
冬は猫のぬいぐるみに目を向けた。
「うん、僕が落としてあげるよ」
店主にお金を払い、コルク弾を五発受け取る。
「えっと……たぶん、このあたりかな」
冬は照準を合わせて、猫に狙いをつけた。引き金を引くと、ぽん、と軽い音。弾は猫の耳に当たり、衝撃を受けたぬいぐるみは、ころんと倒れた。
「すごい!」
驚く私に、冬は何でもないことのように言った。
「ぬいぐるみって、だいたい頭が重くて、足元が軽いんだ。だから耳のあたりを狙えば、うまく倒せるんだよ。……当てられれば、の話だけどね」
店主が笑いながら、猫のぬいぐるみを冬に手渡す。受け取った冬は、嬉しそうに笑った。その顔があんまり無邪気で、私は無意識のうちにスマホを構えていた。ところが、レンズ越しに冬と目が合ってしまう。慌ててしまおうとした、そのとき。
「いえーい!」
冬がぬいぐるみを抱えたまま、からりとした笑顔でカメラを見た。私は、そのままシャッターを押した。
「はい」
冬が、ぬいぐるみを差し出してくれる。
「……ありがとう。さっきの冬、かっこよかったよ」
「そう? じゃあ、金魚すくいの敵討ち、ってことにしておこうかな」
その後も、私たちはたくさんの屋台を一緒に巡った。お面の屋台では、冬は狐のお面を、私は猫のお面を選んだ。
わたあめの機械から、雲のような甘い香りがふわりと漂ってくる。ラムネの瓶が、灯りの下で涼しげに光っていた。人波の中を歩きながら、それらを眺めているうちに、ふと現実感がなくなった。
まるで、まばたきひとつで、この景色が朝顔みたいにそっと散ってしまいそうで。
「夏」
隣で、冬が静かに私を呼んだ。振り向くと、冬がこちらを見ている。私の手を、しっかりと握ったまま。その瞳には、連なる提灯の光と、朝を越えても咲き続けようとする、まっすぐな希望が映っていた。
「行こう。ゆっくり回ろうね」




