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一体何者……?

「あれ、もうこんな時間か」


 最初に沈黙を破ったのは冬だった。スマホの画面に目を落として、そう呟く。


「まだ三時半だよ? もう今日のホテルにチェックインするの?」


 正直、もう少しこの時間に浸っていたかった。けれど冬に何か考えがあるのなら、異論はない。


「うん、荷物だけ先に預けに行こう。夜の準備もしないといけないしね。夏、きっと気に入るよ」


 冬が意味ありげな視線をこちらに向ける。


 そんな顔をされたら、気になって仕方がない。


「それなら、行こっか」


 お尻をぱんぱんと払って立ち上がり、小さな楽園に別れを告げた。


 おじさんに軽く挨拶をして、ロッカーの荷物を受け取り、次の送迎バスに乗り込む。揺られること十五分ほどで、今日の宿に着いた。


 バスを降りて最初に目に入ったのは、高い塀だった。入口は、その真ん中にある。


 門をくぐって石畳を進むと、小さな橋が架かっていた。その下の池では、丸々と太った錦鯉がゆったりと泳いでいる。


 石畳の突き当たりに、今夜の宿が建っていた。


 絵に描いたような、古民家風の日本家屋。焦げ茶色の木の外壁が、午後の日差しの中でやわらかな艶を帯びている。入口には、洗いざらしてほんのり色褪せた藍色の暖簾。宿の名前が、素朴な書体で染め抜かれていた。


 戸の脇では、古びた石灯籠に小さな火が入っていて、竹林の影の中に、橙色の光をこぼしている。


 宿の佇まいに見入っていると、ふいに風が吹き抜けた。


 さわさわ――と、門前の竹林が一斉にざわめく。


 昨夜のホテルとは、まるで違う。ここには家のような安心感があって、静かで、落ち着く。


「まだチェックインはしないからね。荷物を置かせてもらうだけだよ」


 釘を刺すように、冬が言った。


 ……ますます、これから行く場所が気になってくる。


「ごめんください」


 冬が小声で呼びかけて、そっと戸を開ける。きい、と木の軋む音がした。


 中に入ると、玄関の上がり框に、一人の女性が正座していた。


 六十代から七十代くらいだろうか。年を重ねているのに背筋はすっと伸びていて、所作のひとつひとつが美しい。思わず、冬と二人で姿勢を正してしまった。


「本日お泊まりのお客様でいらっしゃいますね。お部屋までご案内いたします」


 立ち居振る舞いだけじゃない。話し方まで上品だ。


「あっ、すみません。まだ泊まるわけではなくて。今夜の『あれ』の準備をしなければいけないので」


 立ち上がりかけた女性に、冬が慌てて説明する。


「『あれ』……まあ、あの催しですね。ふふ、この辺りでは有名ですものね。承知いたしました。お荷物をお預かりいたしましょうか」


 女性は、冬の言葉だけで予定を察したらしい。


 ……ずるい。それじゃあ、何も知らないのは私だけじゃない。


「はい、お願いします!」


 女性の丁寧な物腰につられたのか、冬の口調までかしこまっている。それがやけに似合っていた。


 もともと冬は、優しくて礼儀正しい、いい子の見本みたいな人なのだ。


 女性はすっと進み出ると、左手に冬の荷物、右手に私の荷物を提げて、涼しい顔で預かり場所まで運んでいった。


 ……うわ、力持ち。


 あの細い体のどこに、そんな力があるんだろう。


 荷物を預け終えて、私たちは宿をあとにした。


「次は……『あそこ』まで歩くと二十分くらいか。ちょっと遠いな……」


 冬が困ったように考え込む。


 そのときだった。


「失礼いたしました。『あちら』までは距離がございますので、お困りではないかと思いまして。当館には自転車のご用意がございますよ。よろしければ、ご案内いたします」


 あの女性が、いつの間にか背後に立っていた。


 気配もなく現れて、心を読んだみたいに、私たちの悩みを言い当てる。


 この人、何者なの……?


「あらあら、お嬢さんったら。私はただの、普通のおばあちゃんですよ」


 えっ。


 固まる私をよそに、冬は女性に向き直った。


「ぜひお願いします。案内していただけますか」


 女性の後ろを、二人で並んで歩く。私は小声で冬を呼んだ。


「ねえ、冬」


「ん? どうしたの?」


「あの人、絶対タダ者じゃないよ!」


 重大な発見を告げると、冬も「確かに」と頷いてくれた。


「こちらです」


 女性が指し示した先には、後ろに荷台のついたシティサイクルが、ずらりと並んでいた。


「それと……申し上げにくいのですが、お嬢さんのお背丈に合う自転車が、あいにくございませんで……」


 ……そんな気の毒そうな声、出さないでよ。


 本当は、そんなに気にしてないんだから。


(……ちょっとだけ、してるけど。)


「それは……こ、困ったね。うっ」


 笑いをこらえていた冬の脇腹を、思いきりつねってやった。


 笑うほうが悪い。


「しょうがないな。僕が夏を乗せるよ」


 つねられた脇腹をさすりながら、冬がそう決める。


「え? 冬、いいの?」


 冬の後ろに乗りたくない、なんて言ったら嘘になる。ただ、迷惑にならないかが気がかりだった。


「たぶん大丈夫だよ。目的地まで、ずっと平らな道みたいだし。急な坂もないから」


 冬は説明しながら、一台を引き出してくる。女性も、その提案に頷いた。


「まあ、素敵なお考えですね。お二人は恋人同士でいらっしゃいますか? この機会に、仲を深めるのもよろしいかもしれませんよ」


 また恋人に間違えられちゃった、ふふ。


 それなら、遠慮なく。


「冬の迷惑にならないなら、お願いしようかな」


 荷台に横向きに腰かけて、少し迷ってから、冬のシャツの裾をそっとつまんだ。


「……これでいい?」


「それじゃ落ちちゃうよ。ちゃんとつかまって。ゆっくり漕ぐからね」


 言われるまま、おそるおそる腕を回す。


 薄い布越しに、冬の体温が伝わってきた。初夏の空気よりも、ほんの少しだけあたたかい。


「お気をつけて、いってらっしゃいませ」


 振り返ると、女性が玄関先で深々と頭を下げていた。


 角を曲がって見えなくなるまで、その姿勢は少しも崩れなかった。


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