貴重な思い出
「夏、ただいま。コーラ売り切れてたから、サイダーにしたよ……あれ? どうしたの?」
冬の声に、私は飛び上がるほど驚いた。
「な、なんでもない! 太陽がまぶしすぎるだけ!」
あわてて、適当な言い訳でごまかす。
「でも、今は木陰に入ってるよね……?」
冬は頭上の大木を見上げた。たしかに木は、ちゃんと私たちを日差しから守ってくれている。だからこそ、こんなに居心地がいいのに。
「それでも、まぶしいの!」
冬は首をかしげながら、サイダーを渡してくれた。さっきの会話は、まったく聞こえていなかったらしい。
そりゃそうだよね、いなかったんだから。女の子たちも、もう別の話題に移っていた。
冷たいサイダーの瓶を握りしめても、頭の中は夏祭りでいっぱいだった。
夏祭り……冬と、行きたいな。
でも、どう切り出したらいいんだろう。急に誘ったら、迷惑かな? もしかしたら、冬は夜に別の予定を入れてるかもしれないし……
……まあ、いっか。きっとそのうち、チャンスはあるはず!
そう思ってサイダーを一気に喉へ流し込んだら、盛大にむせてしまった。冬が慌てて駆け寄ってきて、背中をさすってくれる。
どれくらい時間が経っただろう。
我に返ったときには、バケツの中でニジマスが七匹と、名前も知らない小魚が何匹か、のんびり泳いでいた。
「そろそろ、水遊びにしようか」
冬の提案で、私たちはバケツを提げて、下流の浅瀬へ向かった。
水は足首ほどの深さで、底には丸くて小さな石がびっしり敷かれている。おじさんが、小さな網も貸してくれた。
靴と靴下を脱いで、つま先をそっと水に浸す。
「つ、つめたっ――!」
足の裏から背筋まで、冷たさが一気に駆け上がった。思わず首をすくめて、そこでようやく思い出す。
そうだった、ここ、けっこう標高の高い山なんだっけ。
「夏、石に苔がついてて滑りやすいから、気をつけて。深いところにも行っちゃだめだよ」
ズボンの裾をまくりながら、冬が真剣な顔で言い聞かせてくる。
「はーい」
適当に返事をしたら、冬にちらりと見られて、慌ててこくこくとうなずいた。
そのとき、浅瀬の石の下を、影がすっと横切った。
「冬! ここにエビがいる!」
網をさっとすくい上げると、透き通るような小さな川エビが三匹、あっさり入っていた。釣りよりずっと簡単だ。
(私、エビすくいの才能あるかも。)
「とれた!」
調子に乗って、続けざまに十何匹もすくっては、別の小さなバケツに入れていく。
楽しさがひと段落すると、いたずら心がむくむくと顔を出した。
つま先で、冬のほうへ水をぱしゃっと蹴り上げる。
「うわっ!」
冬が跳ねるようにあとずさった。
「夏!」
呆れ顔でこちらを見る冬。きっと私のこと、ちょっと子どもっぽいと思ってるんだろうな。
「へへ、これは仕返し! 冬が後ろからあんなに優しく抱きしめるのが悪いんだよ! ずるすぎ!」
自分の行動には正当な理由があるのだと、私は胸を張って宣言した。
すると冬が、ちょっと怖いくらいの笑みを浮かべる。
「……覚悟は、いい?」
冬は両手で水をすくって、ぱしゃっと私のほうへ弾いた。頬に落ちたのは、ほんの数滴だけ。
「えー? 手加減しすぎじゃない!?」
ちょっと不満だ。勝負するなら、本気でやらなきゃ!
「だって危ないでしょ。思いきりなんてやらないよ。それに夏だって、強く水を蹴ったら、うっかり滑って転ぶかもしれないし」
そう言いながら、冬はじりじりと私に近づいてくる。
私は「ふーんだ」と鼻を鳴らして、水面をぱしゃぱしゃ蹴っていた。だから、背後に回り込んできた冬が、小さくつぶやいたことにも気づかなかった。
「……チャンス」
次の瞬間、私の体がふわりと宙に浮いた。
あっという間に、お姫様抱っこで抱え上げられていた。
「うわわわわっ!」
それがどれほどロマンチックな体勢なのか、考える余裕もない。ただ興奮して、冬の首に腕を回して、大声で叫んでいた。
冬は私を抱えたまま、小川の中でくるくると回りだす。
私は悲鳴を上げながら笑った。きらきらした水しぶきが日差しの中を舞って、時間がゆっくりになったみたいだった。
この瞬間だけ、世界には私たちふたりしかいない。
――お姫様と、勇者。あの公園の続きみたいだ、なんて思ってしまった。
川の水で、冬の髪も、私の髪も頬も、しっとり濡れていく。冬が私を下ろそうとした、そのとき。
「あっ!」
冬が苔むした石を踏んで、足を滑らせた。
体が後ろへ傾いて、私の体もぐらりと揺れる。
「夏!」
冬は力いっぱい踏ん張って、なんとか転ばずに持ちこたえた。
はっと気づいたときには、私の顔は冬の胸に押しつけられていた。息が上がって、一瞬、何が起きたのかわからない。
「……大丈夫? 怪我はない?」
バランスを崩さないように、冬はそのままの体勢で尋ねてくる。声がひどく焦っていた。
「だ、大丈夫……ありがとう」
答えながら、私はあることに気づく。
冬の心臓も、すごく速い。
滑りそうになったから? それとも――
そのあと、私たちは並んで大きな岩に腰かけて、濡れた足を日差しで乾かした。冬の息はまだ少し乱れていて、もちろん、私もだった。
「……今日、いい天気だね」
冬が静かに言う。
「うん」
私はそれだけしか返せなかった。頭の中では、さっきのお姫様抱っこが、ずっとぐるぐる回っていたから。
ああ、冬……。
やがてお昼になって、私たちはバーベキュー場へ向かった。
木のテーブルのそばで、炭火がぱちぱちとはぜて、真っ赤に燃えている。
「塩焼きがいちばんうまいんだ!」
おじさんが豪快に笑う。そこでようやく、おじさんの服にエビの絵が描いてあることに気づいた。
エビ、好きなんだ。
おじさんは串に刺したニジマスに塩を振って、炭火の網に並べていく。川エビも竹串に何匹か刺して、いっしょに焼いてくれた。
その横で、冬は小屋で買ってきた焼き鳥とおにぎり、焼きとうもろこしを、網の端に並べている。
私は焼き上がったニジマスを受け取って、がぶりとかじりついた。
皮はぱりっと香ばしくて、身は触れただけでほろりとほどける。ほのかな甘みがあって、塩加減もちょうどいい。自分で釣った魚だと思うと、いっそうおいしく感じた。
「おいしい! 自分で釣った魚って、こんなにおいしいんだ!」
川エビもさくさくで、殻ごと食べられる。香ばしさが口いっぱいに広がった。
「よかったね、夏」
私が喜んでいるのを見て、冬はほっとしたようだった。
「冬も、ひと口食べない? はい、あーん」
ふざけて、魚の身をほぐして差し出す。
「それは、さすがに無理だよ」
冬は即座に断った。
「じゃあ、冬の分も私が食べちゃうね〜」
「どうぞどうぞ」
冬は笑って、手にした焼き鳥にかぶりつく。
そのとき、冬が串から外した鶏肉をひと切れ、ひょいと私の口もとに差し出した。
「夏、あーん」
「え?」
目の前の鶏肉を見つめたまま、私は意味がわからずにいた。
「さっきの、あーんのお返し」
いたずらが成功したみたいに、冬がにやりと笑う。
まわりに人がいるのに――そう言おうとして、朝、自分で言ったあの言葉を思い出した。
「誰も見てないってば」。
……くっ。
仕方なく観念して、ぱくりと口に入れる。甘じょっぱいタレが、舌の上にひろがった。
「……これも、おいしい」
「でしょ?」
冬が得意げに笑う。悔しい。でも、嬉しい。
それから冬は、焼きとうもろこしを私のお皿にのせた。
「とうもろこしも野菜だからね。ちゃんと食べなよ」
お母さんみたいな口ぶりで、野菜を食べるように言ってくる。
「これは野菜に入らないでしょ!」
でも、とうもろこしは好きだから、断らなかった。
かじると、甘くて香ばしくて、ほんのり焦げた醤油の香りが鼻に抜ける。いくらでも食べられそうだった。
お腹がいっぱいになったあと、私たちは満ち足りた静けさの中で、寄り添って休んだ。
滝の水音と、遠くの鳥の声が重なって、耳に心地いい。
きっとこの一日は、いつかとても特別な思い出になるんだろうな。
そんなことを、ひっそりと思った。




