私とあなたの釣り初体験
「それなら、私、釣りがしたい!」
山に来たら、やっぱり渓流で釣り。そのあとは川遊び。これはもう、お約束でしょ!
「いいね。すごく青春っぽい」
冬は私の提案を、これ以上ないくらい褒めてくれた。その口ぶりは、まるで「さすが僕の妹」とでも言いたげで。
「じゃあ、近くによさそうな渓流がないか探してみるよ」
そう言って、冬はスマホで調べはじめた。
「えっと、渓流……渓流……あっ! 夏、これどうかな?」
宝物でも掘り当てたみたいに目を輝かせて、冬がスマホの画面をこちらに向ける。
映っていたのは、観光客向けの渓流釣り場だった。公式の写真を見るかぎり、川幅はけっこう広くて、上流には小さな滝まである。水しぶきが日差しを受けて、きらきらと光っていた。
「おお……! いいね、すっごくいい!」
つられて、私まで胸が弾んでくる。
ずっと釣りに憧れていたのに、なかなか機会がなくて。今日、ようやくその夢が叶うんだ。
「ふふ、じゃあ行こうか。このシャトルバスに乗らないと」
そう言うなり、冬が私に手を差し出した。
一瞬、その意味がわからなくて――でも、すぐにはっとする。ちょっと照れくさいけれど、私はその手をそっと握った。
手早くチェックアウトを済ませてホテルを出ると、シャトルバスにもちょうど間に合った。スマホの時計は午前九時半。
バスに揺られること三十分ほどで、目的地に着いた。
降りたとたん、空気が一段ひんやりしているのに気づく。初夏だというのに、肌をなでるのはかすかな冷たさ。つらい寒さじゃなくて、背筋がしゃんとするような涼しさだった。
……私が「冬」のことを好きだから、こんなにひんやり迎えてくれるのかな、なんて。冗談だけど。
「ここから歩いて五分くらいで川に着くって。行こう」
ナビを見ながら、冬が言った。
私たちは林の小道を歩きはじめた。道には石畳が敷かれていて、靴が泥で汚れる心配はなさそうだ。
両脇にそびえる古い木々は堂々としていて、きっと、とても長い間この場所に根を張ってきたのだろう。枝葉に砕かれた日差しが、細かな光のかけらになって地面に落ち、ゆらゆらと揺れている。
遠くでウグイスが鳴いていた。名前も知らない鳥の、澄んださえずりも重なって聞こえてくる。
そんな音の底から、ふと、別の音が浮かび上がってきた。石の上を水が流れていく音。歩を進めるほど、それははっきりと耳に届くようになる。
「もうすぐみたいだね」
冬が前を見たまま言う。
私は背伸びをして、その先にあるはずの景色を覗こうとした。けれど、冬がまだ手を握ったままだから、掌から伝わる体温が気になって、ちっとも集中できない。何度もつまずきそうになった。
最後の木立を抜けた瞬間、視界がぱっと開ける。
「わあ……!」
思わず声がもれた。
透きとおるほど澄んだ水が石の間を縫うように流れ、川底の小石までくっきりと見える。上流のすぐ先には、人の背丈ほどの小さな滝。白い水しぶきが跳ねて、日差しを浴びてまぶしいくらいに輝いていた。
岸辺には木造の小屋が建っていて、入り口の前では、よく日に焼けたおじさんがのんびりと団扇を扇いでいる。
「いらっしゃい。おや、仲のいいカップルだねえ」
おじさんはにこにこしながら私たちを見て、ひゅう、と口笛を吹いた。
でも、冬も私も、否定しなかった。……それが、なんだかすごく嬉しい。
おじさんは、そのまま一息にルールを説明してくれた。
竿とエサは貸し出し可。釣れた魚は、隣のバーベキュー場で焼いて食べられる。焼き方がわからなければ手伝ってくれるし、もちろん無料。食べないなら、逃がしてあげてもいい。
いちばん大事なのは、安全のため、決められた範囲から絶対に出ないこと。そこだけ、おじさんの目つきがやけに真剣だった。
ただ、下流には浅瀬があって、そこは水遊びができるらしい。エビすくいもできると聞いて、正直、めちゃくちゃ楽しみだ。
冬が荷物を小屋のロッカーに預けて受付を済ませると、私たちは竿二本とバケツを持って、川辺へ向かった。
「カップルさん、エサはこれだよ」
おじさんが小さな箱を差し出してくる。
なんだろうと覗き込んで、ふたを開けた瞬間――中でうごめいていたのは、ミミズの塊だった。
「ぎゃああああああ!!」
私は三歩ぶん後ろに跳びのいて、あやうく川にお尻からはまるところだった。
仕方ないじゃん、私は悪くない。悪いのは、怖すぎるミミズのほうだ。
「夏、大丈夫。僕がやるよ」
冬は、おじさんが貸してくれたゴム手袋をはめて、箱を受け取った。
口もとはひくついているし、顔色もあまりよくない。それでも必死に平気な顔を保って、おじさんの丁寧な指導のもと、一匹つまみ上げ、手際よく私の針に通してくれた。
「よし、これでオーケー。思ったより難しくないね。慣れればもっと上手くなりそうだし、ミミズも、案外怖くないよ!」
「おお! 兄ちゃん、いい腕してるじゃないか! うちの仕事に向いてるぞ!」
おじさんは大げさに褒めながら、豪快に笑う。冬も、まんざらでもなさそうに笑っていた。
「冬……かっこいい……」
気づけば、口からこぼれていた。
「ん? 今、なんて言ったの?」
つぶやきが聞こえたのか、冬が振り返る。
「冬がかっこいいって言ったの。ちょっと見とれちゃった」
今の私には、もう迷いなんてない。冬への「好き」を、堂々と口にできる。
「え……あ、ああ、そっか。そ、そうだ! 竿の持ち方、教えるよ! さっきおじさんに聞いておいたんだ!」
照れくさかったのか、冬は慌てて話題を変えた。
「お願いします、冬先生!」
照れた冬を観察するのも楽しいけれど、今は釣りに集中しなきゃ。
「うん。まず、手首はあまり力を入れなくていいんだ。軽く前に振るだけでいいよ」
冬が私の後ろに立って、両側から腕を回し、竿を握る私の手をそっと包み込んだ。
ちょ、ちょちょちょちょっと待って! この体勢、危なすぎない!? 想像してたのと全然違うんだけど!?
心の準備ができてない! っていうかこの人、絶対私のこと誘惑してるよね!? ね? そうなら私、キスしちゃうよ!????
「こうやって、持ち上げて――下ろす。それでおしまい! あとは魚がかかるのを待つだけだよ」
冬の声が、すぐ耳もとにある。頭の中は真っ白で、もうキャパオーバー。
聞こえるのは、うるさすぎる自分の心臓の音だけ。川のせせらぎまで、すっかりかき消されてしまいそうだった。
「……夏、ちゃんと聞いてる?」
私の様子がおかしいと気づいたのか、冬が不思議そうに尋ねてくる。
「き、聞いてるよ!」
――嘘。本当は、ひとことも耳に入ってなかった。
そして、初めての一投目。
力みすぎたせいで、釣り糸は空中できれいな弧を描いて――後ろの木の枝に、ぴたりと引っかかった。
「……」
「……ぷっ」
「冬! 笑わないで!」
私は竿を放り出して、冬のほっぺたをぎゅうっとつまんで、むにむにと揉みしだいた。
「ご、ごめん……でも夏、すごいよ! 最初に釣れたのが木の枝なんて! ……あはは!」
冬は肩を震わせて笑っている。私はむくれてほっぺたを膨らませたけれど、笑った顔までかわいいから、許してあげることにした。
ちなみに、枝に引っかかった釣り糸は、冬が背伸びをして外してくれた。
二投目。今度は学習して、そうっと慎重に振ってみる。
赤と白の浮きが、ふわりと水面に落ちて、流れに合わせてゆらゆら揺れた。うまくいったみたい。あとは、待つだけだ。
……ところが、三分もしないうちに、私はきょろきょろしはじめた。浮きを見つめたり、隣の冬をこっそり盗み見たり、また浮きをつつきたくなったり。
「夏、そんなに動くと、魚がびっくりして逃げちゃうよ」
落ち着きなく動く私を見て、冬が困ったように言う。
「びっくりさせてなんかないもん。ちょっと、お魚さんにごあいさつしてただけだよ」
私は胸を張って、根気強く説明してあげた。
「……夏がどんなふうにあいさつするのか、僕も見てみたいな」
冬が呆れたように笑う。
そのとき、浮きがぐいっと水中に沈んだ!
「!! う、動いた! 冬! 動いた動いた動いた!」
私は反射的に立ち上がって、竿をぎゅっと握りしめた。
「慌てないで、まず竿を上に引いて! そう、それからゆっくり糸を巻いて、力を入れすぎないように!」
あたふたしながら、冬の言うとおりに手を動かす。竿に伝わるずっしりとした引きに、心臓まで一緒に跳ね上がった。
次の瞬間、銀色に光る魚が水を割って飛び出した。陽光を受けて、虹みたいにきらめく。
手元が狂って、魚は空中で尾をばたつかせ――はねた水しぶきが、私たちの顔まで飛んできた。
「釣れた! 冬、釣れたよ!」
顔の水滴なんて気にならなくて、私は興奮したまま、初めての魚を冬に見せた。
「うん、見てたよ」
冬は顔をぬぐって、それでもまだ笑っている。
「おめでとう、夏の最初の一匹」
手のひらくらいのニジマスだった。体の側面に、淡いピンク色のラインが走っている。
冬がゴム手袋越しに針を外して、そっとバケツに入れてくれた。のんびり泳ぐ姿を眺めていると、言葉にできない達成感が胸にこみ上げてくる。
釣りって、こんなに嬉しいものだったんだ!
「じゃあ、僕もやってみようかな」
冬は、さっき自分で教えてくれたとおりの、お手本みたいなフォームで糸を投げた。
ほどなくして、立て続けに何匹も釣り上げてしまう。しかも私より、ずっと手際がいい。二人とも初心者のはずなのに、さすが冬だ。
でも、釣れるたびに、少しだけ複雑な顔をする。そして、ゴム手袋越しにそっと針から魚を外して、バケツに入れていく。
「冬、どうしたの?」
心配になった。この旅行で、冬にはひとつも嫌な思いをしてほしくないのに。
「ううん、ただ……僕、念のため魚は食べないようにしてるから、釣っても夏に食べてもらうしかないんだなって」
本当は、僕も食べてみたいんだけどね、と冬は苦笑いした。
「じゃあ、こうしよう! 冬は釣る係、私は食べる係!」
われながら名案だ。冬が釣った魚は私が食べる。お腹いっぱいになれるし、魚も無駄にならない。完璧すぎる分担!
「……それ、僕だけ損してない?」
口ではそう言いながらも、冬は釣りの時間を存分に楽しんでいるみたいだった。
しばらくして、冬が竿を置いて立ち上がった。
「ちょっと小屋で飲み物もらってくる。バーベキュー場のことも聞いてくるよ。夏は何がいい?」
「コーラ!」
冬は二本の竿を私に預けて、小屋のほうへ歩いていった。
ひとりになった私は、川辺の平らな大岩に腰を下ろした。
滝の水音がざあざあと耳もとで響いて、この涼しさも相まって、なんだか眠くなってくる。
そのとき、少し離れた岩場から、はしゃいだ声が風に乗って届いた。
「ねえ、聞いた? 今夜、町で夏祭りがあるんだって!」
「えっ、ほんと? どこで?」
「神社の前の広場らしいよ。屋台もたくさん出るし、夜は花火も上がるって!」
別の大岩で、大学生くらいの女の子ふたりが、釣りをしながらはしゃいでいる。
「じゃあ夜、いっしょに行こうよ! 浴衣、着てく?」
「いいね、いいね! 行こう行こう!」
な、夏祭り……! 私の耳が、ぴくんと立った。浮きが動いているのにも、気づかないくらいに。
夏祭り。
夜。
花火。
浴衣を着て、金魚すくいの小さな袋を提げて、屋台の間をすり抜けていく。そんな光景が、頭の中でぱあっと鮮やかに広がった。
赤い提灯の下を、冬と並んで歩く。「人が多いから」とか言って、冬はきっと、さりげなく手を取ってくれる。
……そこまで想像したところで、ほっぺたがぽっと熱くなった。




