旅行2日目
「んぅ……んん……」
ゆっくりと目を開けて、布団の中で大きく伸びをしてから、のろのろと体を起こした。
カーテンの隙間から差し込んだ陽射しが、布団の上にそっと落ちている。白いシーツが、ほんのり金色に染まって見えた。
今日はやけに、頭がすっきりしている。久しぶりにぐっすり眠れたからだろう。悪い夢も見なかったし、夜中に飛び起きることもなかった。そのまま、朝まで一度も目を覚まさずに。
昨日の幸せが、まだ胸の奥にあふれている。確かめるみたいに、そっと胸に手を当ててみた。
たしか、冬の腕の中で眠ったんだっけ。思い出して、「えへへ」と変な笑いがこぼれてしまう。名前は「冬」なのに、体はびっくりするくらいあったかいんだから。
枕元のスマホを手に取ると、画面がぱっと明るくなった。六時五十二分。朝食の時間まで、まだ三十分以上ある。
それなら……もうちょっとだけ、二度寝しちゃおうかな。身支度なんて、急げばすぐ終わるし。うん、そうしよう。
心の中で自問自答して、満足げに布団へ潜り直す。ついでに、冬の胸をもう少し堪能しちゃおう――。
「ん?」
そこにいるはずの人を探して手を伸ばしたのに、指先に触れたのは、ひんやりしたシーツだけだった。
誰もいない。冬が、いない。
眠気は一瞬で、跡形もなく吹き飛んだ。ひとりぼっちの感覚と焦りが、潮が満ちるみたいに、いちどきに胸まで押し寄せてくる。
慌てて布団をはねのけて、よろけながらベッドから飛び降りた。部屋中に視線を走らせる。枕元のテーブルでは、二羽のガラスの小鳥が寄り添っているだけ。窓辺にも、冬のリュックの横にもいない……。
――冬のいない世界なんて、考えられない。
「冬、どこ? 冬!」
頭の中がぐちゃぐちゃだ。お願い、早く出てきて。もう、私を置いていかないで。
「ん? 夏、起きたの? もしかして、僕が起きたときに起こしちゃった?」
浴室のほうから、声がした。はっと振り向くと、ドアの陰から冬が半身だけ覗かせている。寝ぐせで髪が少し跳ねていて、口には歯ブラシをくわえ、唇の端に白い泡をつけていた。
私は何も言わずに駆け出して、そのまま冬の胸に飛び込み、ぎゅっと抱きついた。
「むぐっ!?」
不意打ちをくらった冬の体がぐらりと揺れて、歯ブラシが口から落ちそうになる。それでも冬はしっかり踏みとどまって、私を押し返したりせず、ただ好きなだけ抱きつかせてくれた。
ミントの歯磨き粉の匂いが、ふわりと鼻先をかすめる。何でもない、ありふれた匂いなのに、どうしてか安心してしまった。
「どうしたの?」
もごもごした声で言いながら、冬の手が、私の頭をそっと撫でる。小さい子をあやすみたいに。
「だ、だって……冬が、いなくなっちゃったのかと思って……」
冬の服に顔をうずめているせいで、声がくぐもった。言い終えてから、自分がどれだけ子供っぽいことを言ったのか気づく。お兄ちゃんから離れられない妹みたい。それでも、手だけはどうしても離せなかった。
冬は少しのあいだ、黙っていた。きっと、私がどうしてそんなことを思ったのか、分かっていないんだろう。それでも何も聞かずに、歯ブラシを口から外して、しゃがんで私と目線を合わせてくれた。
「約束する。夏を置いて、急にいなくなったりしないよ」
誓いを立てるみたいに、真剣な声だった。
「だから安心して。僕はずっとここにいるから」
「……ほんとに?」
「ほんと。指切り、する?」
「……もう子供じゃないってば」
そう言いながらも、私は小指を差し出して、冬の指にそっと絡めた。胸につかえていた重たい石が、ようやくゆっくりとほどけていく。
冬が歯磨きを終えるのを待って、私も顔を洗った。それから、二人並んで鏡の前に立つ。
洗面台には、歯ブラシが二本、仲良く並んでいた。一本は私の、もう一本は冬の。ただそれだけのことなのに、なぜか胸のあたりがふわっと軽くなる。
鏡の中には、寝ぐせ頭の私と、同じように眠そうな目をした冬が、肩を並べていた。まるで――ううん、その先は、まだ言わないでおこう。
ふと、気づいた。
冬が、鏡の中の自分を見ている。いつもなら、洗面台の鏡からわざと目をそらしているのに。
「……不思議だね。夏が隣にいると、鏡を見ても、あんまり怖くないんだ」
小さな声だった。どういう意味なのか聞き返そうとした、そのとき。
冬がふっと視線を外して、鏡越しに私を見た。笑いをこらえながら、手を伸ばしてくる。
「夏、髪が跳ねてるよ。ここ。この毛束」
「跳ねてたって、私は美少女なんだから」
当然みたいに言い切ると、「はいはい。動かないで、直してあげる」と返ってきた。
指先が、頭のてっぺんにそっと触れる。私はおとなしく立ったまま、冬に髪を整えてもらった。
あの毛束は、冬の手の下で何度も頑固にぴょんと跳ね返ってきて、なんだか申し訳なくなってくる。それでも最後には、濡らした指先で観念させられた。
「できた」
鏡の中の私を見て、冬が満足そうに言う。
「ありがと」
鏡に映る自分を見つめる。いつもどおりの、ちょっぴり自信ありげな顔。顔色も、さっきよりずっといい。
*
着替えを済ませると、時計はちょうど七時三十分だった。
部屋を出て、分厚い絨毯の敷かれた廊下を、レストランのほうへ歩いていく。こっそり手を伸ばして、冬の服の裾をつまんだ。前はもっと堂々と腕に抱きついていたのに、いつの間にか、こんな控えめなつかみ方になってしまった。
冬は私の手元をちらっと見ただけで何も言わず、歩幅を少しだけ緩めて、私の速さに合わせてくれた。
レストランの扉を開けた瞬間、思わず「わぁ」と小さな声が漏れる。
昨日の夜とは、まるで別の場所みたいだった。同じテーブル、同じ椅子なのに、昨夜は暖かい橙色の明かりに包まれて、にぎやかで少しけだるい空気が流れていた。今は、一面の大きな窓から陽射しが降り注いで、カーテンを通り抜けたやわらかな光が、店内を穏やかに満たしている。
食器の触れ合う音はかすかで、お客さんたちの話し声も低く抑えられていて、まるで誰もいないみたいに静かだった。
「きれい……」
思わず、小さくつぶやく。
「うん、そうだね」
冬も、窓の外を見ている。
「ゆっくり朝ごはんを食べるのに、ぴったりだ」
私たちは、窓際の二人掛けの席を選んで座った。
朝食はビュッフェ形式。長いカウンターに、いろんな料理がずらりと並んでいる。焼きたてのパンからはバターのあったかい香りが立ちのぼり、黄金色のスクランブルエッグの隣には、少し焦げ目がつくまで焼いたベーコンと小さなソーセージ。反対側にはサラダとフルーツ、白い湯気の立つ大きな鍋のスープもあった。
いちばん奥の隅では、コックさんが鉄板の前に立って、パンケーキを焼いている。
パンケーキ! 私の目が、一瞬でぱっと輝いた。鉄板で焼きたてのやつだ! 冬のパンケーキがいちばんなのは決まってるけど、これは別腹……!
「冬、ごはん取ってくる!」
言い終わる前に、私はもうお皿を持って飛び出していた。
「あ、夏、ゆっくり、走らな――」
冬の声が聞こえた気もするけど、今の私はお腹をすかせた野獣なのだ。野獣。
十分後。山みたいに盛ったお皿を持って、私はふらふらと席に戻ってきた。ほかほか湯気の立つパンケーキが二枚、たっぷりのメープルシロップがかかっていて、横にはスクランブルエッグとソーセージ、それからクロワッサンがひとつ。
冬はとっくに席に着いていた。冬のお皿は、私のよりずっと整っている。トースト一枚に、少なめのスクランブルエッグ、トマトが数切れとレタス。それと、湯気の立つブラックコーヒー。
冬は私のお皿を見て、それから私を見た。
「……夏、取りすぎじゃない? 僕が手伝っても、食べきれないと思うよ」
「そんなことないもん! 全部食べられるから!」
……たぶん。がんばるし。食べ物を粗末にするのはよくないもんね。
後ろめたくて目をそらしながら、パンケーキをひと切れフォークで刺して、口に運んだ。表面はほんのりカリッとしていて、中はふわふわ。甘いメープルシロップが舌の上でとろけて、思わず目を細めてしまう。
「おいしい……」
そんな私を見て、冬は呆れたように笑った。
「まったく、幸せそうな顔しちゃって」
そう言って、冬も自分の朝食に手をつけはじめる。
「だって本当においしいんだもん! 冬もひと口食べてみて、ほら、あーん」
切り分けたばかりのひと切れをフォークに刺して、冬の口元へ差し出した。冬はきょとんとして、フォークと私の顔のあいだで、視線を二往復させる。私の耳が、じわじわ熱くなってきた。ちょっと積極的すぎたかな?
「……まわりに人がいるから」
冬が、照れたように言う。
「誰も見てないってば」
こんな冬、新鮮だ。ふと、からかってみたい気持ちが湧いてきた。いつもドキドキさせられているのは私のほうなんだから、仕返しに、冬のことも困らせてやりたい。
もう一度「あーん」と言って、フォークをさっきよりぐっと近づけた。
「……」
冬はまた少し迷って、結局、軽く身をかがめてぱくりと食べた。
「……おいしい」
もぐもぐしながら、冬が感想を言う。
「でしょ、でしょ!」
満足して、私は笑った。冬の新しい一面が見られたなんて、今日はきっと一日いい日になる。根拠もなく、そう信じていた。
「ところでさ、夏」
冬がコーヒーカップを置いて、私のお皿に視線を落とす。
「お皿に、野菜が一枚もないんだけど」
「……!」
固まった私に、冬の視線がさらに鋭くなった。
「昨日の夜も、こうだったよね」
「そ、それは、野菜よりパンケーキのほうがおいしいから……!」
慌てて言い訳をする。冬のやつ、絶対根に持ってる!
「野菜を食べないと、背が伸びないよ」
冬は自分のお皿から野菜を少し取り分けてくれた。私はそれをフォークで刺して、冬のお皿に返す。
「もう十分高いもん!」
冬はそれ以上言い返さず、黙って席を立った。しばらくして戻ってくると、小さなお皿に載せたサラダを、私の前にそっと置く。しかも、私の好きなドレッシングが、ほんのちょっぴりだけかけてあった。
気が利くのが、ちょっと悔しい。
「せめて半分は食べて」
冬が、怖い笑顔を浮かべる。どうやら、私に拒否権はないらしい。
「……冬は意地悪なお兄ちゃんだ」
頬をふくらませて文句を言うと、冬が苦笑した。
「はいはい。まったく、普段は朝のサラダ、ちゃんと全部食べてるのにね」
私は、思ったままを口にする。
「だって、あれは冬が作ってくれたやつだもん。どんなに嫌いでも、全部食べるよ」
言ってから、ちらっと目を上げて冬を見た。その表情に、私はびっくりしてしまう。
冬が、赤くなっていた。耳までじわじわ赤くなっていく。どうして? 私、何か言った? もしかして――。
「冬、照れてる?」
「……!」
図星だったみたいに、冬の肩がびくっと跳ねた。それから、何でもないふうを装って言う。
「そ、そんなわけないでしょ? 夏も父さんも母さんも、いつも僕の料理をおいしいって言ってくれるし、もう慣れてるよ! それより、僕のことはいいから、早く朝ごはん食べなよ!」
うん、確信した。絶対に照れてる。
見たことのない感情が、胸の奥から浮かび上がってきた。何かのスイッチを入れられたみたいだ。もっと見たい、冬のこういう顔! もしかして冬って、実は防御力低め? かわいすぎない!?
うつむいて、口の中のレタスを力いっぱいかみしめる。味なんてまるで分からない。頭の中は、もっと大事なこと(冬)でいっぱいだった。
「夏、どうしたの? 変な顔してるけど」
さっきの話はもう終わったと思ったのか、冬が話題を変えようとする。
「な、なんでもない! シロップが甘すぎただけ!」
(今かんでるの、レタスなんだけどね)
慌てて言い訳をすると、冬は首をかしげた。
「シロップって、そんな顔になるものなの……?」
「なるの!」
冬は「よく分からないけど、まあいいか」という顔をして、それ以上は聞いてこなかった。
この新しい気持ちをごまかしたくて、冬の前にあるカップを指さす。
「冬、何飲んでるの?」
「ブラックコーヒー。夏は飲めないと思うよ」
「ひと口ちょうだい」
「苦いよ?」
「平気だもん!」
冬は少し迷ってから、カップを差し出してくれた。
私は冬の真似をして足を組み、余裕たっぷりの顔でひと口すすった――次の瞬間、顔のパーツが全部ぎゅっと真ん中に寄った。
「ぷはっ……に、苦い……! なにこれ!」
味なんて全然分からない! ただ苦くて渋いだけ! 昨日の「大人の一杯」みたい。
「だから言ったのに」
冬は笑いをこらえながら、水の入ったグラスを差し出してくれた。私は涙目で受け取って、ごくごくと飲み干す。
「……コーヒーは、大人になってからにする」
「それがいいよ」
冬はくすくす笑って、自分のカップに口をつけた。涼しい顔でブラックを飲めるなんて、やっぱりずるい。
「そうだ、夏。今日は、どこか行きたいところある? せっかく山に来たんだし、山でしかできないことをしよう」
そう聞かれて、私はフォークを握ったまま、窓の外の緑を見つめた。
……行きたいところ、したいこと。
ひとつだけ、ずっと憧れていたものがある。




