↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/29

旅行2日目

「んぅ……んん……」


 ゆっくりと目を開けて、布団の中で大きく伸びをしてから、のろのろと体を起こした。


 カーテンの隙間から差し込んだ陽射しが、布団の上にそっと落ちている。白いシーツが、ほんのり金色に染まって見えた。


 今日はやけに、頭がすっきりしている。久しぶりにぐっすり眠れたからだろう。悪い夢も見なかったし、夜中に飛び起きることもなかった。そのまま、朝まで一度も目を覚まさずに。


 昨日の幸せが、まだ胸の奥にあふれている。確かめるみたいに、そっと胸に手を当ててみた。


 たしか、冬の腕の中で眠ったんだっけ。思い出して、「えへへ」と変な笑いがこぼれてしまう。名前は「冬」なのに、体はびっくりするくらいあったかいんだから。


 枕元のスマホを手に取ると、画面がぱっと明るくなった。六時五十二分。朝食の時間まで、まだ三十分以上ある。


 それなら……もうちょっとだけ、二度寝しちゃおうかな。身支度なんて、急げばすぐ終わるし。うん、そうしよう。


 心の中で自問自答して、満足げに布団へ潜り直す。ついでに、冬の胸をもう少し堪能しちゃおう――。


「ん?」


 そこにいるはずの人を探して手を伸ばしたのに、指先に触れたのは、ひんやりしたシーツだけだった。


 誰もいない。冬が、いない。


 眠気は一瞬で、跡形もなく吹き飛んだ。ひとりぼっちの感覚と焦りが、潮が満ちるみたいに、いちどきに胸まで押し寄せてくる。


 慌てて布団をはねのけて、よろけながらベッドから飛び降りた。部屋中に視線を走らせる。枕元のテーブルでは、二羽のガラスの小鳥が寄り添っているだけ。窓辺にも、冬のリュックの横にもいない……。


 ――冬のいない世界なんて、考えられない。


「冬、どこ? 冬!」


 頭の中がぐちゃぐちゃだ。お願い、早く出てきて。もう、私を置いていかないで。


「ん? 夏、起きたの? もしかして、僕が起きたときに起こしちゃった?」


 浴室のほうから、声がした。はっと振り向くと、ドアの陰から冬が半身だけ覗かせている。寝ぐせで髪が少し跳ねていて、口には歯ブラシをくわえ、唇の端に白い泡をつけていた。


 私は何も言わずに駆け出して、そのまま冬の胸に飛び込み、ぎゅっと抱きついた。


「むぐっ!?」


 不意打ちをくらった冬の体がぐらりと揺れて、歯ブラシが口から落ちそうになる。それでも冬はしっかり踏みとどまって、私を押し返したりせず、ただ好きなだけ抱きつかせてくれた。


 ミントの歯磨き粉の匂いが、ふわりと鼻先をかすめる。何でもない、ありふれた匂いなのに、どうしてか安心してしまった。


「どうしたの?」


 もごもごした声で言いながら、冬の手が、私の頭をそっと撫でる。小さい子をあやすみたいに。


「だ、だって……冬が、いなくなっちゃったのかと思って……」


 冬の服に顔をうずめているせいで、声がくぐもった。言い終えてから、自分がどれだけ子供っぽいことを言ったのか気づく。お兄ちゃんから離れられない妹みたい。それでも、手だけはどうしても離せなかった。


 冬は少しのあいだ、黙っていた。きっと、私がどうしてそんなことを思ったのか、分かっていないんだろう。それでも何も聞かずに、歯ブラシを口から外して、しゃがんで私と目線を合わせてくれた。


「約束する。夏を置いて、急にいなくなったりしないよ」


 誓いを立てるみたいに、真剣な声だった。


「だから安心して。僕はずっとここにいるから」


「……ほんとに?」


「ほんと。指切り、する?」


「……もう子供じゃないってば」


 そう言いながらも、私は小指を差し出して、冬の指にそっと絡めた。胸につかえていた重たい石が、ようやくゆっくりとほどけていく。


 冬が歯磨きを終えるのを待って、私も顔を洗った。それから、二人並んで鏡の前に立つ。


 洗面台には、歯ブラシが二本、仲良く並んでいた。一本は私の、もう一本は冬の。ただそれだけのことなのに、なぜか胸のあたりがふわっと軽くなる。


 鏡の中には、寝ぐせ頭の私と、同じように眠そうな目をした冬が、肩を並べていた。まるで――ううん、その先は、まだ言わないでおこう。


 ふと、気づいた。


 冬が、鏡の中の自分を見ている。いつもなら、洗面台の鏡からわざと目をそらしているのに。


「……不思議だね。夏が隣にいると、鏡を見ても、あんまり怖くないんだ」


 小さな声だった。どういう意味なのか聞き返そうとした、そのとき。


 冬がふっと視線を外して、鏡越しに私を見た。笑いをこらえながら、手を伸ばしてくる。


「夏、髪が跳ねてるよ。ここ。この毛束」


「跳ねてたって、私は美少女なんだから」


 当然みたいに言い切ると、「はいはい。動かないで、直してあげる」と返ってきた。


 指先が、頭のてっぺんにそっと触れる。私はおとなしく立ったまま、冬に髪を整えてもらった。


 あの毛束は、冬の手の下で何度も頑固にぴょんと跳ね返ってきて、なんだか申し訳なくなってくる。それでも最後には、濡らした指先で観念させられた。


「できた」


 鏡の中の私を見て、冬が満足そうに言う。


「ありがと」


 鏡に映る自分を見つめる。いつもどおりの、ちょっぴり自信ありげな顔。顔色も、さっきよりずっといい。


*


 着替えを済ませると、時計はちょうど七時三十分だった。


 部屋を出て、分厚い絨毯の敷かれた廊下を、レストランのほうへ歩いていく。こっそり手を伸ばして、冬の服の裾をつまんだ。前はもっと堂々と腕に抱きついていたのに、いつの間にか、こんな控えめなつかみ方になってしまった。


 冬は私の手元をちらっと見ただけで何も言わず、歩幅を少しだけ緩めて、私の速さに合わせてくれた。


 レストランの扉を開けた瞬間、思わず「わぁ」と小さな声が漏れる。


 昨日の夜とは、まるで別の場所みたいだった。同じテーブル、同じ椅子なのに、昨夜は暖かい橙色の明かりに包まれて、にぎやかで少しけだるい空気が流れていた。今は、一面の大きな窓から陽射しが降り注いで、カーテンを通り抜けたやわらかな光が、店内を穏やかに満たしている。


 食器の触れ合う音はかすかで、お客さんたちの話し声も低く抑えられていて、まるで誰もいないみたいに静かだった。


「きれい……」


 思わず、小さくつぶやく。


「うん、そうだね」


 冬も、窓の外を見ている。


「ゆっくり朝ごはんを食べるのに、ぴったりだ」


 私たちは、窓際の二人掛けの席を選んで座った。


 朝食はビュッフェ形式。長いカウンターに、いろんな料理がずらりと並んでいる。焼きたてのパンからはバターのあったかい香りが立ちのぼり、黄金色のスクランブルエッグの隣には、少し焦げ目がつくまで焼いたベーコンと小さなソーセージ。反対側にはサラダとフルーツ、白い湯気の立つ大きな鍋のスープもあった。


 いちばん奥の隅では、コックさんが鉄板の前に立って、パンケーキを焼いている。


 パンケーキ! 私の目が、一瞬でぱっと輝いた。鉄板で焼きたてのやつだ! 冬のパンケーキがいちばんなのは決まってるけど、これは別腹……!


「冬、ごはん取ってくる!」


 言い終わる前に、私はもうお皿を持って飛び出していた。


「あ、夏、ゆっくり、走らな――」


 冬の声が聞こえた気もするけど、今の私はお腹をすかせた野獣なのだ。野獣。


 十分後。山みたいに盛ったお皿を持って、私はふらふらと席に戻ってきた。ほかほか湯気の立つパンケーキが二枚、たっぷりのメープルシロップがかかっていて、横にはスクランブルエッグとソーセージ、それからクロワッサンがひとつ。


 冬はとっくに席に着いていた。冬のお皿は、私のよりずっと整っている。トースト一枚に、少なめのスクランブルエッグ、トマトが数切れとレタス。それと、湯気の立つブラックコーヒー。


 冬は私のお皿を見て、それから私を見た。


「……夏、取りすぎじゃない? 僕が手伝っても、食べきれないと思うよ」


「そんなことないもん! 全部食べられるから!」


 ……たぶん。がんばるし。食べ物を粗末にするのはよくないもんね。


 後ろめたくて目をそらしながら、パンケーキをひと切れフォークで刺して、口に運んだ。表面はほんのりカリッとしていて、中はふわふわ。甘いメープルシロップが舌の上でとろけて、思わず目を細めてしまう。


「おいしい……」


 そんな私を見て、冬は呆れたように笑った。


「まったく、幸せそうな顔しちゃって」


 そう言って、冬も自分の朝食に手をつけはじめる。


「だって本当においしいんだもん! 冬もひと口食べてみて、ほら、あーん」


 切り分けたばかりのひと切れをフォークに刺して、冬の口元へ差し出した。冬はきょとんとして、フォークと私の顔のあいだで、視線を二往復させる。私の耳が、じわじわ熱くなってきた。ちょっと積極的すぎたかな?


「……まわりに人がいるから」


 冬が、照れたように言う。


「誰も見てないってば」


 こんな冬、新鮮だ。ふと、からかってみたい気持ちが湧いてきた。いつもドキドキさせられているのは私のほうなんだから、仕返しに、冬のことも困らせてやりたい。


 もう一度「あーん」と言って、フォークをさっきよりぐっと近づけた。


「……」


 冬はまた少し迷って、結局、軽く身をかがめてぱくりと食べた。


「……おいしい」


 もぐもぐしながら、冬が感想を言う。


「でしょ、でしょ!」


 満足して、私は笑った。冬の新しい一面が見られたなんて、今日はきっと一日いい日になる。根拠もなく、そう信じていた。


「ところでさ、夏」


 冬がコーヒーカップを置いて、私のお皿に視線を落とす。


「お皿に、野菜が一枚もないんだけど」


「……!」


 固まった私に、冬の視線がさらに鋭くなった。


「昨日の夜も、こうだったよね」


「そ、それは、野菜よりパンケーキのほうがおいしいから……!」


 慌てて言い訳をする。冬のやつ、絶対根に持ってる!


「野菜を食べないと、背が伸びないよ」


 冬は自分のお皿から野菜を少し取り分けてくれた。私はそれをフォークで刺して、冬のお皿に返す。


「もう十分高いもん!」


 冬はそれ以上言い返さず、黙って席を立った。しばらくして戻ってくると、小さなお皿に載せたサラダを、私の前にそっと置く。しかも、私の好きなドレッシングが、ほんのちょっぴりだけかけてあった。


 気が利くのが、ちょっと悔しい。


「せめて半分は食べて」


 冬が、怖い笑顔を浮かべる。どうやら、私に拒否権はないらしい。


「……冬は意地悪なお兄ちゃんだ」


 頬をふくらませて文句を言うと、冬が苦笑した。


「はいはい。まったく、普段は朝のサラダ、ちゃんと全部食べてるのにね」


 私は、思ったままを口にする。


「だって、あれは冬が作ってくれたやつだもん。どんなに嫌いでも、全部食べるよ」


 言ってから、ちらっと目を上げて冬を見た。その表情に、私はびっくりしてしまう。


 冬が、赤くなっていた。耳までじわじわ赤くなっていく。どうして? 私、何か言った? もしかして――。


「冬、照れてる?」


「……!」


 図星だったみたいに、冬の肩がびくっと跳ねた。それから、何でもないふうを装って言う。


「そ、そんなわけないでしょ? 夏も父さんも母さんも、いつも僕の料理をおいしいって言ってくれるし、もう慣れてるよ! それより、僕のことはいいから、早く朝ごはん食べなよ!」


 うん、確信した。絶対に照れてる。


 見たことのない感情が、胸の奥から浮かび上がってきた。何かのスイッチを入れられたみたいだ。もっと見たい、冬のこういう顔! もしかして冬って、実は防御力低め? かわいすぎない!?


 うつむいて、口の中のレタスを力いっぱいかみしめる。味なんてまるで分からない。頭の中は、もっと大事なこと(冬)でいっぱいだった。


「夏、どうしたの? 変な顔してるけど」


 さっきの話はもう終わったと思ったのか、冬が話題を変えようとする。


「な、なんでもない! シロップが甘すぎただけ!」


(今かんでるの、レタスなんだけどね)


 慌てて言い訳をすると、冬は首をかしげた。


「シロップって、そんな顔になるものなの……?」


「なるの!」


 冬は「よく分からないけど、まあいいか」という顔をして、それ以上は聞いてこなかった。


 この新しい気持ちをごまかしたくて、冬の前にあるカップを指さす。


「冬、何飲んでるの?」


「ブラックコーヒー。夏は飲めないと思うよ」


「ひと口ちょうだい」


「苦いよ?」


「平気だもん!」


 冬は少し迷ってから、カップを差し出してくれた。


 私は冬の真似をして足を組み、余裕たっぷりの顔でひと口すすった――次の瞬間、顔のパーツが全部ぎゅっと真ん中に寄った。


「ぷはっ……に、苦い……! なにこれ!」


 味なんて全然分からない! ただ苦くて渋いだけ! 昨日の「大人の一杯」みたい。


「だから言ったのに」


 冬は笑いをこらえながら、水の入ったグラスを差し出してくれた。私は涙目で受け取って、ごくごくと飲み干す。


「……コーヒーは、大人になってからにする」


「それがいいよ」


 冬はくすくす笑って、自分のカップに口をつけた。涼しい顔でブラックを飲めるなんて、やっぱりずるい。


「そうだ、夏。今日は、どこか行きたいところある? せっかく山に来たんだし、山でしかできないことをしよう」


 そう聞かれて、私はフォークを握ったまま、窓の外の緑を見つめた。


 ……行きたいところ、したいこと。


 ひとつだけ、ずっと憧れていたものがある。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。