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夏の日常(前編)

『ジリリリ――! ジリリリ――!』


「んっ……うるさいなぁ……」


 けたたましいアラームにイライラしながら、目覚まし時計を止めようと手を伸ばす。右手で枕元をぱたぱた探ってみるけど、いつものあの手触りが見つからない。


「もー、めんどくさっ!」


 仕方なく、あったかいお布団様に別れを告げて、重たい体を起こした。


「おかしいなぁ……絶対このへんで鳴ってるのに」


 眉をひそめて、枕元をじろりと睨む。まったく、朝からツイてない。

 アラームはますます大きくなっていく。焦って手を速めると――ついに、枕カバーの中から、あの憎たらしい目覚まし時計が出てきた。

 スイッチを切ると、部屋にようやく静けさが戻ってくる……。


 ん? 枕カバーの中? 目覚まし時計が?


 いったいどんな寝相をしたら、枕元の時計が枕カバーの中に入るわけ……?

 もしかして私、自分でも知らなかったとんでもない才能に、うっかり目覚めちゃったのかも。

 ……なんて動揺したのも束の間。次の瞬間にはもうどうでもよくなって、私は洗面所へ向かった。


 洗面所に着いたら、まずは歯磨き。そのあいだに、着替えの服も手の届くところに用意しておく。こうすれば、顔を洗ったらすぐ着替えられる、って算段だ。

 歯をていねいに磨いて、水でさっと顔を洗い、タオルで頬を拭く。その瞬間、鏡の中の自分とばっちり目が合った。


「んー、このつるつるで真っ白なお肌! このお姉さんが普段ノーメイクだなんて、信じられないよね〜」


 テレビの司会者にでもなった気分で、自分の顔をじっくり観察。大満足の評価を下す。


「それにこの肩までの髪! 寝起きなのに、このまとまりとツヤをキープしてるなんて……!」


 髪をひと束つまんで、うっとりする。

 ……まあ、冬は根っからのロングヘア派なんだけど。私は肩までのほうが似合うと思うんだよね。でも、いちばん大好きな冬のためなら仕方ない。今日からまた伸ばすって、決めたんだから。


「おまけにこの目! なんて生き生きした瞳なの! よく『死んだ魚みたいな目』って言われるけどさ! それにこのスッと通った鼻! 小さな唇! この女、完璧すぎる……!」


 だめだ、自分の美貌にうっとりしすぎて、足の力が抜けそう。

 これじゃ冬が私にメロメロになって、もう後戻りできなくなる日も、そう遠くないかも!


 そんなことを考えてこっそりニヤニヤしながら着替える。鏡の前で身だしなみをざっとチェックして、リビングへ向かった。


「お父さん、おはよー」


 リビングに入ると、新聞を読んでいるお父さんが目に入った。

 これが完璧な遺伝子ってやつなのかな? お父さんの端正な顔立ちは、どう見ても四十代には見えない。冬と街を歩いていると、よく兄弟に間違われるくらいだ(まあ、お父さんの背がちょっと低いせいもあるかもしれないけど)。


 ふふん、お父さん。その遺伝子、冬にはちゃんと受け継がれてるからね!

 ちなみに私の美貌は、お母さん譲りだけど。


「夏、おはよう。冬と母さんは、もう出かけたよ。朝ご飯は冬が用意してくれてる。今日はパンケーキだ」


 そう言うお父さんの顔には、満足そうな余韻が残っていた。きっと、冬の料理の腕が、相変わらずプロ級だったからだろう。


 前はお母さんの担当だった朝ご飯は、いつの間にか冬の担当になっていた。そのおかげで、毎朝のご飯が家族みんなの楽しみになっている。冬は冷蔵庫のありあわせだけで、いつも絶品料理を作っちゃうのだ。料理教室に通ったわけでもないのに。

 だって冬は天才だから、なんでもできちゃうのだ。


 そんな冬を誇らしく思いながら、私は朝ご飯を食べにキッチンへ向かった。


 冷蔵庫には、ラップをかけたお皿が入っていた。レンジで軽く温め直すと、パンケーキの甘いミルクの香りが、ふわりと鼻をくすぐる。


「うおぉ……」


 思わず声がもれた。

 見た目こそ飾り気のない、素朴なパンケーキだ。でも、キャラメル色に焼けたふちや、うっすら浮かんだ気泡に、手作りのていねいさがにじんでいる。粉砂糖が雪みたいに降りかかっていて、そばにはベリーがひと盛り。てっぺんには、真っ赤なイチゴが一粒、ちょこんとのっていた。


 ナイフでひと口大に切って、そっと口に運ぶ。

 ふんわりやわらかな生地が舌の上でほどけて、卵とミルクのやさしい甘さが広がった。そこへベリーの甘酸っぱさが追いかけてきて、最後にイチゴの酸味が、全体をきゅっと引き締める。


「……おいしすぎる」


 朝のイライラは、すっかりどこかへ消えてしまった。お父さんがあんなに幸せそうな顔をしていた理由にも、完全に納得だ。


 大満足で食器を片づけてキッチンを出ると、ちょうどお父さんが出かける支度をしていた。


「おいしかったろ? 冬は本当にすごいよなぁ。夏も早く支度しろよ、出るぞ!」


 急かされて、私は慌ててスクールバッグをつかみ、車に乗り込んだ。


 窓の外の景色は、いつもどおりだった。野菜を買いに来るおばあちゃんも、公園で将棋を指しているおじいちゃんたちも、私が初めて見た日から何ひとつ変わっていない。

 それが、なんだか無性に安心する。

 私は、変わらないものが好きなのだ。日常も、人間関係も。


 駅に着いて車を降り、お父さんに手を振る。


「お父さん、いってきまーす!」


 慣れた足取りで改札を抜けて、学校へ向かう電車に乗り込んだ。

 電車で本を読む習慣のない私は、すぐに眠気に襲われる。ここはもう、睡眠を補給するしかない。


 電車を乗り継いで学校の最寄り駅に着くと、私は足早に歩き出した。

 校門をくぐると、私と同じように憂鬱そうな顔をした生徒たちが、それぞれの教室へ吸い込まれていく。


 教室に入って、クラスメートに軽く挨拶しながら自分の席へ。

 腰を下ろした瞬間、背中をツンツンとつつかれた。振り返るまでもなく、誰なのかは分かっている。

 それでも振り返って、つついてきた女の子に声をかけた。


「おはよ、春鈴(はるりん)」

「おはよー! なっちゃ〜ん!」


 私の(自分ではそう思ってないけど)死んだ魚みたいな目とは正反対に、春鈴の瞳はいつだってキラキラしていて、見ているだけで元気をもらえそうだ。

 その瞳によく映えるのが、少しブリーチした、ふわふわのカフェオレ色のロングヘア。ファッションもネイルも完璧で、全身から「私、めちゃくちゃキラキラした女子高生やってます!」というオーラがあふれている。


 春鈴は、私が高校に入って初めてできた友達だ。こんなに明るい子と友達になれて、本当に嬉しいと思っている。


「今日のなっちゃんもかわいいねぇ〜! ひと口かじっちゃいたい!」


 朝っぱらから、春鈴はよく通る声でそんなことを言い出した。


「そう? 春鈴にそう言ってもらえるなんて光栄だなぁ」


 私は完全な棒読みで、適当にあしらう。


「んもう、私、なっちゃんのこと本当に大好き! なっちゃん、私と結婚して!」


 ちょっ、クラスの男子たちがこっちをチラチラ見てるんですけど!

 春鈴のやつ、この教室を百合の楽園にでもするつもり?


「だめだよ。私には、結婚を誓ったお兄ちゃんがいるから」


 とりあえず黙らせようと、私はそう言い返した。


「……」


 ん? あれ、春鈴? なんでそんな、言葉を失ったみたいな目でこっちを見てるの? 私、なんか変なこと言った?

 他の子たちまで、なんでそんな生あたたかい目で見てるわけ?


「なんていうか……なっちゃんって、すごいブラコンだよね!」


 春鈴はすぐにいつもの調子を取り戻して、ゴシップでも見つけたみたいに楽しそうに笑った。


「そう? ごく普通のことを言ってるつもりだけど。だって、お兄ちゃんは私だけのものだもん」


 ……やばい、春鈴の目が、さっきの「引いた目」に戻りかけてる。頼むからやめて。


「へぇ〜、なっちゃんをそこまで夢中にさせるお兄ちゃんかぁ。ちょっと会ってみたいな」


 春鈴は小首をかしげて、興味津々の顔で言った。


「っ! お兄ちゃんに会いたいって? 本当に!?」


 体のどこかのスイッチがカチリと入って、私のテンションは一気に跳ね上がった。

 あの冬に会いたいだって? 春鈴、あんた、なかなか見る目あるじゃん!


「うん!」


 春鈴も、私の勢いに応えるように、ぐっと顔を近づけてくる。


「なっちゃんのお兄ちゃんのこと、もっといろいろ聞いてみたいな!」

「ふふん。私のお兄ちゃんを知りたいなら、まずは幼少期の伝説から語らねばなるまい……!」


 そこから私は、冬の幼少期の偉業を熱く語り始めた。担任の先生が入ってきて、一時間目が始まるまで、ずっと。


「時の流れって残酷だなぁ……まだ四歳の頃の話しか語れてないのに」


 名残惜しく思ったところで、ハッと我に返った。

 ――こんなに熱く語っちゃって、春鈴、絶対引いたよね……?


 申し訳なくなって、謝ろうとした、そのとき。

 目に飛び込んできたのは、さっきよりさらに好奇心でキラキラしている春鈴の顔だった。


「めちゃくちゃ面白いじゃん! なっちゃんのお兄ちゃんの話、もっと聞かせてよ! あとで絶対続き教えてよね? 私、本人にもすごく会ってみたくなってきた!」

「うん、今度ひまなときに、うちへ遊びにおいでよ!」


 そんなふうに軽く約束してから、私は真面目に授業を受け始めた。

 なぜか今日の授業は、いつもよりずっと楽しく感じられた。




 長〜い一日の授業を乗り越えて、ついに待ちに待った放課後!

 カバンをまとめて、春鈴と一緒に駅へ向かう。


 道すがらも、私は相変わらず冬の話を熱く語り続け、春鈴はうんうんと相づちを打ちながら聞いてくれた。電車の中でも、私の「冬の偉業」語りは止まらない。


 春鈴とは、乗り換えのターミナル駅まで一緒だ。改札の前で、別の路線へ向かう春鈴に手を振って別れる。

 さて、私も帰ろうか――そう思った、その瞬間。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。

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