君と私の序章
温かい血が、流れている。
見えない大きな力に背中を押されて、気づけば私は、前へ、前へと進んでいた。
押されて、押されて――やがて、視界の先に強い光が差し込んだ。
「う……あ……あああ……! おぎゃああああ……!」
「おめでとうございます、元気な女の子ですよ!」
赤ん坊を取り上げた助産師さんが、明るい声で告げた。
「ふう……よかった。本当にお疲れさま」
そう言ったのは、どこか幼さの残る、端正な顔立ちの男の人だった。額には玉の汗。どれだけ緊張していたのか、ひと目で分かる。
「ええ……」
ベッドに横たわる女の人は、夫よりもずっと汗だくだった。顔には深い疲れがにじんでいる。ついさっきまで命がけで戦っていたのだから、無理もない。
「ねえ、あなた。早くこの子を見てあげて。名前も決めなきゃ」
女の人は、おろおろしている夫を促した。
実を言えば、二人が籍を入れたのは、ほんの先月のことだ。身重の母と、幼い息子を連れた父。血の繋がらない者同士が寄り集まってできた、再婚家庭だった。
「あ、ああ、そうだね。冬、おまえも早く妹を見においで」
男の人は、腕に抱いた息子に優しく声をかけた。
二歳になったばかりの冬は、まだうまく言葉を話せない。「あー、うー」と、あどけない声を上げるだけだ。
「名前か……いろいろ考えたんだけど、どれもピンとこなくてさ」
男の人は、困ったように頭をかいた。
「ふふ、この子の一生がかかってるんだもの」
出産を終えたばかりだというのに、女の人は楽しそうに名前選びに付き合っている。そのやり取りは長年連れ添った夫婦みたいで、結婚してひと月だなんて、とても思えなかった。
「名前……か」
男の人は考え込んだ。生まれたばかりの赤ん坊にふと目を向けたとき、何かがひらめいたらしい。
「そうだ!」
ぱっと目を輝かせて、腕の中の息子に笑いかける。
「おまえが冬なら……この子は――」
――「夏」にしよう。
運命の糸が、ゆっくりと紡がれはじめる。
冬と夏。ふたりの物語は、こうして静かに幕を開けた。
私は、夢を見ている。
夢の中で、冬と過ごした日々がよみがえっていた。
あれはたしか、私が五歳で、冬が七歳のとき。私たちは公園で、近所の子たちとごっこ遊びをしていた。私は囚われのお姫様で、冬はお姫様を助け出す勇者。ちょうど、悪いドラゴンと大立ち回りの真っ最中だった。
「お兄ちゃん、助けて!」
幼い声で叫ぶ。小さかった私には、遊びと本当のことの区別がうまくつかなかったのかもしれない。声は少し震えていて、目には涙まで浮かんでいた。
冬は、今にも泣き出しそうな私の顔に気づいたんだと思う。私を背中にかばって立つと、にっと笑った。
「大丈夫だよ。僕が絶対、夏を守るから!」
言うが早いか、冬は本物のヒーローみたいに飛び出していった。
大人から見れば、他愛のない子どもの遊びだったのかもしれない。でも、そのときの私は、胸がどきどきして仕方なかった。だって、どう見てもヒーローだったから。
戦い――という名の遊び――がひと段落すると、冬は肩で息をしながら、私のところへ戻ってきた。そして大げさに頭を下げて、片膝をつく。
「僕のお姫様! 悪いドラゴンをやっつけて、戻ってきました!」
私は跳ねるように立ち上がって、冬に抱きついた。
「お兄ちゃん、すごい!」
ぎゅっと抱きついた勢いのまま、くるりと一回転する。
「へへっ、僕、かっこよかったでしょ!」
冬も私を抱き返して、誇らしげに笑った。
次の瞬間、私は顔を上げて、そっと冬に顔を近づけた。
「どうしたの?」
不思議そうに首をかしげる冬。鈍いなぁ、と呆れたふりをして、私は唇を尖らせた。
「お姫様が、勇者にごほうびをあげるの! お姫様はね、勇者さまにちゅーしてあげることにしたの!」
そう言って、さらに顔を近づける。
冬も顔を寄せてくれるのを、私は待っていた。ところが――冬は、私のおでこをコツンと小突いただけだった。
「痛っ!? お兄ちゃん、なにするの!?」
本当は全然痛くなかった。けれど私は、大げさにおでこを押さえてしゃがみ込み、泣きそうなふりをした。
冬は私と目の高さを合わせてしゃがむと、小突いたばかりのおでこを優しく撫でてくれた。ごめんね、って言うみたいに。
「お姫様はね、勇者のごほうびじゃないんだよ」
「え……?」
「誰を好きになるかは、お姫様が自分で決めていいんだ。だからちゅーも、ごほうびであげるものじゃないの。そんなに簡単にしちゃダメなんだよ」
今思えば、絵本か何かの受け売りだったのかもしれない。けれど、あのときの私には、世界でいちばん大事な教えに聞こえた。
「どうして? じゃあ、だれとならしてもいいの?」
わけが分からなくて、私は食い下がった。
冬は少し考えてから答えた。
「うーん……大好きな人、かな……?」
「だって私、お兄ちゃんのことがいちばん大好きだよ?」
迷わず聞き返す。それは、疑いようのない本当のことだったから。
「そういう『好き』とは、ちょっと違うんだ。いつか夏にも、好きで好きでたまらなくなる人が現れるよ。心から愛せる人がね。ちゅーは、そういう人とするものなんだ」
自分に言い聞かせるみたいに、どこか自信なさげに。それでも冬は、分かりやすく教えてくれた。
「あい……?」
「うん、そうだよ」
冬は片膝をついたまま、真剣な目をした。
「夏が、いつか大好きな人を見つけられますように。その人も、夏のことを同じくらい愛してくれて、ずっとずっと幸せに暮らせますように」
「じゃあ、もしその人がお兄ちゃんだったら? お兄ちゃんが、私の王子様だったら?」
冬は、一瞬だけ黙った。
「……もし夏が大きくなっても、まだ僕のことを好きでいてくれたら。そのときは、ずっと一緒にいよう。僕と一緒に、幸せになろっか」
そう言って、私の頬にそっと手を添えてくれた。
「私、ずっとお兄ちゃんのこと好きだよ! お兄ちゃん、私が大きくなるまで待っててね。ぜったいお嫁さんにしてね!」
私は冬と小指を絡めて、約束を交わした。冬も、私をなだめるみたいに、その小指をきゅっと握り返してくれた。
あの頃の私は幼すぎて、この約束がどれほど無茶なものなのか、知らなかった。
冬のあどけない顔に一瞬よぎった、悲しげな影にも――気づけなかった。
幼い日の記憶は、そこで途切れる。
――それから、長い年月が過ぎた。
私がずっと見つめてきたその背中は、少しずつたくましく、頼もしくなっていった。何度吹き荒れた嵐からも、私を守ってくれた。
そして私は、今でも――冬が好きだ。
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