星とあなた
スマホのアラームが鳴って初めて、時刻がもう六時半になっていると気づいた。
私は慌ててベッドから飛び降りて、ぐっすり眠っている冬を揺すって起こした。手早く身支度を済ませて、レストランへ向かう。
ホテルのレストランは二階にあった。入口の扉はすでに開け放たれていて、中にはたくさんの人が席に着いている。入口の手前には小さなカウンターがあって、中に入って食事をするには、そこでスタッフの方にカードキーを見せなければならなかった。
レストランの照明はやわらかく落とされていて、耳に心地いい音楽が流れている。それだけじゃない。どのテーブルにも小さなキャンドルが灯されていて、恋人同士でディナーを楽しむのにぴったりな雰囲気だった。
……こっそり冬のほうをうかがって、その瞳に、いつもとは違う感情がほんの少しでも浮かんでいないかと探してみる。けれど冬は全然気にしていない様子で、ほかのお客さんのテーブルに並ぶ凝った料理を、ひたすら目で追っていた。
(花より団子、というやつだ。……私は花のほうだよね?)
私たちは、窓際の最高の席に案内された。澄んだガラス越しに、谷一面の夜景がちょうどよく見渡せる。
席まで案内してくれたスタッフの方が、メニューを差し出してくれた。まだ二ページめくっただけなのに、いろんな料理の名前に目移りしてしまって、何を頼もうか迷っていると、冬が口を開いた。
「すみません、僕、海鮮のアレルギーがあるんですけど、このスープには海鮮系の食材は入っていますか?」
スタッフの方は、使っている食材について丁寧に説明してくれた。幸い、冬が頼みたかった料理には、海鮮は使われていないらしい。
私は頬杖をついて、真剣に説明を聞いている冬の横顔に、ぼうっと見とれていた。
結局、私は看板メニューの「帆立のレモンバターソテー」とシーフードリゾット、冬は炭火焼きの牛ショートリブを頼んだ。それに山野の季節野菜のポタージュと手作りパンも加えて、二人で分け合うことにする。
最初に運ばれてきたのは、パンだった。
焼きたての小さな丸パンは、まだほかほかと湯気を立てていて、皮はこんがりさくさくに焼き上がっている。手でちぎると、中は白くてふんわりしていた。淡い黄色のバターをひと塗りすると、バターはゆっくり溶けて、パンの中へじわっと染み込んでいく。
ぱくりとかじると、小麦の香ばしさとバターのミルキーな香りが、口いっぱいに広がった。最初の一品に、ぴったりだ。
続いて、ポタージュ。
淡い緑色のスープの表面には、オリーブオイルがくるりと一周かけられている。スプーンですくってひと口飲むと、山菜ならではのやさしい甘みと、ほんのりナッツみたいな香りがした。お昼に食べた山菜そばのことを思い出す。飲み込んだ瞬間、お腹の底がじんわりと温まった。
そして、いよいよ今日の主役の登場だ。
真っ白なお皿の中央に、黄金色の帆立が三つ。表面には薄くカラメル色の香ばしい焼き目がついていて、淡い黄色のソースがかけられ、脇には鮮やかな緑のレタスが数枚添えられている。
ナイフとフォークを手に取って、そっと切り分ける。帆立の中は半透明の白で、待ちきれずに口へ運んだ。
外側はほんのりカリッとしているのに、中はプリンみたいにとろりとやわらかい。帆立の旨みが舌の上でほどけて、レモンバターソースの爽やかな酸味と香りが、それをさらに引き立てる。口の中が一瞬で、さっぱりとした甘い旨みでいっぱいになった。
「うぅぅ……おいしいぃ……」
両手で頬を押さえて、幸せのあまり、とろけてしまいそうだった。
隣のシーフードリゾットも負けていない。お米の一粒一粒が、いろんな魚介の旨みをたっぷり吸い込んでいて、エビとあさりの香りが濃厚だ。仕上げにとろけたチーズがかかっていて、口に入れた瞬間、幾重にも重なる食感とミルクの風味が広がる。
「お兄ちゃんが食べられないの、残念だなぁ……」
お皿の上の帆立を見つめて、ちょっぴり残念な気持ちになっていると、冬が笑った。
「あはは、夏がおいしそうに食べてくれるだけで、僕は十分だよ」
そう言いながら、牛ショートリブをひと切れ切り分けて、私のお皿の端にのせてくれる。
「こっちもおいしいよ、食べてみて!」
ほんのり焦げ目がついて肉汁が滴るお肉と、「早く早く」と促すような冬の目を、交互に見る。私はそれを口に運んで、ぱくっとかじった。肉汁が口の中ではじけて、ほのかな炭火の香りと、黒胡椒のぴりっとした香りが鼻に抜ける。
「おいしい!」
目を丸くした私に、冬は得意げに笑った。
「でしょ?」
私たちはあっという間にメインを食べ終えて、冬がスタッフの方を呼び、デザートを注文することにした。
「僕はフレンチバニラのクレームブリュレにしようかな。夏は?」
メニューにざっと目を通した冬が、それを私に手渡してくれる。私もさっと目を走らせて、ワイルドベリーのミルフィーユに決めた。
すぐに、デザートが運ばれてきた。冬のブリュレは、バーナーで表面を炙られていて、すごくおいしそうだ。でも、私のワイルドベリーのミルフィーユも負けていない。
サクサクのパイ生地は、ナイフを入れるたびに「ザクッ」と小気味いい音を立てて割れた。中には、とろりと濃厚なカスタードクリーム。上には新鮮なブルーベリーとラズベリー、イチゴが飾られていて、甘酸っぱくておいしかった。
*
お腹いっぱい食べて満足した私たちは、並んでホテルのロビーを歩いていた。
「ホテルに宿泊客向けの足湯があるんだって。入ってみない? 一日中歩いたから、足も疲れてるでしょ」
冬の提案に、私は二つ返事でうなずいた。いったん部屋に寄ってタオルを取ってくると、冬は小さなバッグを肩にかけて待っていた。
足湯はホテルの裏手の庭にあって、石板敷きの小道を歩いていく。小道の両脇には小さな灯りがずらりと並んでいて、どこか甘くてくすぐったい雰囲気を添えていた。
突き当たりには、木造の東屋があった。中央に、大きな石をいくつも組んで囲った、長方形の足湯の池がある。水面からは白い湯気が立ちのぼっていて、少し近づいただけでも、熱気が夜風の中にゆっくり溶けていくのがわかった。
あたりはとても静かで、聞こえるのは水の流れる音と、二人の息づかいだけだった。
ふと見上げると、天の川がくっきりと空を横切っていて、星々が細かな砂粒みたいにこぼれ落ちてきそうだった。その壮麗さに、思わず息をのむ。空気の澄んだ高い山の上でなければ見られない、奇跡みたいな景色だ。
私は靴と靴下を脱いで、ズボンの裾を膝までまくり上げ、そうっと足をお湯に浸けた。
「わあっ――あつっ!」
反射的に足の指をきゅっと縮めた私に、隣で冬が笑いながら言う。
「ゆっくり入れれば、すぐ慣れるよ」
そう言って、冬も腰を下ろし、足をお湯につけた。私よりずっとすんなり、温泉の熱さに慣れたようだった。
私は少しずつ、少しずつ、足をお湯の温度に慣らしていくしかなかった。温かいお湯がゆっくりふくらはぎまで浸していくと、さっきの熱さとはまるで違う感覚になる。ぬくもりが足先から全身へ広がっていくようだった。
「はぁ……きもちいい……」
思わず息をついて、この贅沢なひとときを味わう。
私と冬は並んで座ったまま、どちらも口を開かなかった。しばらくして、冬がバッグの中をごそごそ探っていることに気がついた。
「確かここに入れたはず……あ、あった!」
目を凝らして見ると、冬が取り出したのは、缶入りのノンアルコールビールだった。
「チェックインのときに、ホテルの売店で見つけたんだ。足湯につかりながら景色を眺めて、『大人の一杯』ってやつ、ずっとやってみたくてさ。……ノンアルだけどね」
冬は、わくわくした口調で説明してくれた。
「わ、私もやってみたい!」
冬ずるい! ひとりで味わおうとするなんて!
「ノンアルでも、一応『大人の飲み物』なんだよ?」
そう言い聞かせてくるけど、冬だってまだ高校生じゃん!?
「うぅ……」
私は、冬と長年一緒に過ごして身につけた必殺技を繰り出した。甘えたいとき、下から見上げるように冬を見つめて、うるうるの瞳でいじらしい顔をする。そうすると、冬はすぐに折れてくれるのだ。この技は、今のところ一度も負けたことがない。
「えっと……ひと口だけなら……いい、のかな?」
やっぱり。
冬はちょっと迷ってから、缶を開けて、部屋から持ってきた紙コップに、ほんの少しだけ注いでくれた。目の前の紙コップに鼻を近づけてみる。麦の香りが、ほんのりと立ちのぼった。
私はコップを持ち上げて、ぐいっと一気に飲み干した。
次の瞬間、舌の上に苦みが走って、麦の匂いが鼻に抜ける。危うく吐き出しそうになった。
「うぇ、うぇぇ……なにこれ!?」
想像してた味と全然違う! 大人って、みんなこんな苦いものを飲んで、憂さ晴らしをしてるの……?
「やっぱりね」という顔をした冬も、ひと口飲んだ。すると――
「ごほっ! うっ、ごほごほっ! にがっ!」
冬も私と同じで、こんなに苦いなんて思ってもみなかったらしい。全然、心の準備ができていなかったのだ。
落ち着きを取り戻した私たちは、お互いに顔を見合わせた。冬は、黙って缶をバッグにしまう。
「……大人の味は、大人になってからにしようか」
「うん」
でも、足湯と星空のせいなのか、私はなんだか急に気分が高ぶってきて、つま先で水面を軽くちゃぷちゃぷとかき混ぜた。私の足を中心に、波紋が一重、また一重と広がっていく。
こっそり横目で冬を盗み見る。冬は顔を上げて、星空を眺めていた。湯気で睫毛がしっとり濡れていて、頬もほんのり赤く染まっている。たぶん、お湯のせいだろう。
その瞬間、心臓がまた急に早鐘を打ちはじめた。
この人は、私が小さい頃からずっと見つめ続けてきた、かけがえのない人。今は、こんなにも近い距離にいる。穏やかな息づかいが聞こえるほど近くて、少し寄りかかっただけで肩が触れてしまうほど近くて。
そしてここが、私がずっといたかった場所だ。冬の隣にいていいのは、私だけ。……なんて、ちょっと自惚れすぎかな。
「夏」
冬が、不意に口を開いた。
「今日、楽しかった?」
「うん、すっごく楽しかった。出かけられて本当によかったなぁ」
迷わずに答えると、冬はこちらを向いて、ふっと笑った。
「それならよかった」
その瞳には、星の光が映っていた。冬だけの、水みたいにやわらかい優しさも映っていた。あまりにも優しくて、私は自分を抑えられなくなりそうだった。足湯のぬくもりも手伝って、その想いは、いっそう強く込み上げてくる。
私は俯いて、水面にゆらゆら揺れる二人の影を見つめながら、心の中でそっと願いごとをした。
――この夜が、この時間が、もう少しだけ、もう少しだけ長く続きますように。




