第2話:闇を裂く凶刃、常理を砕く拳
夜の静寂に包まれた王城の裏庭。月明かりすら届かない漆黒の空間で、大気がわずかに歪んだ。
(……見つけた。落ちこぼれの第五王子、アレン・フォン・ルミナス)
闇に溶け込み、完全に気配を消して佇むのは、一人の少女だった。
銀色の長い髪を夜風に揺らした、十七歳ほどの可憐な風貌。しかしその身に纏うのは整ったメイド服であり、その右手に握られているのは、漆黒の短剣だった。
少女の名はセリア。裏社会において「不可視の死神」と恐れられた、暗殺者連盟のトップに君臨する若き天才暗殺者だ。
彼女は、第二王妃の息子であり王座を狙う第二王子エリックから、「不気味な第五王子を秘密裏に排除せよ」との密命を受け、この王宮へ潜入していた。
セリアは冷徹な双眸で、数メートル先で無防備に背を向けている七歳の少年――アレンを見つめる。
城内では「ファイヤーボールすら使えない無能」と蔑まれている子供。本来なら自分のような大物が動くまでもない仕事のはずだった。
だが、セリアの卓越した暗殺者の本能が、先ほどから奇妙な警鐘を鳴らし続けていた。
(なんなの、この違和感は……。ただの七歳の子供のはずなのに、まるで巨大な魔物の巣の前に立たされているような、底冷えする圧迫感がある……)
気のせいだ、とセリアは雑念を振り払った。
彼女は息を止め、一歩を踏み出す。その足音は無音。気配も、体温すらも極限まで収縮させる暗殺術『不可視の歩法』。
「――死ね」
鈴を転がすような美しい声での囁きと同時に、音速を超える速度で突き出される凶刃。
狙いはアレンの延髄。並の騎士爵や男爵クラスの近衛騎士であれば、自分が死んだことすら認識できずに首を落とされるであろう、必殺の一撃。
しかし。
「ぬるいな。前世の俺の爺ちゃんなら、欠伸をしながら避けてるぞ」
アレンは振り返りすらしない。ただ、小さく鼻を鳴らしただけだった。
ガキィィィンッ――!!!
夜の闇を切り裂く、凄まじい金属衝突音が響き渡る。
セリアの放った必殺の短剣は、アレンの衣服のわずか数センチ手前で、目に見えない強固な『力』の壁に完全に阻まれ、激しい火花を散らして弾かれた。
「なっ――!? 反射障壁……いや、無詠唱の光魔法!? なに、これ……!」
セリアの瞳が驚愕に見開かれる。
彼女の短剣による突きは、並の防御魔法など容易く貫く威力がある。それが、呪文の詠唱すらしていない子供の『身に纏うオーラ』によって、完璧に、傷一つつけられずに防がれたのだ。この世界の常識が、音を立てて崩壊していく。
「おい。人の貴重な修練の時間を邪魔しておいて、勝手に驚くなよ。不愉快だ」
アレンがゆっくりと振り返る。
その全身から立ち上っていたのは、禍々しいまでの高密度で圧縮された紫電のオーラ。魔力と気を高次元で融合させた、彼だけの絶対武術――『魔気闘法』の防御障壁だった。
アレンの瞳には、暗殺者を前にした恐怖など微塵もなかった。あるのは、己の領域を侵されたことへの、底底冷えするような不機嫌さだけだ。
その圧倒的な眼光に射抜かれた瞬間、セリアの全身に鳥肌が立った。
恐怖。生まれて初めて味わう、絶対的な死の恐怖。
目の前にいるのは、まだ自分よりも遥かに小さな、まるで赤ん坊のような子供だ。それなのに、その肉体の奥底から溢れ出る悍ましいまでのエネルギーの質量に、セリアの魂はガタガタと震え、その場に跪きそうになっていた。
(化け物……っ! この男、無能なんかじゃない……! 王国の誰よりも異常で、誰よりも恐ろしい化け物よ……!)
「化け物……っ!」
セリアは即座に後方へ跳躍し、間合いを取ろうとした。
一流の暗殺者としての瞬時の判断。一旦引き、再び闇に潜んで機を伺う――それが彼女の生存戦略だった。だが、アレンの前では、そのすべてが無意味だった。
「遅い。前世でも今世でも、俺の邪魔をする奴には容赦しないと決めているんでね」
アレンが軽く右足を踏み込む。
ドン、という大気を揺らす重低音とともに、アレンの姿がその場から完全に消失した。セリアの卓越した動体視力をもってしても、彼の動きの残像すら捉えることはできない。
「消え――」
言いかけるよりも早く、セリアの視界に、おもちゃのように小さなアレンの右拳が飛び込んできた。
それは、彼女の腹部にそっと触れるように、優しく当てられる。
直接殴りつけるのではない。前世の古武術『神谷流』における極意――接触した状態からエネルギーを内部へ浸透させ、内側から破壊する『寸勁』。
そこに、アレンの持つ異次元の魔力まで乗せた、魔気闘法の固有技。
「魔気闘法・壱ノ型――『穿』」
ドォォォォォンッ!!!
裏庭の空気が、文字通り爆裂した。
セリアの身体は衝撃波を伴って吹き飛び、背後にあった王城の頑丈な石壁を三枚ぶち抜いて、ようやく崩れ落ちた瓦礫の中に沈んでいった。
「がはっ……、あ……、は……」
瓦礫の中で、セリアは血を吐き出しながら横たわっていた。
全身の骨が悲鳴を上げ、肋骨は数本砕けている。何より悍ましいのは、アレンが放った一撃の衝撃が、彼女の体内の魔力回路を文字通りズタズタに引き裂いてしまっていることだった。
指一本動かすことすらままならない。圧倒的な、蹂躙。
ザッ、ザッ、と砂利を踏む小さな足音が近づいてくる。
アレンは冷淡な顔のまま、見下ろすような視線をセリアへと向けていた。
「さて。誰の差し金だ? 正直に言えば、一思いに楽にしてやる。言わなければ、お前の四肢を順番に魔気で消し飛ばしていくことになるが、どうする?」
死神のような宣告。
しかし、セリアはその圧倒的な死の恐怖の中で、不謹慎極まりない感情を抱いていた。
裏社会の血生臭い世界で、力だけを信じて生きてきた彼女にとって、目の前のアレンは、畏怖すべきと同時に、この上なく美しく、圧倒的な『絶対者』として映ったのだ。
「……殺せ……。任務に失敗した者に、生きる価値はない……。あなたのような方に終わらせてもらえるなら、本望、だ……」
セリアは覚悟を決め、静かに目を閉じた。
だが、予想された死の衝撃は訪れなかった。代わりに聞こえてきたのは、アレンのつまらなそうな深い溜息だった。
「はぁ……。お前、死ぬのが目的か? つまらん奴だな。それに、ここで殺すと死体の片付けが面倒だ。明日からの修練の場所が汚れるのも癪だしな」
アレンはしゃがみ込み、セリアの顎を強引に指で持ち上げた。拒絶を許さない強い力。
「城の騎士どもはどいつもこいつも腑抜けていて、俺の組手の相手にもなりゃしない。だが、お前は俺の一撃を受けて、まだ意識を保っている。少しは頑丈な方だ。……お前、名前は?」
「……セ、リア……」
「そうか、セリア。お前に二つの選択肢をやる。ここで俺の気が変わる前に死ぬか。それとも、俺の専属メイドになって、死ぬまで俺の組手の相手になるか。どっちだ?」
セリアは、アレンの底知れない瞳を見つめた。
その傲慢な提案に、彼女の魂は歓喜に震えていた。これほどの強者に必要とされること、その傍らにいられること。それ以上の救いが、今の彼女にあるだろうか。
「……御心のままに。我が新たなる……終生の、主よ」
セリアは残った力を振り絞り、アレンの足元に跪き、主従の誓いのキスを捧げた。アレンはふっと口元を歪め、セリアの銀髪を乱暴に撫で回した。
ひねくれ者の戦闘狂王子と、彼を狂信する元暗殺者メイド。
世界の常識を置き去りにする二人の、歪で、そして誰よりも強固な絆が、この漆黒の夜に結ばれたのだった。




