第三十九話 少女の名前
盗賊団のアジトを制圧してから、数時間後――。
ビルセイヤたちは捕らえた盗賊たちを拘束し、奪われた荷物の回収と確認作業に追われていた。
洞窟前の広場には縄で縛られた盗賊たちが並べられ、ツバサとセシリアがその監視に当たっている。
エミリアは戦闘で負傷した者たちの応急処置を行い、ビルセイヤは回収した荷物の整理と確認を進めていた。
そして――。
救出した少女の傍らには、リリアが寄り添っていた。
少女は洞窟の一角、焚き火のそばで毛布にくるまって座っている。
痩せた身体にはまだ力が戻っておらず、顔色も決して良いとは言えない。だが、温かなスープを飲み終えたことで、先ほどよりは幾分か表情が和らいでいた。
「少し顔色が良くなりましたね」
リリアがほっとしたように微笑む。
少女はその言葉に小さく頷いた。
「ありがとう……ございます」
か細い声だった。
まだ怯えは残っている。けれど、先ほどまでの張り詰めたような警戒心は、少しずつ解け始めているようだった。
そこへ、荷物の確認を終えたビルセイヤが歩いてくる。
「体調はどうだ?」
少女は少し驚いたように顔を上げた。
けれど、ビルセイヤの表情があまりに穏やかだったからだろう。怯えることなく、その視線を受け止める。
「だ、大丈夫……です」
遠慮がちに、けれどはっきりと答える。
ビルセイヤは小さく安堵の息を吐いた。
「そうか。無理はするなよ」
短い言葉。
それだけだった。
けれど少女の胸には、不思議な温かさが広がっていく。
優しい――。
それも、見返りを求めるような優しさではない。
ただ純粋に、自分の身を案じてくれている言葉だった。
盗賊たちとはまるで違う。
この人たちは、自分を物のように扱わない。
それがどれほど救いになることか、今の少女には痛いほど分かった。
しばし、静かな時間が流れる。
やがてビルセイヤが、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、名前を聞いてなかったな」
その瞬間、少女の肩がぴくりと震えた。
名前。
それは、自分が自分である証。
同時に、失ってしまった日々を思い出させるものでもあった。
優しかった家族。
穏やかな暮らし。
笑い合った食卓。
そして――盗賊に襲われた、あの日。
胸の奥がきゅっと締め付けられる。
それでも少女は逃げなかった。
今、自分に名前を尋ねているこの人は、怖い人ではない。
ちゃんと答えたいと思えた。
少女はゆっくりと顔を上げる。
「……ミリア、です」
静かな声だった。
その名前を聞いたビルセイヤは、自然と表情を和らげた。
「ミリアか。いい名前だな」
その一言に、少女――ミリアは目を見開く。
いい名前。
そんなふうに言われたのは、いつ以来だろう。
思わず目頭が熱くなる。
「ありがとう……ございます」
ミリアは俯きながら、小さく答えた。
その様子を見ていたセシリアたちも、こちらへ歩み寄ってくる。
「私はセシリアよ。よろしくね、ミリア」
セシリアは明るい笑顔で手を振った。
ミリアは少し緊張しながらも、こくりと頷く。
「エミリアです。何かあれば遠慮なく言ってくださいね」
エミリアも穏やかな微笑みを向けた。
その柔らかな雰囲気に、ミリアの表情が少しだけ緩む。
「俺はツバサだ」
最後にツバサが腕を組んだまま名乗る。
「ちょっと怖そうに見えるかもしれんが、悪い奴じゃない」
その言葉に、セシリアが思わず吹き出した。
「自分で言うの、それ?」
「事実だろ」
「そこは否定しなさいよ」
軽口の応酬に、その場の空気がふっと和らぐ。
ミリアも、つられるように小さく笑った。
ほんの少しだけ。
けれど確かに、笑ったのだ。
その笑顔を見て、ビルセイヤたちはほっとする。
ようやく少しだけ、元気が戻ってきたらしい。
だが――。
まだ確認しなければならないことがあった。
「これから、どうする?」
セシリアが静かに尋ねる。
帰る家はあるのか。
頼れる家族はいるのか。
故郷へ戻ることはできるのか。
ミリアの今後に関わる、大事な問いだった。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、ミリアの表情が曇る。
唇が小さく震えた。
「……ありません」
消え入りそうな声だった。
全員の表情が引き締まる。
「家族は……盗賊に……」
そこで言葉が途切れた。
それだけで十分だった。
誰も続きを促そうとはしない。
何があったのか、想像するには十分すぎたからだ。
重い沈黙が落ちる。
焚き火の薪がぱちりと音を立てた。
その時だった。
「なら」
静かに口を開いたのはビルセイヤだった。
ミリアが顔を上げる。
「行く場所が決まるまで、俺たちと来るか?」
一瞬、時間が止まったように感じた。
ミリアの瞳が大きく揺れる。
「……え?」
思わず漏れた声は、あまりにもか細かった。
信じられない――そんな表情だった。
当然だろう。
今日初めて会ったばかりの相手だ。
しかも、自分は何も持っていない。戦う力も、行く当てもない。
そんな自分を受け入れると言われて、すぐに信じられるはずがない。
だが、ビルセイヤはごく自然な顔で続ける。
「一人で生きていくには、まだ厳しいだろ」
押しつけるでもなく、恩着せがましくもなく。
ただ当たり前のことを言うように。
「仲間は多い方がいいしな」
その言葉に、セシリアも頷いた。
「私は賛成よ。放っておけないもの」
「私も異論ありません」
エミリアも静かに微笑む。
「リリアさんもいますし、私もお手伝いします!」
リリアも力強く言った。
誰一人として、反対しない。
迷惑そうな顔をする者もいない。
それが、ミリアには信じられなかった。
胸の奥に、じわりと熱いものが広がっていく。
怖かった。
寂しかった。
苦しかった。
もう自分には何も残っていないと思っていた。
なのに今、目の前の人たちは――こんな自分に手を差し伸べてくれている。
ぽろり、と涙が零れた。
今度の涙は、悲しみではなかった。
「……っ、よろしく……お願いします……」
ミリアは震える声でそう言って、深く頭を下げた。
その肩は小さく震えていた。
けれど、その表情には確かな安堵があった。
こうして――。
ミリアはビルセイヤたちの旅へ加わることになった。
まだ誰も知らない。
この少女が、やがてビルセイヤの屋敷を支える存在となり。
仲間たちの帰る場所を守る存在となり。
そして誰よりも近くで、彼の人生を支えていくことを。
それは、一人の少女が絶望の底から新たな居場所を得た日。
そして、未来の家族がまた一人増えた瞬間でもあった。
――続く。




