第百八十八話 氷牙の守護獣
ゴォォォォォ――。
山の奥から吹き荒れる烈風が、旧街道の木々を激しく揺らした。
柔らかく迎え入れてくれた風は消え失せ、辺りは一瞬にして凍てつく空気へと変わる。
ビルセイヤは白枝を静かに構えた。
「来る。」
◇◇◇
吹雪の向こうで、大地が震える。
ズシン。
ズシン。
一歩踏み出すたびに雪が舞い上がり、巨木ほどもある影がゆっくりと姿を現した。
「……熊?」
セシリアが息を呑む。
全身を白銀の毛で覆われた巨大な魔獣。
肩までの高さだけでも三メートルを超え、その額には青白く輝く氷の結晶が生えている。
鋭い牙からは白い冷気が漏れ、吐息だけで周囲の草木を凍らせていく。
リシアが震える声で呟いた。
「あれは……。」
「《氷牙熊》……。」
◇◇◇
「知っているのか?」
ビルセイヤが視線を逸らさず尋ねる。
「昔から峡谷の奥に棲む守り神って言われています。」
フィリアが説明する。
「本来は人を襲う魔物じゃありません。」
「でも最近……。」
リシアは俯いた。
「村の近くにも現れるようになって……。」
ヴァルグラムが低く唸る。
『違う。』
『あれは本来の姿ではない。』
『額の氷晶を見よ。』
◇◇◇
全員が魔獣の額を見る。
青白い結晶の中心に、黒い靄が絡み付いていた。
まるで生き物のように脈打っている。
「穢れ……!」
エミリアが叫ぶ。
「白き霊樹の時と同じです!」
ビルセイヤは静かに頷いた。
「また蛇の牙か。」
穢れが、この山にも広がっている。
◇◇◇
「グオオオオオオッ!」
氷牙熊が咆哮を上げる。
同時に無数の氷柱が地面から突き出した。
「散開!」
ビルセイヤの声が響く。
全員が左右へ飛び退く。
ドガガガガッ!
氷柱が旧街道を砕き、石畳を粉々にしていく。
「なんて威力……!」
ツバサが舌を巻いた。
◇◇◇
「私が援護します!」
フィリアが杖を掲げる。
「《アイスウォール》!」
透明な氷壁が仲間たちの前へ展開される。
直後、氷牙熊が吐き出した冷気が激突した。
バキバキバキッ!
氷壁は砕け散るが、その間に全員が体勢を整える。
「ありがとう!」
セシリアが盾を構え直した。
◇◇◇
「俺が前へ出る!」
ビルセイヤは白枝を構え、一気に駆け出す。
雪を蹴る音さえ風に溶ける。
「飛天御剣流――!」
氷牙熊の巨大な前脚が振り下ろされる。
その瞬間。
ビルセイヤは紙一重で身をかわし、懐へ潜り込んだ。
「龍槌!」
鋭い斬撃が前脚を捉える。
ガキィン!
しかし、刃は厚い氷毛に弾かれた。
「硬い……!」
◇◇◇
『無理に斬るな!』
ヴァルグラムの声が響く。
『穢れだけを断て!』
ビルセイヤは距離を取りながら深く息を吸う。
「命脈断流……。」
あの技なら命を傷つけず、穢れだけを断ち切れる。
だが、相手は絶えず動いている。
一瞬の隙が必要だった。
◇◇◇
「ビル!」
セシリアが前へ出る。
「その隙は私が作る!」
大盾を構え、真正面から氷牙熊へ突進する。
「はあああっ!」
轟音と共に盾が激突した。
ドォン!
巨体が僅かによろめく。
「今です!」
エミリアが風魔法を放つ。
「《ウィンドバインド》!」
幾筋もの風が氷牙熊の四肢へ絡み付き、一瞬だけ動きを止めた。
◇◇◇
「ビルセイヤ!」
フィリアが叫ぶ。
「今です!」
ビルセイヤの瞳が静かに研ぎ澄まされる。
白枝が淡い翡翠色の光を放った。
「飛天御剣流――。」
神域の気配が周囲を包む。
「神域剣技――《命脈断流》!」
一閃。
刃は肉を裂かない。
命を傷つけない。
ただ、額の黒い穢れだけを真っ直ぐに断ち切った。
◇◇◇
パリン――。
黒く濁っていた氷晶が砕け散る。
黒い靄が風へ溶けるように消えていく。
「グ……ォ……。」
氷牙熊は苦しそうに唸り、ゆっくりと膝をついた。
やがて荒々しかった瞳から赤い光が消え、本来の澄んだ青色が戻る。
雪山を思わせる、美しい瞳だった。
◇◇◇
巨大な魔獣は静かに頭を垂れる。
敵意は、もうない。
そしてビルセイヤへ近付き、その大きな鼻先をそっと差し出した。
まるで感謝を伝えるように。
ビルセイヤは警戒を解き、静かにその額へ手を置く。
「もう大丈夫だ。」
その瞬間。
氷牙熊の身体から柔らかな風が吹き上がり、西の山々へ向かって一筋の光が伸びていく。
その光は、まるで誰かが「こちらへ」と導いているようだった。
フィリアは目を見開く。
「あの光……。」
「蒼天の峡谷です。」
第三の霊樹は、もうすぐそこまで一行を導こうとしていた。
――続く。




