第百八十六話 夜明けへの出発
夜明け前。
宿場町リンドは、まだ深い静寂に包まれていた。
家々の煙突から細く煙が立ち上り、冷え切った空気の中へ溶けていく。
しかし、銀鹿商会の宿では、すでに明かりが灯っていた。
ビルセイヤたちは夜明けと同時の出発に備え、最後の準備を進めている。
◇◇◇
「保存食の補充は終わりました。」
エミリアが荷物を確認する。
「治療薬も十分です。」
「防寒具も追加しておきました。」
フィリアが一枚ずつ外套を確認していく。
「蒼天の峡谷へ近づくほど気温は下がります。」
「昼でも雪が降ることがありますから。」
セシリアは盾の革紐を締め直し、大きく頷いた。
「準備は万全ね。」
◇◇◇
一方、ツバサは商隊の護衛たちと馬の様子を見ていた。
「この先は山道だ。」
ダグラスが地図を広げる。
「荷馬車では進めない場所がある。」
「その時は?」
「最低限の荷物だけ持って徒歩になる。」
「なるほど。」
ツバサは馬の首を軽く撫でる。
「しばらく頑張ってくれよ。」
馬は鼻を鳴らし、まるで返事をするように首を上下させた。
◇◇◇
宿の一室では、リシアが静かに目を覚ましていた。
「おはようございます。」
フィリアが優しく声を掛ける。
「フィリアさま……。」
「フィリアでいいですよ。」
リシアは照れくさそうに笑った。
「はい……フィリアさん。」
昨夜より顔色はずっと良くなっている。
温かいスープを口にすると、小さく「おいしい」と呟いた。
その様子に、全員がほっと胸を撫で下ろした。
◇◇◇
朝食を終えると、村長エルドールが宿を訪ねてきた。
「もう出発するのか。」
「はい。」
ビルセイヤが答える。
「スノリア村を放ってはおけません。」
老人は静かに頷くと、一枚の古びた羊皮紙を差し出した。
「受け取りなさい。」
「これは?」
「蒼天の峡谷の古地図じゃ。」
羊皮紙には現在の街道だけではなく、古い山道や谷筋まで細かく記されていた。
「この道は……。」
フィリアが目を見開く。
「村でも知る人がほとんどいない旧街道です。」
「昔は巫女たちが霊樹へ祈りを捧げに向かう道じゃった。」
エルドールは真剣な表情になる。
「今は崩れている場所も多いが、最短で峡谷へ辿り着ける。」
◇◇◇
「ありがとうございます。」
ビルセイヤは両手で地図を受け取った。
老人は穏やかに微笑む。
「風は時に人を惑わす。」
「じゃが、正しい心を持つ者には道を示してくれる。」
その言葉に、ヴァルグラムも静かに呟いた。
『神代から変わらぬ教えだ。』
◇◇◇
やがて東の空が白み始める。
銀鹿商会の荷馬車も出発の準備を終えていた。
ベルガがビルセイヤへ歩み寄る。
「ここから先、商隊は山麓の交易村まで向かいます。」
「皆さんは途中で旧街道へ入ることになりますね。」
「ああ。」
「ここまで世話になった。」
ビルセイヤが礼を言うと、ベルガは笑顔で首を振った。
「いえ。」
「皆さんがいてくださったおかげで、安心してここまで来られました。」
◇◇◇
リシアは宿場町の西門を見つめ、小さく息を吸う。
「あと少しで……村です。」
その声には不安と期待が入り混じっていた。
フィリアはそっと肩へ手を置く。
「大丈夫。」
「今度は一人じゃありません。」
セシリアも笑顔で続ける。
「みんなで行くわ。」
ツバサは剣を軽く担ぎ直した。
「困ってる人を助けるのが冒険者だからな。」
エミリアも優しく微笑む。
「必ず皆さんを助けましょう。」
リシアは涙ぐみながら何度も頷いた。
◇◇◇
西門がゆっくりと開く。
冷たい風が一行を迎えた。
その風は以前のような恐ろしさではなく、どこか導くような優しさを含んでいる。
ビルセイヤは白枝の柄へ静かに手を添えた。
「行こう。」
「スノリア村へ。」
仲間たちが力強く頷く。
そして一行は、白き風が吹く山道へ足を踏み出した。
その先には、蒼雪の巫女の故郷。
そして第三の霊樹へと繋がる、新たな試練が待ち受けていた。
――続く。




