第百八十三話 西風の導き
『……おかえり。』
その一言は、春風のように優しく、雪解け水のように澄んだ響きだった。
フィリアは胸元の銀色の首飾りを強く握りしめる。
「お母さん……?」
返事はない。
西から吹く風が、静かに彼女の白い髪を揺らすだけだった。
◇◇◇
「何か聞こえたのか?」
ビルセイヤが静かに尋ねる。
フィリアはゆっくりと頷いた。
「……はい。」
「母の声でした。」
「気のせいかもしれません。」
「でも、本当に聞こえた気がしたんです。」
ビルセイヤは首飾りを見る。
銀細工で作られた雪の結晶。
長い年月を経ているはずなのに、錆一つ浮いていない。
「この首飾り。」
エミリアも手をかざした。
「魔力があります。」
「え?」
フィリアが驚く。
「とても微弱ですが。」
「風と聖属性の魔力です。」
◇◇◇
ヴァルグラムも静かに口を開いた。
『守護の術式だ。』
『かなり古い。』
『おそらく神代の系譜を受け継ぐ術。』
フィリアは目を見開いた。
「母が……?」
『いや。』
『お前の母が作ったものではあるまい。』
『代々受け継がれてきた護符だろう。』
ビルセイヤは首飾りを見つめる。
フィリアの故郷。
蒼雪の巫女。
神代魔法。
第三の霊樹。
すべてが少しずつ繋がり始めていた。
◇◇◇
「商隊長。」
ビルセイヤはベルガへ向き直る。
「この先、蒼天の峡谷まであとどれくらいだ?」
ベルガは地図を広げる。
「順調なら五日。」
「ですが、この氷の件があります。」
「予定通り進めるかは分かりません。」
「急ぐ必要がありますね。」
エミリアが言う。
「異変は確実に広がっています。」
◇◇◇
その時だった。
街道を調べていたダグラスが戻ってきた。
「妙なものを見つけた。」
彼は地面へしゃがみ込む。
「見てくれ。」
そこには車輪の跡が残っていた。
普通の荷馬車の跡ではない。
車輪の周囲だけが凍り付き、地面へ薄く霜が残っている。
「氷の跡……。」
セシリアが眉をひそめる。
「しかも新しい。」
ダグラスが頷く。
「半日も経っていない。」
「誰かがここを通った。」
◇◇◇
リーナも加わる。
「足跡は一人分だけ。」
「護衛もいない。」
「でも。」
彼女は険しい顔をした。
「途中から消えてる。」
「消えた?」
ツバサが首を傾げる。
「そう。」
「突然。」
「まるで空へ飛んだみたいに。」
◇◇◇
フィリアは街道の先を見る。
胸元の首飾りが、ほんのりと温かかった。
そして。
微かに震えている。
「また……。」
彼女は小さく呟く。
「反応しています。」
首飾りは西を向いていた。
「導いてる?」
エミリアが尋ねる。
「……そんな気がします。」
◇◇◇
ベルガは商人たちを集める。
「皆、聞いてくれ!」
「この先は異常事態だ。」
「護衛を増やして慎重に進む。」
商人たちは真剣な表情で頷く。
誰一人として不満は言わなかった。
先ほど氷漬けになっていた商隊を見れば、その危険は誰でも理解できる。
◇◇◇
午後。
一行は再び西方交易路を進み始めた。
街道は徐々に標高を上げていく。
草原は減り。
代わりに針葉樹林が増えてきた。
風も冷たさを増している。
「山が近いな。」
ツバサが空を見上げる。
遠くに見えていた山並みが、はっきりと姿を現し始めていた。
その頂には、白い雪。
◇◇◇
日が傾き始めた頃。
ベルガが前方を指差す。
「あれです。」
街道の先。
山の麓に、小さな町が見えてきた。
「《リンド》。」
「西方交易路最後の宿場町です。」
「ここから先は?」
ビルセイヤが尋ねる。
「本格的な山道になります。」
「蒼天の峡谷へ入る者は、必ずここで準備を整えるんです。」
◇◇◇
宿場町リンドは、ガルディアよりずっと小さかった。
石造りの家々が並び、高い煙突からは暖炉の煙が立ち上っている。
町の周囲には高い柵。
山岳地帯特有の魔物から住民を守るためだ。
商隊が到着すると、門番がすぐに駆け寄ってきた。
「ベルガさん!」
「無事だったか!」
「何とかね。」
ベルガは苦笑する。
「街道で氷漬けの商隊を見つけたよ。」
その一言で門番の顔色が変わる。
「やっぱり……。」
「また出たのか。」
◇◇◇
「また?」
ビルセイヤが反応する。
門番は頷いた。
「最近、この辺りじゃ噂になってる。」
「《白き風の乙女》だ。」
「夜になると。」
「西の山から降りてくる。」
フィリアは息を呑む。
伝承。
それは、この町でも語り継がれていた。
◇◇◇
「見た者は?」
ビルセイヤが尋ねる。
門番は静かに首を横へ振る。
「生きて帰った者はいる。」
「でも皆。」
「同じことを言う。」
「何と?」
「白い女性は。」
「泣いていた、と。」
その言葉に、ビルセイヤたちは互いに顔を見合わせた。
白き霊樹も泣いていた。
そして今。
蒼天の峡谷でも。
泣く者がいる。
偶然ではない。
世界樹に連なる異変は、まだ終わっていなかった。
冷たい西風が宿場町リンドを吹き抜ける。
その風は、一行を山の奥へと誘うように静かに流れていた。
――続く。




