第百八十二話 白き風の伝承
吹雪の夜。
白い衣を纏った女性を見た者は、氷へ閉ざされる――。
フィリアの言葉に、その場を流れる空気が静まり返った。
街道を吹き抜ける風は冷たく、どこか悲しげな音を運んでくる。
◇◇◇
「その伝承、詳しく教えてくれ。」
ビルセイヤが静かに言う。
フィリアは一度深呼吸をし、小さく頷いた。
「私が子供の頃、お祖母ちゃんから何度も聞かされた話です。」
彼女は西の山並みを見つめながら語り始めた。
「蒼天の峡谷には昔から《白き風の乙女》という伝承があります。」
「吹雪の日にだけ姿を現す女性で、純白の衣をまとい、風の上を歩くと言われています。」
エミリアが興味深そうに耳を傾ける。
「精霊の伝承でしょうか……。」
「村ではそう言われていました。」
フィリアは続ける。
「でも、実際に姿を見た人はほとんど帰ってきません。」
◇◇◇
「ほとんど?」
セシリアが問い返す。
「一人だけいました。」
「私の祖父です。」
一同が驚いた表情を浮かべる。
「祖父は若い頃、吹雪で遭難しかけたそうです。」
「その時、白い女性が現れて『こちらへ』と手を差し伸べたそうです。」
「助けてくれたのか?」
ツバサが尋ねる。
フィリアはゆっくりと首を横に振った。
「祖父は怖くなって逃げたそうです。」
「すると突然、吹雪が激しくなり、谷底へ落ちかけました。」
「その時、村の猟師たちが助けてくれたそうです。」
「祖父は、その後ずっと言っていました。」
フィリアは静かに呟く。
「『あの人は悪意なんてなかった』と。」
◇◇◇
ヴァルグラムが低く唸る。
『興味深いな。』
『人を襲う存在であれば、助けようとはせぬ。』
カグラも頷いた。
『白き霊樹もそうでした。』
『人々には恐れられていましたが、本来は命を守る存在でした。』
ビルセイヤは腕を組む。
「つまり。」
「伝承が間違って伝わった可能性もある。」
「はい。」
フィリアは頷いた。
「私もずっと、そう思っていました。」
◇◇◇
その時だった。
リーナが再び周囲を警戒しながら近づいてきた。
「少し気になるものを見つけました。」
彼女は街道脇を指差す。
「こちらへ。」
一行が向かった先には、街道から少し外れた場所に、小さな足跡が残っていた。
雪は降っていない。
それなのに、地面には霜が降り、その上に裸足のような小さな足跡が続いている。
「人の足跡……?」
セシリアがしゃがみ込む。
「いや。」
エミリアが首を振る。
「普通の人間ではありません。」
足跡の周囲には、微かな風の精霊が集まっていた。
まるで、その跡を守るように。
◇◇◇
フィリアも足跡へ手をかざす。
冷たい。
だが、不思議と嫌な気配はない。
「この魔力……。」
「どうだ?」
ビルセイヤが尋ねる。
「優しい……。」
フィリアは目を閉じる。
「悲しいけれど、優しい魔力です。」
「蛇の牙のような穢れは感じません。」
ヴァルグラムも同意した。
『うむ。』
『邪気ではない。』
『むしろ神代に近い風の力だ。』
◇◇◇
ビルセイヤは足跡を追う。
十歩。
二十歩。
やがて街道脇の一本の大木で途切れていた。
その幹には、小さな紋様が刻まれている。
「これは……。」
フィリアが目を見開いた。
風が渦を巻くような紋章。
その中心には、一枚の羽。
「村の……。」
「守り紋です。」
「守り紋?」
ベルガが首を傾げる。
「スノリア村では、山へ入る猟師たちの無事を祈って木へ刻む印なんです。」
「じゃあ最近誰かが?」
「いえ……。」
フィリアはゆっくりと首を横へ振った。
「この刻み方は古いです。」
「少なくとも十年以上前。」
◇◇◇
その時。
風が強く吹いた。
サァァァァ――。
木の枝が揺れ、幹に掛かっていた氷が砕け落ちる。
カラン、と何かが地面へ転がった。
「何だ?」
ツバサが拾い上げる。
それは銀色の首飾りだった。
雪の結晶を模した小さな飾りが付いている。
フィリアは息を呑んだ。
「それ……!」
震える手で受け取る。
「知っているのか?」
ビルセイヤが尋ねる。
「はい。」
フィリアは首飾りを胸へ抱き寄せた。
「これは……。」
「母の形見です。」
全員が言葉を失う。
◇◇◇
「どうして、こんな場所に……。」
フィリアは首飾りを見つめる。
母は十年以上前に亡くなっている。
その形見は、村を出る時に家へ置いてきたはずだった。
それが、なぜ街道脇の木に掛かっていたのか。
誰にも分からない。
しかし、その瞬間。
西から吹いた風が、優しくフィリアの髪を揺らした。
そして――。
『……おかえり。』
誰かの声が聞こえた気がした。
「!」
フィリアは振り返る。
だが、そこには誰もいない。
ただ風だけが、静かに西へ吹いていた。
◇◇◇
「フィリア?」
セシリアが心配そうに声を掛ける。
「今……。」
フィリアはゆっくりと呟く。
「母の声を聞いた気がしました。」
ビルセイヤは西の空を見つめる。
蒼天の峡谷。
そこには第三の霊樹だけではない。
フィリア自身の過去と深く結び付いた何かが待っている。
そんな確信が胸に芽生えていた。
西風は一行を導くように吹き続ける。
蒼雪の巫女の故郷は、もう遠くない。
――続く。




