第百七十九話 西への旅支度
次なる目的地。
《蒼天の峡谷》。
そして、その近くにあるフィリアの故郷――《スノリア村》。
目的地が決まると、ビルセイヤたちの行動は早かった。
◇◇◇
「西へ向かう?」
ガルディア辺境伯ダリウスは、執務机の上に広げられた地図から顔を上げた。
「ああ」
ビルセイヤは頷く。
「王都から届いた手紙に、次の異変らしい情報があった」
ダリウスは腕を組む。
「ライオット陛下からの命令か?」
「いや」
「アイリス王女からだ」
「……第二王女殿下か」
ダリウスの目が僅かに細くなる。
アイリスが世界樹の継承者候補であること。
そして翡翠の枝杖に選ばれたこと。
その詳細は、王家でも限られた者しか知らない。
ビルセイヤも必要以上の説明はしなかった。
◇◇◇
「場所は?」
「蒼天の峡谷」
その名前を聞いた瞬間。
ダリウスの表情が変わった。
「……蒼天の峡谷だと?」
「知っているのか?」
「当然だ」
ダリウスは地図へ視線を戻す。
指が王都アルティアの西へ動く。
「西方山岳地帯」
「王国領と小国群の境に近い場所だ」
さらに指を進める。
「ここだ」
地図の西端。
巨大な山脈。
その中央を裂くように、細長い峡谷が描かれていた。
◇◇◇
「遠いな」
ツバサが地図を覗き込む。
「ここからだと?」
「普通の馬車なら二週間」
「徒歩なら三週間以上だ」
「二週間……」
セシリアが眉をひそめる。
「かなり遠いわね」
「だが」
ダリウスは別の街道を指差した。
「王都を経由する必要はない」
「ガルディアから南西へ向かう交易路がある」
「《西方交易路》だ」
◇◇◇
西方交易路。
ガルディアから南西へ進み。
いくつかの宿場町を経由。
その後、西へ進む。
王都を大きく迂回しながら、西方山岳地帯へ向かう交易路だった。
「こちらなら十日前後」
「馬を使えば七日程度だ」
「七日か」
ビルセイヤは地図を見る。
「かなり短縮できるな」
「ただし」
ダリウスの表情が険しくなる。
「最近、街道の治安が悪い」
◇◇◇
「魔物ですか?」
エミリアが尋ねる。
「魔物もいる」
「だが、それだけではない」
ダリウスは地図上の森を指差す。
「盗賊団だ」
「西方交易路を狙う集団が増えている」
「兵を派遣しているが」
「山岳地帯へ逃げ込まれると追跡が難しい」
「盗賊か」
ツバサが肩を竦める。
「蛇の牙よりは分かりやすい相手だな」
「油断するな」
セシリアが即座に言う。
「分かってるって」
◇◇◇
ダリウスは一枚の書類を取り出した。
「実は」
「ちょうど西へ向かう商隊がいる」
「《銀鹿商会》だ」
「銀鹿商会?」
ビルセイヤが尋ねる。
「王国西部を中心に活動する商会だ」
「ガルディアへ木材と薬草を買い付けに来ていた」
「明日の朝、西へ戻る予定になっている」
ダリウスはビルセイヤを見る。
「同行してはどうだ?」
◇◇◇
「護衛依頼ということか?」
「いや」
ダリウスは首を横へ振る。
「君たちほどの冒険者へ護衛を頼めば」
「商会が破産する」
一瞬。
沈黙。
「そんなに高いのか?」
ビルセイヤが真顔で尋ねる。
「自覚がないのか?」
ダリウスも真顔で返した。
「ないな」
「……そうか」
辺境伯は額を押さえた。
◇◇◇
「ビルセイヤ」
セシリアが小声で言う。
「あなた一応、Sランク冒険者よ」
「知ってる」
「Sランク冒険者へ正式な護衛依頼を出す商人なんて普通いないわ」
「そうなのか?」
「王族護衛級です」
エミリアが苦笑する。
「……知らなかった」
「今さら!?」
ツバサが叫んだ。
◇◇◇
「ともかく」
ダリウスは咳払いする。
「護衛ではなく」
「旅の同行者として紹介しよう」
「銀鹿商会は西方の道に詳しい」
「蒼天の峡谷へ向かうなら役に立つ」
「助かる」
ビルセイヤは頷いた。
「お願いする」
◇◇◇
辺境伯の館を出た後。
ビルセイヤたちは街で旅支度を始めた。
保存食。
干し肉。
固焼きパン。
水袋。
薬草。
魔力回復薬。
「魔力回復薬は多めに買いましょう」
フィリアが言う。
「峡谷は魔力の流れが特殊です」
「魔法が安定しない場所があります」
「そんな場所があるのか?」
ツバサが尋ねる。
「はい」
「特に風魔法」
「突然威力が上がったり」
「逆に発動しなくなることもあります」
◇◇◇
「面白い場所だな」
ビルセイヤが呟く。
「面白くありません」
フィリアは即答した。
「子供の頃」
「風魔法で洗濯物を乾かそうとしたら」
「全部峡谷へ飛んでいきました」
「…………」
セシリアが口元を押さえる。
「笑ってません?」
「笑ってないわ」
「目が笑っています」
「気のせいよ」
◇◇◇
「その洗濯物はどうなった?」
ツバサが尋ねる。
「三日後」
「隣村の木に全部引っ掛かっていたそうです」
「ぶはっ!」
「ツバサさん」
「悪い!」
「笑うなら凍らせます」
「もう笑わない!」
ツバサは慌てて口を押さえた。
◇◇◇
旅支度を終え。
一行は宿へ戻った。
荷物を整理し。
武器を確認する。
ビルセイヤは白枝を抜き。
刃を確認した。
神域剣技。
命脈断流。
白き霊樹との契約。
戦いを重ねるたび。
この刀も変わっている。
「お前も忙しいな」
ビルセイヤは白枝へ呟く。
キィン――。
刀が小さく鳴った。
「……返事した?」
セシリアが尋ねる。
「気のせいだろ」
「今、絶対返事したわよ」
「刀が?」
「白枝ならあり得そうですね」
エミリアが真顔で言う。
「否定してくれ」
◇◇◇
夜。
宿の窓辺。
フィリアは一人、西の空を見ていた。
スノリア村。
蒼天の峡谷。
故郷。
十年以上。
戻っていない場所。
「……お父さん」
小さく呟く。
元気だろうか。
村の人たちは。
まだ自分を《蒼雪の巫女》と呼ぶのだろうか。
不安はある。
怖くないと言えば嘘になる。
その時。
「眠れないのか?」
背後から声が聞こえた。
「ビルセイヤさん」
ビルセイヤが隣へ立つ。
「……少しだけ」
「そうか」
それ以上。
何も聞かなかった。
ただ。
一緒に西の空を見る。
◇◇◇
「ビルセイヤさん」
「ん?」
「もし」
「村の人たちが」
「昔と同じだったら」
フィリアは少し俯く。
「私は……」
「その時は」
ビルセイヤが静かに言う。
「俺たちのところへ戻ってくればいい」
「え?」
「フィリアは俺たちの仲間だ」
「居場所ならある」
フィリアは目を見開く。
そして。
小さく笑った。
「……はい」
西から。
冷たい風が吹く。
だが。
今度の風は。
少しだけ優しかった。
◇◇◇
翌朝。
ガルディアの西門。
何台もの荷馬車が並んでいた。
荷台には木材。
薬草。
毛皮。
先頭の馬車には。
銀色の鹿を描いた旗が掲げられている。
《銀鹿商会》。
西方へ向かう商隊。
その前に。
一人の男が立っていた。
「あなた方が」
「辺境伯様から聞いていた旅人ですな?」
四十代ほど。
丸い体格。
立派な口髭。
商人らしい柔らかな笑顔。
「私は銀鹿商会」
「商隊長のベルガです」
ビルセイヤは手を差し出す。
「ビルセイヤだ」
ベルガは笑顔で握手する。
「西への旅」
「どうぞよろしくお願いします」
こうして。
ビルセイヤたちはガルディアを離れ。
西方交易路へ。
次なる霊樹が眠る可能性のある場所。
《蒼天の峡谷》を目指す旅が始まった。
――続く。




