第百七十八話 蒼雪の巫女の過去
西から吹き込んだ風は、一瞬だけ氷のように冷たかった。
宿の窓辺に置かれていた小さな花瓶。
その表面に、薄い霜が浮かぶ。
「……私も、昔の話をしなければいけないみたいですね」
フィリアは静かに呟いた。
いつもの優しい笑顔。
だが、その瞳には僅かな迷いが浮かんでいる。
◇◇◇
「無理に話さなくてもいいぞ」
ビルセイヤが言った。
「必要なことだけ教えてくれればいい」
フィリアは少し驚いたように顔を上げる。
「聞かないんですか?」
「話したくないことまで聞く必要はないだろ」
「…………」
フィリアはビルセイヤを見つめる。
そして。
「本当に、ビルセイヤさんらしいですね」
小さく笑った。
その笑顔は、先ほどより自然だった。
◇◇◇
「でも」
フィリアは杖を膝の上へ置く。
「今回は話します」
「蒼天の峡谷へ行くなら」
「皆さんには知っておいてほしいから」
セシリアたちは黙って頷いた。
誰も急かさない。
フィリアが自分から話し始めるのを静かに待った。
◇◇◇
「私は蒼天の峡谷の近くにある小さな村で生まれました」
「村の名前は《スノリア》」
「雪と風に囲まれた村です」
フィリアは懐かしむように目を細める。
「一年の半分近くは雪が降ります」
「春でも朝は凍ることがあります」
「畑もほとんど作れません」
「だから村の人たちは、山羊を育てたり、薬草を採ったりして暮らしていました」
「随分厳しい土地ね」
セシリアが呟く。
「はい」
フィリアは頷いた。
「でも」
「私は好きでした」
◇◇◇
幼い頃。
フィリアは雪の中を走り回る少女だった。
水魔法を覚えたのは五歳。
風魔法を覚えたのは七歳。
そして。
八歳の冬。
初めて氷魔法を使った。
「普通は水魔法をかなり練習してから氷へ派生します」
エミリアが説明する。
「八歳は……かなり早いですね」
「私もそう言われました」
フィリアは苦笑した。
「でも、その頃は何が凄いのか分かっていませんでした」
◇◇◇
ある日。
村を大きな吹雪が襲った。
百年に一度。
そう呼ばれるほどの猛吹雪だった。
風は家の屋根を剥がし。
雪は道を埋め。
村の外へ出ていた狩人たちが帰れなくなった。
「私の父も」
フィリアの声が少しだけ小さくなる。
「その中にいました」
部屋が静かになる。
◇◇◇
「村の大人たちは助けに行こうとしました」
「でも」
「峡谷から吹く風が強すぎて、誰も進めなかった」
フィリアは自分の手を見る。
「私は怖かったです」
「父が帰ってこないことが」
「だから」
「一人で村を出ました」
「一人で!?」
ツバサが思わず声を上げる。
「八歳だろ!?」
「はい」
「無茶にも程があるぞ!」
「……今ならそう思います」
フィリアは困ったように笑った。
「でも、その時は」
「父を助けることしか考えていませんでした」
◇◇◇
吹雪の中。
幼いフィリアは歩き続けた。
何度も転んだ。
手足の感覚はなくなり。
魔力も尽きかけていた。
それでも。
「お父さん!」
叫び続けた。
やがて。
風の中から声が聞こえた。
『――こちら。』
小さな声。
フィリアは、その声を追った。
◇◇◇
「精霊……?」
エミリアが尋ねる。
「分かりません」
フィリアは首を横へ振る。
「でも」
「今思えば」
「風の精霊だったのかもしれません」
声に導かれ。
フィリアは雪に埋もれた狩人たちを見つけた。
父もいた。
だが。
全員が凍え。
もう歩くこともできない状態だった。
◇◇◇
「私は助けようとしました」
「でも」
「子供一人では運べません」
フィリアは唇を噛む。
「だから祈りました」
「神様でも」
「精霊でも」
「誰でもいいから」
「助けてくださいって」
その瞬間。
世界が青く染まった。
◇◇◇
吹雪が止まった。
正確には。
フィリアの周囲だけ。
雪が静かに舞い始めた。
風は少女を避けるように流れ。
氷は狩人たちの身体を守る壁となった。
そして。
空から青白い光が降り注いだ。
「その時」
「初めて聖魔法を使いました」
フィリアは静かに言う。
「水」
「氷」
「風」
「聖」
「四つの魔法が同時に発動したんです」
◇◇◇
エミリアが息を呑む。
「複合魔法……」
「しかも八歳で」
『違う』
ヴァルグラムが突然口を開いた。
『それは複合魔法ではない』
「え?」
フィリアが顔を上げる。
『複数の属性が同時に発動したのではない』
『一つの力として調和している』
炎神は少し考える。
『神代魔法に近い』
◇◇◇
「神代魔法……?」
フィリアの表情が固まる。
『おそらく』
『蒼天の峡谷に眠る何者かがお前へ力を貸した』
「まさか……」
セシリアが呟く。
「三本目の霊樹?」
誰も答えない。
だが。
全員が同じことを考えていた。
◇◇◇
フィリアは話を続ける。
青白い光に守られ。
フィリアは父たちを村へ連れ帰った。
吹雪の中。
少女が歩く場所だけ。
雪が静かに止んだ。
その姿を見た村人たちは言った。
――蒼い雪を纏う巫女。
それが。
《蒼雪の巫女》。
フィリアの異名の始まりだった。
◇◇◇
「でも」
フィリアは寂しそうに笑う。
「私は、その名前が好きではありませんでした」
「どうして?」
セシリアが尋ねる。
「皆が」
「私をフィリアではなく」
「巫女として見るようになったからです」
村人たちは敬った。
祈った。
助けを求めた。
だが。
誰も。
少女としてのフィリアを見なくなった。
◇◇◇
「だから村を出たのか」
ビルセイヤが静かに尋ねる。
「はい」
フィリアは頷く。
「冒険者になりました」
「誰も私を知らない場所へ行きたかった」
「普通の人として」
「普通に笑って」
「普通に仲間を作りたかった」
その言葉に。
セシリアが立ち上がった。
そして。
フィリアの隣へ座る。
「もう叶ってるじゃない」
「え?」
「普通に仲間を作りたいんでしょ?」
セシリアは笑う。
「私たち、仲間よ」
◇◇◇
「そうですね」
エミリアも微笑む。
「私たちはフィリアさんを巫女として見ていません」
「俺なんて昨日魔法で凍らされたぞ」
ツバサが言う。
「それはツバサさんが勝手に薬草を食べようとしたからです」
「毒草だとは思わなかったんだよ!」
「だから止めました」
「足を凍らせる必要あったか!?」
「逃げたからです」
「容赦ねぇ!」
部屋に笑い声が広がる。
◇◇◇
フィリアは呆然と仲間たちを見る。
そして。
小さく笑った。
「……ありがとうございます」
その瞳から。
一粒だけ。
涙が零れた。
しかし。
それは悲しい涙ではなかった。
◇◇◇
『蒼天の峡谷』
ヴァルグラムが静かに呟く。
『間違いない』
『そこに第三の霊樹がある』
ビルセイヤは窓の外を見る。
西。
遥か遠く。
蒼天の峡谷。
風が泣く場所。
そして。
フィリアが《蒼雪の巫女》となった場所。
「次の目的地は決まったな」
ビルセイヤは立ち上がる。
「蒼天の峡谷へ行こう」
フィリアは一瞬だけ目を閉じる。
そして。
「はい」
静かに。
しかし力強く頷いた。
過去から逃げるためではない。
今度は。
仲間と共に向き合うために。
蒼雪の巫女は、再び故郷へ帰ることを決めた。
――続く。




