第百七十七話 翡翠の枝杖が示す次なる道
ルミナスの深森の異変が収まった翌朝。
ガルディアの街には、久しぶりに穏やかな朝が訪れていた。
城壁の上では兵士たちが交代の挨拶を交わし、商人たちは止めていた荷馬車の準備を始めている。
街道の封鎖も段階的に解除されることとなり、王都方面へ向かう商隊の姿も見られた。
酒場からは朝食を求める冒険者たちの声。
鍛冶場からは鉄を打つ音。
街は、本来の日常を取り戻し始めていた。
◇◇◇
「……久しぶりによく寝た。」
宿の食堂。
ツバサは大きく欠伸をしながら、焼いたパンを口へ運んでいた。
「本当にね。」
セシリアも苦笑する。
「王都を出てから、まともに休んでなかったもの。」
「宿場町ではフォレストウルフ。」
「ガルディアに着いたと思ったら、その日のうちに森。」
「白枝の泉では蛇の牙。」
フィリアが指を折りながら数える。
「……こうして考えると、かなり忙しかったですね。」
「今さら気付いたのか?」
ツバサが呆れたように言う。
「俺なんて途中から、今日は何日目なのか分からなくなってたぞ。」
「それはツバサさんが適当なだけです。」
フィリアが真顔で答える。
「おい。」
セシリアが吹き出した。
「ふふっ。」
エミリアも口元を押さえて笑う。
昨日まで命懸けの戦いをしていたとは思えないほど、穏やかな朝だった。
◇◇◇
ビルセイヤはそんな仲間たちを眺めながら、温かい茶を口へ運ぶ。
身体に大きな傷はない。
フィリアとエミリアの治癒魔法のおかげだ。
だが、身体の奥にはまだ僅かな疲労が残っている。
特に《命脈断流》。
あの神域剣技を使った時の感覚は、今も両腕に残っていた。
魔力を斬る。
穢れを斬る。
命と穢れの境界だけを見極め、不要なものだけを断つ。
言葉にすれば簡単だ。
だが実際には、僅かな狂いも許されない。
「……まだ完成じゃないな。」
ビルセイヤが小さく呟く。
「何が?」
隣に座っていたセシリアが尋ねる。
「命脈断流。」
「え?」
「今回は白き霊樹と、みんなの力があった。」
ビルセイヤは自分の右手を見る。
「俺一人で同じことをやれと言われたら、まだ無理だと思う。」
セシリアは少し驚いたように目を瞬いた。
「十分とんでもない技だったと思うけど。」
「そういう問題じゃない。」
「一歩間違えれば、ガイゼルごと斬っていた。」
食卓の空気が少しだけ静かになる。
ビルセイヤは続けた。
「命を守る剣だと言うなら、偶然成功したじゃ駄目だ。」
「いつでも。」
「どんな状況でも。」
「自分の意思で使えなきゃ意味がない。」
◇◇◇
『相変わらず厳しい男だ。』
炎心晶からヴァルグラムの声が響く。
今では仲間たちも、その声に驚かなくなっていた。
『神域剣技を一度成功させて、まだ足りぬと言うか。』
「足りないだろ。」
『普通の人間なら一生かけても届かぬぞ。』
「俺は普通じゃないらしいからな。」
ビルセイヤは淡々と答える。
一瞬。
沈黙。
そして。
「自分で言った!」
セシリアが笑った。
「ビルセイヤが自分で認めたぞ!」
ツバサが机を叩く。
「これは記念日だな!」
「何の記念日だ。」
「ビルセイヤが自分の異常さを認めた日。」
「斬るぞ。」
「命を繋ぐ剣じゃなかったのか!?」
「峰打ちなら問題ない。」
「刀で峰打ちは普通に痛ぇぞ!」
食堂に笑い声が広がった。
エミリアとフィリアも肩を震わせている。
ビルセイヤは小さくため息を吐いた。
「朝から元気だな……。」
「平和だからよ。」
セシリアが笑う。
「こういう時間も大切でしょ?」
ビルセイヤは少しだけ黙る。
そして。
「ああ。」
静かに頷いた。
◇◇◇
朝食を終えた頃。
宿の入口から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「ビルセイヤ殿!」
現れたのはロドリグだった。
「朝早く申し訳ありません!」
「どうした?」
ビルセイヤたちは表情を引き締める。
また何か異変が起きたのか。
そう考えたのだ。
だがロドリグは慌てて両手を振った。
「い、いえ!」
「悪い知らせではありません!」
「辺境伯様から伝言です。」
「王都から早馬が到着しました。」
「王都から?」
セシリアが首を傾げる。
「ライオット陛下か?」
「はい。」
ロドリグは頷く。
「正確には――。」
少し言葉を切る。
「アイリス第二王女殿下からです。」
◇◇◇
その名前を聞いた瞬間。
ビルセイヤたちは顔を見合わせた。
「アイリスから?」
「何かあったのかしら。」
セシリアの表情に不安が浮かぶ。
アイリスは王都に残っている。
世界樹の継承者候補として、翡翠の枝杖と向き合うためだ。
「手紙が届いております。」
ロドリグは一通の封筒を差し出した。
王家の紋章。
そして封蝋には、小さな世界樹を模した印が刻まれている。
ビルセイヤは手紙を受け取った。
「読んでも?」
「もちろんです。」
封を開く。
中には、アイリスらしい丁寧な文字が並んでいた。
◇◇◇
『ビルセイヤ様。
セシリア様。
エミリア様。
ツバサ様。
そしてフィリア様。
皆様が無事であることを願っています。
王都でも、ガルディア方面の魔物の異変について報告が届いています。
父上も兄上も、とても心配しています。
もちろん、私もです。
ですが――。
皆様なら必ず森を救ってくださると信じています。』
◇◇◇
「アイリスらしいですね。」
エミリアが微笑む。
「心配してるなら、心配してるって書けばいいのに。」
セシリアも苦笑する。
「王女様だからな。」
ツバサが肩を竦める。
ビルセイヤは続きを読む。
◇◇◇
『そして、一つお伝えしなければならないことがあります。
昨日。
翡翠の枝杖が、突然強い光を放ちました。
北東。
皆様が向かったルミナスの深森の方角です。
その後。
枝杖の光は白く変わりました。
私は、その時。
誰かの声を聞きました。
――二つ目の契約が結ばれた。
そう聞こえたのです。』
◇◇◇
全員の視線がビルセイヤへ集まる。
「白き霊樹との契約……。」
フィリアが呟く。
「王都にいるアイリス王女の枝杖にも伝わったんですね。」
「世界樹と四霊樹は繋がっている。」
エミリアは静かに頷いた。
「契約が結ばれれば、世界樹側にも変化が起きるのでしょう。」
ビルセイヤは手紙へ視線を戻した。
まだ続きがある。
◇◇◇
『ですが。
その直後。
翡翠の枝杖が、再び光りました。
今度は――西です。
王都から見て、遥か西。
枝杖の先端に、青い光が灯っています。
水のような。
空のような。
とても澄んだ青です。
そして私は、もう一つの声を聞きました。
――蒼天の眠りが揺らいでいる。
――風が泣いている。
ビルセイヤ様。
これはきっと、次の導きです。
どうかお気をつけください。
王都で、皆様の無事を祈っています。
アイリス・アルティア』
◇◇◇
手紙を読み終えたビルセイヤは、しばらく何も言わなかった。
青い光。
蒼天の眠り。
風が泣いている。
「次の霊樹……。」
セシリアが静かに呟く。
『可能性は高い。』
ヴァルグラムが答える。
『紅蓮。』
『白枝。』
『残る二柱のうち、一柱が動き始めたのであろう。』
「西か。」
ツバサは腕を組む。
「また遠そうだな。」
「問題は場所です。」
エミリアが言う。
「王都から西と言われても範囲が広すぎます。」
「蒼天。」
「風。」
「青い光。」
フィリアが考え込む。
その時だった。
彼女の表情が変わる。
「……もしかして。」
「心当たりがあるのか?」
ビルセイヤが尋ねる。
フィリアはゆっくりと頷いた。
「確証はありません。」
「でも。」
彼女は真剣な表情で告げた。
「王都アルティアから遥か西。」
「高い山々に囲まれた場所に。」
「《蒼天の峡谷》と呼ばれる土地があります。」
「蒼天の峡谷……。」
「はい。」
フィリアは杖を握り締める。
「一年中、強い風が吹く峡谷です。」
「そして。」
僅かに声を落とした。
「私が《蒼雪の巫女》と呼ばれるようになった場所でもあります。」
◇◇◇
ビルセイヤたちは驚いてフィリアを見る。
これまで彼女は、自分の過去を詳しく語っていなかった。
ホームクランで仲間となり。
共に旅をして。
白き霊樹を救った。
だが。
《蒼雪の巫女》。
その異名の意味を、誰も深く尋ねてはいなかった。
フィリアは少しだけ寂しそうに微笑む。
「……どうやら。」
「私も、昔の話をしなければいけないみたいですね。」
窓の外。
西から吹く風が、ガルディアの街を静かに通り抜ける。
その風は一瞬だけ。
氷のように冷たかった。
次なる霊樹。
蒼天の峡谷。
そして、蒼雪の巫女フィリアの過去。
白き霊樹との契約を終えた旅は、早くも新たな導きへ向かい始めていた。
――続く。




