第百七十五話 辺境伯への帰還
白枝の泉を吹き抜ける風は、もう穢れを帯びてはいなかった。
白き霊樹の枝葉は穏やかに揺れ、泉の水は鏡のような透明さを取り戻している。
先ほどまで森全体を覆っていた重苦しい空気は消え、代わりに小鳥たちのさえずりが戻ってきていた。
「終わったんですね……。」
エミリアが静かに微笑む。
その頬を、一匹の小さな風の精霊が嬉しそうに飛び回った。
「ありがとうって言ってるみたい。」
フィリアも優しく笑う。
エルフである二人には、精霊たちの喜びがはっきりと伝わっていた。
◇◇◇
フェンリルは白き霊樹の根元まで歩み寄ると、静かに座り込んだ。
その姿は、再び森の守護者としての威厳に満ちている。
すると、白き霊樹の枝先から一枚の葉が舞い降り、フェンリルの額へ触れた。
淡い白い光が身体を包む。
「見て!」
セシリアが声を上げる。
フェンリルの灰銀色の毛並みが、以前よりもさらに神々しい輝きを帯び始めた。
額には小さな白い紋章が浮かび上がっている。
『正式に守護獣へ戻ったようだな。』
ヴァルグラムが満足そうに頷く。
『白き霊樹も安心したのであろう。』
フェンリルはビルセイヤへ顔を向け、小さく頭を下げた。
その金色の瞳には、深い感謝と信頼が宿っていた。
◇◇◇
「さて。」
ツバサが周囲を見回す。
「蛇の牙の残党がいないか確認しておこう。」
「そうだな。」
ビルセイヤも頷く。
一行は聖域を慎重に調べ始めた。
黒衣の信徒たちは、ガイゼルが倒れた時点で逃げ出したらしく、その姿はすでになかった。
残されていたのは、黒い祭具や魔法陣の痕跡、そしていくつかの木箱だけだった。
「これは……。」
フィリアが木箱を開く。
中には翡翠色の結晶や黒い魔石、古びた羊皮紙が何枚も収められていた。
「研究資料でしょうか。」
エミリアが一枚の羊皮紙を手に取る。
そこには古代文字と、白枝の泉を描いた地図のようなものが記されていた。
ビルセイヤは目を細める。
「持ち帰ろう。」
「辺境伯にも見てもらう必要がある。」
「蛇の牙の手掛かりになるかもしれない。」
全員が頷いた。
◇◇◇
その時だった。
草むらの向こうから足音が聞こえてきた。
「ビルセイヤ殿!」
聞き覚えのある声だった。
「ロドリグ!」
木々の間から姿を現したのは、ガルディア辺境伯家の騎士隊長補佐ロドリグだった。
その後ろには十名ほどの兵士たちが続いている。
「ご無事でしたか!」
ロドリグは一安心したように胸を撫で下ろした。
「入口で待機していたのですが、森から漂う魔力が突然変わりまして……。」
「異変が収まったように感じたので、辺境伯様の許可を得てここまで来ました。」
ビルセイヤは静かに頷く。
「ちょうど終わったところだ。」
ロドリグたちは聖域を見回した。
浄化された泉。
穏やかな霊樹。
倒れた黒い石柱の残骸。
そして、膝をついたまま意識を失っているガイゼル。
「まさか……。」
兵士たちは言葉を失った。
◇◇◇
「ロドリグ。」
ビルセイヤは静かに声を掛ける。
「行方不明だったベルンを探してくれ。」
「生きている可能性がある。」
「本当ですか!」
ロドリグは兵士たちへ振り返る。
「二班に分かれて周囲を捜索!」
「生存者を最優先だ!」
「はっ!」
兵士たちはすぐに森へ散っていった。
◇◇◇
それからしばらくして――。
「いました!」
森の奥から歓声が響く。
「ベルンです!」
ロドリグたちが担架で運んできたのは、もう一人の行方不明兵士ベルンだった。
衣服は破れ、全身に傷を負っていたが、確かに息をしている。
「良かった……。」
セシリアが胸を撫で下ろす。
エミリアはすぐに治癒魔法を施した。
「《ヒール》。」
淡い緑色の光がベルンを包み、傷口がゆっくりと塞がっていく。
「命に別状はありません。」
「眠っているだけです。」
「ありがとうございます!」
ロドリグは深々と頭を下げた。
「これで二人とも無事に帰れます。」
◇◇◇
ガイゼルは兵士たちによって拘束された。
禁術の反動で衰弱しており、もはや抵抗する力は残っていない。
「……終わったな。」
ツバサが大きく息を吐く。
「いや。」
ビルセイヤは空を見上げた。
「まだ終わってない。」
白き霊樹との契約。
残る二本の霊樹。
そして、蛇の牙という組織。
今回倒したのは、あくまで第三幹部ガイゼルだけだった。
組織そのものは、まだ世界のどこかで暗躍している。
◇◇◇
ロドリグはビルセイヤへ向き直る。
「辺境伯様がお待ちです。」
「森の異変が収まったことをご報告しなければなりません。」
「分かった。」
ビルセイヤは頷いた。
「ガルディアへ戻ろう。」
白枝の泉を最後に振り返る。
白き霊樹は穏やかに枝葉を揺らし、新たな契約者を見送るように白い葉を舞わせた。
こうしてルミナスの深森を巡る戦いは幕を閉じる。
しかし、その勝利は新たな旅の始まりでもあった。
世界樹を支える四霊樹。
残る二つの契約。
そして、蛇の牙の真の目的。
そのすべてが、ビルセイヤたちの未来で待ち受けていた。
――続く。




